折たく柴の記 / 『折たく柴の記』四五歳の聴講と六歳の詩学
此の後は、常に戯れに筆とりて物かく事のみをしへければ、おのづから日々に文字を見しりたれど、物よむ師友とすべき人なかりしかば、たゞ往來もの丶類などをよみならふのみなりき。戸部の家人に富田とて、生國は加賀國の人と聞えしが、太平記の評判といふ書を傳へて、其の事を講ずるあり。(はじめは小右衞門某といふ。後には覺信といひし人なり)夜々に我が父など寄り合ひつゝ、其の事を講ぜしめらる。我が四五歳の時に、つねに其の座に侍りてこれをきくに、夜いたくふけぬれど、つひに坐をさりし事もなく、講畢りぬれば、其の義を請ひ問ふ事などありしを、人々奇特の事なりといひき。六歳の夏の頃、上松といひし人の、すこしく文字などありしが(忠兵衞某といふ。駿河の今川の家人上松が後にて連歌などをこのみて、物よくかきし人なりき。)七言絶句の詩一首をしへて、其の意を解き聞かせしに、やがて誦をなしければ、三首までをしへられしをば、人にも講じ聞かせたりき。(三傳市虎人皆從といふ詩と、朝鮮國七歳の兒の、太閤の前にて作りしといふ詩と、自休藏主とかいふ僧江の島にて作りし詩なりき)此の兒文才あり。いかにも師をえらびて、學ばしめらるべしなど、彼の人もいひしかど、かたくなるむかし人だちのいひしは、むかしよりいひ傳へし事あり。利根、氣根、黄金の三こんなくしては、學匠になりがたじといふなり。此の兒利根こそ生れつきたらめ。なほいとけなくしてその氣根の事もはかりがたく、家富めりとも見えねば、黄金の事心得られずなどいひあへりしに、我が父も戸部の御いつくしみによりて、つねにかたはらをはなれまゐらせず。學に入れ師にしたがはしめむ事もかなふべからず。されどいとけなきより、物かく事をば、戸部も人々にかたりほこらせ給ひし事なれば、せめて物をばかき習はしめたくてこそ侍れとて
新字:此の後は、常に戯れに筆とりて物かく事のみをしへければ、おのづから日々に文字を見しりたれど、物よむ師友とすべき人なかりしかば、たゞ往来もの丶類などをよみならふのみなりき。戸部の家人に富田とて、生国は加賀国の人と聞えしが、太平記の評判といふ書を伝へて、其の事を講ずるあり。(はじめは小右衛門某といふ。後には覚信といひし人なり)夜々に我が父など寄り合ひつゝ、其の事を講ぜしめらる。我が四五歳の時に、つねに其の座に侍りてこれをきくに、夜いたくふけぬれど、つひに坐をさりし事もなく、講畢りぬれば、其の義を請ひ問ふ事などありしを、人々奇特の事なりといひき。六歳の夏の頃、上松といひし人の、すこしく文字などありしが(忠兵衛某といふ。駿河の今川の家人上松が後にて連歌などをこのみて、物よくかきし人なりき。)七言絶句の詩一首をしへて、其の意を解き聞かせしに、やがて誦をなしければ、三首までをしへられしをば、人にも講じ聞かせたりき。(三伝市虎人皆従といふ詩と、朝鮮国七歳の児の、太閤の前にて作りしといふ詩と、自休蔵主とかいふ僧江の島にて作りし詩なりき)此の児文才あり。いかにも師をえらびて、学ばしめらるべしなど、彼の人もいひしかど、かたくなるむかし人だちのいひしは、むかしよりいひ伝へし事あり。利根、気根、黄金の三こんなくしては、学匠になりがたじといふなり。此の児利根こそ生れつきたらめ。なほいとけなくしてその気根の事もはかりがたく、家富めりとも見えねば、黄金の事心得られずなどいひあへりしに、我が父も戸部の御いつくしみによりて、つねにかたはらをはなれまゐらせず。学に入れ師にしたがはしめむ事もかなふべからず。されどいとけなきより、物かく事をば、戸部も人々にかたりほこらせ給ひし事なれば、せめて物をばかき習はしめたくてこそ侍れとて
書き下し
此の後は、常に戯れに筆とりて物かく事のみをしへければ、おのづから日々に文字を見しりたれど、物よむ師友とすべき人なかりしかば、たゞ往來もの丶類などをよみならふのみなりき。戸部の家人に富田とて、生國は加賀國の人と聞えしが、太平記の評判といふ書を傳へて、其の事を講ずるあり。(はじめは小右衞門某といふ。後には覺信といひし人なり)夜々に我が父など寄り合ひつゝ、其の事を講ぜしめらる。我が四五歳の時に、つねに其の座に侍りてこれをきくに、夜いたくふけぬれど、つひに坐をさりし事もなく、講畢りぬれば、其の義を請ひ問ふ事などありしを、人々奇特の事なりといひき。六歳の夏の頃、上松といひし人の、すこしく文字などありしが(忠兵衞某といふ。駿河の今川の家人上松が後にて連歌などをこのみて、物よくかきし人なりき。)七言絶句の詩一首をしへて、其の意を解き聞かせしに、やがて誦をなしければ、三首までをしへられしをば、人にも講じ聞かせたりき。(三傳市虎人皆從といふ詩と、朝鮮國七歳の兒の、太閤の前にて作りしといふ詩と、自休藏主とかいふ僧江の島にて作りし詩なりき)此の兒文才あり。いかにも師をえらびて、學ばしめらるべしなど、彼の人もいひしかど、かたくなるむかし人だちのいひしは、むかしよりいひ傳へし事あり。利根、氣根、黄金の三こんなくしては、學匠になりがたじといふなり。此の兒利根こそ生れつきたらめ。なほいとけなくしてその氣根の事もはかりがたく、家富めりとも見えねば、黄金の事心得られずなどいひあへりしに、我が父も戸部の御いつくしみによりて、つねにかたはらをはなれまゐらせず。學に入れ師にしたがはしめむ事もかなふべからず。されどいとけなきより、物かく事をば、戸部も人々にかたりほこらせ給ひし事なれば、せめて物をばかき習はしめたくてこそ侍れとて
現代語訳
このあとは、いつも遊びに筆をとって物を書くことばかりを教えられたので、自然と日々に文字を見知るようになったが、書物を読む師や友とすべき人がなかったので、ただ往来物の類を読み習うだけであった。戸部の家人に富田という者があり、生国は加賀国の人と聞いたが、太平記評判という書を伝えて、その内容を講ずることがあった。(初めは小右衛門某といった。後には覚信といった人である。)夜ごとに私の父などが寄り合って、その講義をさせられた。私が四、五歳のとき、いつもその座に控えて聞いていたが、夜がひどくふけても、ついに座を去ったことがなく、講義が終わると、その意味を問いただすことなどもあったのを、人々は不思議なことだと言った。六歳の夏のころ、上松という人が、少し文字などを心得ていて(忠兵衛某という。駿河の今川の家人上松の子孫で、連歌などを好み、よく書く人であった。)、七言絶句の詩を一首教え、その意味を解き聞かせたところ、やがてそらんじたので、三首まで教えられたのを、人にも講じて聞かせた。(「三伝市虎人皆従」という詩と、朝鮮国の七歳の子が太閤の前で作ったという詩と、自休蔵主とかいう僧が江の島で作った詩であった。)この子には文才がある。ぜひ師を選んで学ばせるべきだなどと、あの人も言ったが、頑固な昔気質の人たちが言うには、昔から言い伝えがある。利根・気根・黄金の三つの根がなくては、学者になりがたいという。この子は利根こそ生まれつきあるだろう。だがまだ幼くて気根のほどは量りがたく、家が富んでいるとも見えないので、黄金のことは納得できないなどと言い合ったところ、私の父も、戸部のご慈愛によっていつもおそばを離れ申さず、学問に入れ師に従わせることもかなうはずがない。けれども幼いころから物を書くことは、戸部も人々に語って自慢なさったことなので、せめて物を書くことだけは習わせたいと思います、と言って、
解説

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折たく柴の記・『折たく柴の記』八九歳の習字と十一歳の代筆我が八歳の秋、戸部の上總國にゆき給ひしあとにて、手習ふ事を敎へしめらる。其の冬の十二月なかば、戸部歸り參り給ひしかば、つねにかたはらにさぶらふ事、もとのごとく、明けの年の秋、また國にゆき給ひしあとにて課をたてられて、日のうちには、行草の字三千、夜に入りて一千字を限りてかき出すべしと命ぜられたり。冬に至りぬれば、日短くなりて、課はまだみたざるに、日暮れむとする事たび〳〵にて、西向なる竹縁のある上に机をもち出でて、書き終りぬる事もありき。また夜に入りて手習ふに、睡の催して堪へがたきに、我につけられしものと、ひそかにはかりて、水二桶づゝ、かの竹縁に汲みおかせて、いたくねぶりの催しぬれば、衣ぬぎすてゝ、まづ一桶の水をかゝりて、衣うちきて習ふにはじめひやゝかなるに目さむる心地すれど、しばし程經ぬれば、身あたたかになりて、また〳〵眠くなりぬれば、又水をかゝる事さきの事の如くす。二たび水をかゝりぬるほどには、大やうは、課をもみてたりき。これ我が九歳の秋冬の間の事なり。かゝりし程に、此の頃よりは、我が父の人に贈り給ふ文をば、かたの如くにはかきたり。十一歳の秋、また課をたてられて、庭訓往來を習はしめられ、十一月に至りて、十日のうちに淨寫してまゐらすべしと命ぜられ、命ぜられし如くに事を終へしかば、冊になして戸部に見せ進らす。ほめ給ふ事大かたならず。十三の時よりは、戸部の人と贈答し給ふ程の文ども、大かたは我に命ぜられき。
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