折たく柴の記 / 『折たく柴の記』岡島に推薦を譲り、師が涙を流す
我が師なる人は、我をばそのむかしつかへられし加賀の家にすゝめむ事を思ひ給ひて、そのあらましを聞え給ひしが、加賀の人にて岡島といふが(すなはち忠四郎の事)我をたのみたりしには、我本國に老いたる母のあれば、いかにもして先生推薦給はらむ事を申して給はるべしといふ我其の事のよしをつぶさに申して、某つかへに從はむ事は、いづれの國をも撰ばず。彼の人は老いたる母の候ふなる國にて侍れば、某に代りてすゝめらるゝ事、某も又望む所なり。けふよりしては、某を以て彼の國にすゝめられむ事、固辭申す由を申し切りてければ、此の事をつくづくときゝ給ひ、今の代、誰かはかゝる事をば、申し聞ゆべき。古人を今に見るとは、かゝる事にこそとの給ひて、涙を流し給ひしが。此の後常に此の事をば、人人にも語り給ひたりけり。されば、やがて岡島をば、彼の國にすゝめられき。かくて我三十七歳の冬十月十日に、高力豫州の、我が師の許に來りて、門中の人々誰かは其の最におはする。我が心のやうにて問ひまゐらせよと、戸田長州の申すなりといはれしかば、(戸田は當時甲府の家老)足下にもよくしり給ひしものをとて、我が事をもて答へらる。同じき十五日の夕、豫州の久しく見侍らぬといふなり。彼のもとにゆき給へと命ぜられしに、ゆきむかふに、尋ね問はれしことなど、對ふることありき。十二月の五日に、豫州また我が師の許に來りて、長州のことばを傳へて、我を藩邸にすゝめられむ事をはからる。されど我が師の心にみち給はぬ事おはしければ、まづかれに申してこそ、御答申すべけれとのたまひ、其の夜我をめしてのたまひし事どもあり。
新字:我が師なる人は、我をばそのむかしつかへられし加賀の家にすゝめむ事を思ひ給ひて、そのあらましを聞え給ひしが、加賀の人にて岡島といふが(すなはち忠四郎の事)我をたのみたりしには、我本国に老いたる母のあれば、いかにもして先生推薦給はらむ事を申して給はるべしといふ我其の事のよしをつぶさに申して、某つかへに従はむ事は、いづれの国をも撰ばず。彼の人は老いたる母の候ふなる国にて侍れば、某に代りてすゝめらるゝ事、某も又望む所なり。けふよりしては、某を以て彼の国にすゝめられむ事、固辞申す由を申し切りてければ、此の事をつくづくときゝ給ひ、今の代、誰かはかゝる事をば、申し聞ゆべき。古人を今に見るとは、かゝる事にこそとの給ひて、涙を流し給ひしが。此の後常に此の事をば、人人にも語り給ひたりけり。されば、やがて岡島をば、彼の国にすゝめられき。かくて我三十七歳の冬十月十日に、高力予州の、我が師の許に来りて、門中の人々誰かは其の最におはする。我が心のやうにて問ひまゐらせよと、戸田長州の申すなりといはれしかば、(戸田は当時甲府の家老)足下にもよくしり給ひしものをとて、我が事をもて答へらる。同じき十五日の夕、予州の久しく見侍らぬといふなり。彼のもとにゆき給へと命ぜられしに、ゆきむかふに、尋ね問はれしことなど、対ふることありき。十二月の五日に、予州また我が師の許に来りて、長州のことばを伝へて、我を藩邸にすゝめられむ事をはからる。されど我が師の心にみち給はぬ事おはしければ、まづかれに申してこそ、御答申すべけれとのたまひ、其の夜我をめしてのたまひし事どもあり。
書き下し
我が師なる人は、我をばそのむかしつかへられし加賀の家にすゝめむ事を思ひ給ひて、そのあらましを聞え給ひしが、加賀の人にて岡島といふが(すなはち忠四郎の事)我をたのみたりしには、我本國に老いたる母のあれば、いかにもして先生推薦給はらむ事を申して給はるべしといふ我其の事のよしをつぶさに申して、某つかへに從はむ事は、いづれの國をも撰ばず。彼の人は老いたる母の候ふなる國にて侍れば、某に代りてすゝめらるゝ事、某も又望む所なり。けふよりしては、某を以て彼の國にすゝめられむ事、固辭申す由を申し切りてければ、此の事をつくづくときゝ給ひ、今の代、誰かはかゝる事をば、申し聞ゆべき。古人を今に見るとは、かゝる事にこそとの給ひて、涙を流し給ひしが。此の後常に此の事をば、人人にも語り給ひたりけり。されば、やがて岡島をば、彼の國にすゝめられき。かくて我三十七歳の冬十月十日に、高力豫州の、我が師の許に來りて、門中の人々誰かは其の最におはする。我が心のやうにて問ひまゐらせよと、戸田長州の申すなりといはれしかば、(戸田は當時甲府の家老)足下にもよくしり給ひしものをとて、我が事をもて答へらる。同じき十五日の夕、豫州の久しく見侍らぬといふなり。彼のもとにゆき給へと命ぜられしに、ゆきむかふに、尋ね問はれしことなど、對ふることありき。十二月の五日に、豫州また我が師の許に來りて、長州のことばを傳へて、我を藩邸にすゝめられむ事をはからる。されど我が師の心にみち給はぬ事おはしければ、まづかれに申してこそ、御答申すべけれとのたまひ、其の夜我をめしてのたまひし事どもあり。
現代語訳
私の師である人は、私を、師がその昔仕えておられた加賀の家に推薦しようとお考えになって、そのあらましをお申し入れになったのだが、加賀の人で岡島という者が(すなわち忠四郎のことである)、私を頼みにして、「自分は本国に老いた母がいるので、何とかして先生にご推薦いただけるよう、お申し添えいただきたい」という。私はそのことの事情を詳しく申し上げて、「私の仕官は、どの国をも選びません。あの人は老いた母がおられる国でございますから、私に代わってご推薦くださることは、私もまた望むところでございます。今日からは、私をあの国へご推薦くださることは、固くご辞退申し上げます」と申し切ったところ、師はこのことをつくづくとお聞きになって、「今の世に、誰がこのようなことを申し上げるだろうか。古人を今に見るとは、このようなことをいうのだ」とおっしゃって、涙を流されたが、この後は常にこのことを、人々にもお語りになった。そうして、すぐに岡島をあの国にご推薦なさった。こうして私が三十七歳の冬、十月十日に、高力豫州が、私の師の許に来て、「門下の人々の中で誰が最もすぐれておられるか。私の心づもりのようにして問い申せと、戸田長州が申すのです」と言われたので、(戸田は当時、甲府の家老であった。)「あなたもよくご存じの者を」と言って、私のことをもって答えられた。同じ十五日の夕方、「豫州が久しくお目にかかっていないというのだ。彼のもとへ行きなさい」と命じられたので、行ったところ、尋ね問われたことなどに、お答えすることがあった。十二月の五日に、豫州がまた私の師の許に来て、長州の言葉を伝えて、私を藩邸に推薦することについて相談された。しかし、私の師の心に満たないことがおありだったので、まず彼に申してからお答え申そうとおっしゃって、その夜、私を召して仰せられたことがあった。
解説

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