折たく柴の記 / 『折たく柴の記』七歳の疱瘡と三歳の写字
七歳と申す正月元日より、疱瘡を煩ひ出して、以の外の難儀に及びしかば、戸部の母公よりは、人はしをかけて、有驗の僧など屈請し給ひ、我が枕上にて祈禱の事ども行はる。父にておはせし人は、かゝる事はし給はぬ人なりけれど、主の母公の仰せなりしかば、止めらるべきにもあらず。戸部は近く召しつかはれしもの二人(關、山本といひし醫なり)つけられて、醫術すでにつきぬと聞き給ひ、もしもやたすかる事もあるべきかと仰せ下されて、種々の蕃藥どもをあたへ給ひしほどに、ウニカウルをあたへられしに及びて、毒氣忽に發して赤色を發しければ、それよりこそ、此の世の人となりたるなれ。醫の功を奏せし事にはあらざりしを、我廿餘歳の時に、其の時に藥あたへし、順庵の玄朔といひし醫師の語りたりき。(石川といふ。後にめし出されし人なりき)かゝりしかば、帶とき袴着などといふ事ども、、その年比をも待つにおよばず。戸部のみづから帶をもとき給ひ、袴をも調ぜさせて、きせ給ひたりき。彼の母公の終り給ひたりし事は、我が九歳の時の十一月廿六日の事にておはしたりき。(寛文五年乙巳の事なり)我が幼き比は。上野物語といふ帥紙ありけり。これは寛永寺の花見に人のむれ來る事どもをしるししなり。我が三歳たりし春の比にかあるべき火燵に足をさしてはらばひ居て、その草紙を見ながら、筆紙をもとめて、すきうつしけるを、母にておはせし人の見給ひ、十が中一二は、まことの文字もあるを、我が父に見せまゐらせしを、父のともなる人の來り見しより、人々も聞き傳へて、そのうつししものどもを、とり傳ふる事になりたり。我が十六七歳の時、上總國にゆきしに、かしこにてそのうつしものを見ることを得たりき。又其の比屏風に我が名を題せしに二字は其の體をなしたるものの、後までありしが、火にやけうせたりければ、今はそのせつのものは、我がもとにはのこらず。
新字:七歳と申す正月元日より、疱瘡を煩ひ出して、以の外の難儀に及びしかば、戸部の母公よりは、人はしをかけて、有験の僧など屈請し給ひ、我が枕上にて祈祷の事ども行はる。父にておはせし人は、かゝる事はし給はぬ人なりけれど、主の母公の仰せなりしかば、止めらるべきにもあらず。戸部は近く召しつかはれしもの二人(関、山本といひし医なり)つけられて、医術すでにつきぬと聞き給ひ、もしもやたすかる事もあるべきかと仰せ下されて、種々の蕃薬どもをあたへ給ひしほどに、ウニカウルをあたへられしに及びて、毒気忽に発して赤色を発しければ、それよりこそ、此の世の人となりたるなれ。医の功を奏せし事にはあらざりしを、我廿余歳の時に、其の時に薬あたへし、順庵の玄朔といひし医師の語りたりき。(石川といふ。後にめし出されし人なりき)かゝりしかば、帯とき袴着などといふ事ども、、その年比をも待つにおよばず。戸部のみづから帯をもとき給ひ、袴をも調ぜさせて、きせ給ひたりき。彼の母公の終り給ひたりし事は、我が九歳の時の十一月廿六日の事にておはしたりき。(寛文五年乙巳の事なり)我が幼き比は。上野物語といふ帥紙ありけり。これは寛永寺の花見に人のむれ来る事どもをしるししなり。我が三歳たりし春の比にかあるべき火燵に足をさしてはらばひ居て、その草紙を見ながら、筆紙をもとめて、すきうつしけるを、母にておはせし人の見給ひ、十が中一二は、まことの文字もあるを、我が父に見せまゐらせしを、父のともなる人の来り見しより、人々も聞き伝へて、そのうつししものどもを、とり伝ふる事になりたり。我が十六七歳の時、上総国にゆきしに、かしこにてそのうつしものを見ることを得たりき。又其の比屏風に我が名を題せしに二字は其の体をなしたるものの、後までありしが、火にやけうせたりければ、今はそのせつのものは、我がもとにはのこらず。
書き下し
七歳と申す正月元日より、疱瘡を煩ひ出して、以の外の難儀に及びしかば、戸部の母公よりは、人はしをかけて、有驗の僧など屈請し給ひ、我が枕上にて祈禱の事ども行はる。父にておはせし人は、かゝる事はし給はぬ人なりけれど、主の母公の仰せなりしかば、止めらるべきにもあらず。戸部は近く召しつかはれしもの二人(關、山本といひし醫なり)つけられて、醫術すでにつきぬと聞き給ひ、もしもやたすかる事もあるべきかと仰せ下されて、種々の蕃藥どもをあたへ給ひしほどに、ウニカウルをあたへられしに及びて、毒氣忽に發して赤色を發しければ、それよりこそ、此の世の人となりたるなれ。醫の功を奏せし事にはあらざりしを、我廿餘歳の時に、其の時に藥あたへし、順庵の玄朔といひし醫師の語りたりき。(石川といふ。後にめし出されし人なりき)かゝりしかば、帶とき袴着などといふ事ども、、その年比をも待つにおよばず。戸部のみづから帶をもとき給ひ、袴をも調ぜさせて、きせ給ひたりき。彼の母公の終り給ひたりし事は、我が九歳の時の十一月廿六日の事にておはしたりき。(寛文五年乙巳の事なり)我が幼き比は。上野物語といふ帥紙ありけり。これは寛永寺の花見に人のむれ來る事どもをしるししなり。我が三歳たりし春の比にかあるべき火燵に足をさしてはらばひ居て、その草紙を見ながら、筆紙をもとめて、すきうつしけるを、母にておはせし人の見給ひ、十が中一二は、まことの文字もあるを、我が父に見せまゐらせしを、父のともなる人の來り見しより、人々も聞き傳へて、そのうつししものどもを、とり傳ふる事になりたり。我が十六七歳の時、上總國にゆきしに、かしこにてそのうつしものを見ることを得たりき。又其の比屏風に我が名を題せしに二字は其の體をなしたるものの、後までありしが、火にやけうせたりければ、今はそのせつのものは、我がもとにはのこらず。
現代語訳
七歳になった正月元日から疱瘡を患い出し、ひどい難儀に及んだので、戸部の母君は、人橋をかけて霊験のある僧などを招き、私の枕元で祈禱などを行わせた。父であった人はこのようなことをなさらない人であったが、主君の母君の仰せであったから、止められるはずもなかった。戸部は近くに召し使っていた者二人(関、山本という医者である)をつけてくださり、医術はすでに尽きたと聞かれ、もしかしたら助かることもあるかと仰せ下されて、さまざまな蕃薬を与えてくださったが、ウニカウルを与えられるに及んで、毒気がたちまち発して赤い色を現したので、それでこそこの世の人となったのである。医者の功によることではなかったと、私が二十余歳のとき、そのとき薬を与えた順庵の玄朔という医師が語ったことである。(石川という。後に召し出された人であった。)こうであったから、帯解きや袴着などということも、その年ごろを待つまでもなかった。戸部がみずから帯を解き、袴をも調えさせて、着せてくださった。あの母君がお亡くなりになったのは、私が九歳のときの十一月二十六日のことであった。(寛文五年乙巳のことである。)私の幼いころは、上野物語という草紙があった。これは寛永寺の花見に人が群れ来る様子を記したものである。私が三歳であった春のころであろうか、火燵に足を入れて腹這いになり、その草紙を見ながら、筆と紙を求めて、透き写しをしていたのを、母であった人がご覧になり、十字のうち一、二字は本当の文字もあるのを、私の父にお見せ申し上げたところ、父の友人が来て見たのをきっかけに、人々も聞き伝えて、その写したものを取り伝えることになった。私が十六、七歳のとき、上総国に行ったが、そこでその写したものを見ることができた。また、そのころ屏風に私の名を題したところ、二字は形をなしたものの、後まであったが、火に焼けてしまったので、今はそのころのものは私の手もとには残っていない。
解説

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