遠羅天釜 / 『遠羅天釜』幻化は仏界の大宝
客曰幻化法門我復何望若子所言則畫焉者歟予曰不然三乘所趣法體無異但心有大小故爲差耳夫以幻幻於幻則所幻而可幻以幻幻非幻故雖幻而非幻是故涅槃經曰善男子或有是色或非是色言非色者即是聲聞緣覺解脫言是色者即是諸佛如來解脫善男子是故解脫亦色亦非色菩薩從上來設度門於谷響修萬行於空華前所謂種種色像即是清淨寶珠而事理不二者也雖然若不識破幻化則幻上頭復逐幻化遂爲其所魅著抵死不能脫也是吾老師所以爲我門昧寶珠者而痛卻之也豈復撥無幻化而證眞實者哉龍樹大士曰寧可起有見如須彌山不可起空見如芥子許如寡聞比丘受持方等千部生得陷墜當知除幻化而無佛陀離幻化而無敎乘儻滅爐如幻之神力而焦敗下化之佛種縱令得成等正覺是咸爲顚倒二乘與佛道逈而殊矣如諸佛妙用感則必有應所應復爲感所感復有應則無不憑此如幻力猶如爲國者以救凡民爲本也是名爲億兆君子當知幻化是佛界之大寶聚幻化是法門之大柱礎菩薩之種子也諸佛之本命也然現之與卻之未甞無妙處也唯自從寶珠體得上而受用將來自從幻化識破上而與奪將去者也豈亦容易哉豈亦容易哉若夫胡亂禪者輕慢白衣道之不學敎之不明大言放語效師之顰未免誹謗如來希有威儀孤負老師血滴親言吾子其思之客唯唯而退便作答客難寬延四辛未歲林鐘日參學某甲拜識
新字:客曰幻化法門我復何望若子所言則画焉者歟予曰不然三乗所趣法体無異但心有大小故為差耳夫以幻幻於幻則所幻而可幻以幻幻非幻故雖幻而非幻是故涅槃経曰善男子或有是色或非是色言非色者即是声聞縁覚解脱言是色者即是諸仏如来解脱善男子是故解脱亦色亦非色菩薩従上来設度門於谷響修万行於空華前所謂種種色像即是清浄宝珠而事理不二者也雖然若不識破幻化則幻上頭復逐幻化遂為其所魅著抵死不能脱也是吾老師所以為我門昧宝珠者而痛却之也豈復撥無幻化而証真実者哉竜樹大士曰寧可起有見如須弥山不可起空見如芥子許如寡聞比丘受持方等千部生得陥墜当知除幻化而無仏陀離幻化而無教乗儻滅炉如幻之神力而焦敗下化之仏種縦令得成等正覚是咸為顛倒二乗与仏道逈而殊矣如諸仏妙用感則必有応所応復為感所感復有応則無不憑此如幻力猶如為国者以救凡民為本也是名為億兆君子当知幻化是仏界之大宝聚幻化是法門之大柱礎菩薩之種子也諸仏之本命也然現之与却之未甞無妙処也唯自従宝珠体得上而受用将来自従幻化識破上而与奪将去者也豈亦容易哉豈亦容易哉若夫胡乱禅者軽慢白衣道之不学教之不明大言放語効師之顰未免誹謗如来希有威儀孤負老師血滴親言吾子其思之客唯唯而退便作答客難寛延四辛未歳林鐘日参学某甲拝識
書き下し
客曰く、「幻化の法門、我れ復た何をか望まん。若し子の言ふ所の如くんば、則ち畫る者か」と。予曰く、「然らず。三乘の趣く所、法體は異なること無し。但だ心に大小有るが故に差を爲すのみ。夫れ幻を以て幻に幻すれば、則ち幻する所は幻すべし。幻を以て幻に非ざるを幻す、故に幻と雖も幻に非ず。是の故に涅槃經に曰く、善男子、或いは是の色有り、或いは是の色に非ず。色に非ずと言ふは、即ち是れ聲聞緣覺の解脫なり。是れ色と言ふは、即ち是れ諸佛如來の解脫なり。善男子、是の故に解脫は亦た色にして亦た色に非ず、と。菩薩は上より來のかた度門を谷響に設け、萬行を空華の前に修む。所謂る種種の色像は即ち是れ清淨寶珠にして、事理不二なる者なり。然りと雖も、若し幻化を識破せずんば、則ち幻の上頭に復た幻化を逐ひ、遂に其の魅著する所と爲りて、死に抵るまで脫すること能はず。是れ吾が老師の、我が門の寶珠に昧き者の爲に痛く之を卻くる所以なり。豈に復た幻化を撥無して眞實を證する者ならんや。龍樹大士曰く、寧ろ有見を起こすこと須彌山の如くなるべし、空見を起こすこと芥子許りの如くなるべからず、と。寡聞の比丘の方等千部を受持するが如きは、生きながら陷墜を得ん。當に知るべし、幻化を除きて佛陀無く、幻化を離れて敎乘無し。儻し如幻の神力を滅爐して、下化の佛種を焦敗せば、縱令ひ等正覺を成ずるを得とも、是れ咸な顚倒たり。二乘は佛道と逈かに殊なり。諸佛の妙用の如きは、感ずれば則ち必ず應有り、應ずる所は復た感の所と爲り、感ずる所に復た應有り、則ち此の如幻の力に憑らざる無し。猶ほ國を爲むる者の、凡民を救ふを以て本と爲すが如きなり。是れ名づけて億兆の君子と爲す。當に知るべし、幻化は是れ佛界の大寶聚、幻化は是れ法門の大柱礎、菩薩の種子、諸佛の本命なり。然れば現ずると之を卻くるとは、未だ甞て妙處無くんばあらざるなり。唯だ寶珠の體より得上して將來を受用し、幻化の識破より上りて將去を與奪する者なり。豈に亦た容易ならんや、豈に亦た容易ならんや。若し夫れ胡亂の禪者は、白衣を輕慢し、道は學ばず敎は明らかならず、大言放語して師の顰に效ひ、如來希有の威儀を誹謗するを免れず、老師血滴の親言に孤負す。吾子其れ之を思へ」と。客、唯唯として退く。便ち答客難を作る。寬延四辛未の歲、林鐘の日、參學某甲拜識す。
現代語訳
客が言った。「幻化の法門ならば、私はもう何を望もうか。もしあなたの言うとおりなら、自ら見切りをつける者ということになるのではないか。」私は言った。「そうではない。三乗の趣くところ、法の本体は異ならない。ただ心に大小があるから差ができるだけである。幻をもって幻に幻ずれば、幻ぜられるものも幻ずべきものとなるが、幻をもって幻でないものを幻ずるのだから、幻でありながら幻ではない。それゆえ涅槃経に「善男子よ、あるいはこれは色であり、あるいは色ではない。色ではないというのは、声聞・縁覚の解脱である。色であるというのは、諸仏如来の解脱である。善男子よ、それゆえ解脱は色でもあり色でもない」とある。菩薩は古来、救いの門を谷のこだまの中に設け、万行を空中の花の前に修めてきた。いわゆる種々の色像は清浄な宝珠そのものであり、事と理は不二なのである。しかしながら、もし幻化を見破らなければ、幻の上にさらに幻化を追い、ついにはそれに取り憑かれて、死ぬまで抜け出せない。これがわが老師が、わが門下で宝珠に昧い者のために厳しくこれを退ける理由である。どうしてまた幻化を否定して真実を証する者であろうか。龍樹大士は「むしろ有見を起こすことは須弥山ほどであっても、空見を起こすことは芥子粒ほどであってもいけない」と言った。聞くところの少ない比丘が方等経千部を受持しても、生きながら地獄に落ちる。知るがよい、幻化を除いて仏陀はなく、幻化を離れて教えの乗り物はない。もし如幻の神力を滅ぼして、衆生を化導する仏の種を焦がし損なえば、たとえ等正覚を成し得ても、すべて顛倒である。二乗は仏道とはるかに異なる。諸仏の妙用は、感ずれば必ず応があり、応ずるところがまた感ずるところとなり、感ずるところにまた応があるので、この如幻の力に拠らないものはない。それは国を治める者が、庶民を救うことを根本とするようなものである。これを億兆の君子と名づける。知るがよい、幻化は仏界の大きな宝の聚、幻化は法門の大きな柱の礎、菩薩の種子、諸仏の本命である。だから、現すことも退けることも、妙処がないわけではない。ただ宝珠の本体から得上して将来を受用し、幻化を見破って上り、これから先を与奪する者である。どうして容易であろうか、どうして容易であろうか。そもそも、でたらめな禅者は、在家を軽んじ、道を学ばず、教えを明らかにせず、大言放語して師の眉をひそめる様をまね、如来の希有の威儀を誹謗することを免れず、老師の血を滴らせるような親切な言葉に背く。あなたはよくこれを考えよ。」客は「はい」と答えて退いた。そこでこの答客難を作った。寛延四年辛未の歳、林鐘(旧暦六月)の日、参学の某甲が拝んで識す。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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遠羅天釜・『遠羅天釜』禅浄兼修を退ける理由淨土を事とするが如きは、攝取して捨てず、我を計り相に著する族に於いて、巧みに根機に逗ふ、蓋し逼和の法門なり。其の珠體より之を言へば、則ち幻化に非ずして何ぞや。是の故に圓覺經に曰く、不可說恒河沙の諸佛世界は、猶ほ空華の亂起亂滅するが如し。當に知るべし、一切の世界は皆な幻の如くにして住すと。是を以て實敎の明らかにする所、僉な無形を以て淨土と爲す。華嚴に曰く、眞に依りて往く、國土に非ずと。生公も亦た曰く、佛は有形の累ありて、土に託して以て居る。佛は是れ常住法身なり、何ぞ國土を須ゐん。當に知るべし、十方諸佛の有する所の國土は、悉く是れ幻化にして眞實に非ざることを、と。是に由りて之を觀れば、佛道は必ず茲に在らざること、鑿然たり。知らざる者は自ら謂ふ、禪にして淨土を兼ぬと。虎にして翼を挾む者なり。或いは謂ふ、禪にして淨土無しと。十人に九は路を蹉つ。然らば則ち彼の韓・墨・楊・申の徒の如きは、帝者をして國人の業を習はしめんと謂ふか。啻に其の祚を有つこと能はざるのみならず、必ず其の國を亡ぼすに至らん。苟くも其の道の明らかならざるを憂へば、惟だ痛勵密進して自ら其の德を全うするに在るのみ。奚ぞ兼ぬるを以て爲さん。華嚴觀に云く、有信不信の法界の信、是れ邪なるか、と。凡そ諸經論の中、具さに二行を明かす。一は無念、二は有念なり。皆な佛道を成ずべしと雖も、優劣は懸殊なり。參禪辨道は即ち無念無相の念佛にして、此を眞如三昧と謂ふ。淨土を欣求するは即ち存想計名の念佛にして、此を修習淨業と謂ふ。但だ能く不二に通達すれば、便ち眞の佛子たり。想ふに夫の兼ぬる者は、蓋し二本なるが故なり。觀經に云く、諸佛如來は是れ法界身なり。是の心は即ち是れ三十二相八十隨形好なり。是の心、佛と作り、是の心是れ佛なり、と。又た曰く、佛身の高さ六十萬億那由多恒河沙由旬、彼の佛の圓光は百億の三千大千世界の如し、と。如來誠諦の語、此に到りて內燈を顯示す。其の旨甚だ深し。名づけて恢廓廣大、超勝獨妙、建立常然、衰無く變無きの妙土と曰ふ。此くの如き妙土は、形相を以て莊嚴すべからず、金珠を以て修飾すべからざるなり。所以に金剛般若に曰く、若し菩薩、是の言を作さん、我れ當に佛土を莊嚴すべしと。是れ菩薩と名づけず。何を以ての故に。如來の說く莊嚴佛土とは、即ち莊嚴に非ず、是れを莊嚴と名づく、と。又た維摩經に曰く、其の心の淨きに隨ひて則ち佛土淨し、と。果して此くの如くんば、則ち參禪學道は豈に是れ佛土を莊嚴するに非ずや。彼の元明の禪者、自ら其の造詣の精ならざるを刷がんと欲す。故に傅會して以て之を文る。甚だしき者は邯鄲の步に過ぎざるなり。陽には之を慕ひ、陰には之に悖る。又た何をか取らん。世の佛を學ぶ者、狐疑して之を能く正す莫く、雷同して難を易に換ふ。則ち如來の正法眼藏、復た幾んど息まんとす。思はざるべけんや。吾が師の之を闢くこと廓如たり。豈に辯を好まんや。已むを得ざるなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』機根の違いと五性の差別問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一眞法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、總てこれをいはゞ五類あり。一つには聲聞性、二つには緣覺性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。聲聞緣覺の二乘は所學の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乘心となづく衆生を利益せんために大乘の道を求むるをば菩薩と號す、有る時は小乘心を發し、有る時は大乘心を發して根性さだめなきは不定性なり、一切の佛法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる處を論せば實に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。圓覺經に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を發揮して五性の差別を顯出せり。又云く、圓覺の自性は五性にあらず、五性に隨つて差別の相を現ず、實相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑經に云く、如來は有にあらず無にあらず出にあらず沒にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも說くことなし。しかるを愚人は如來出世して法を說きて人を度すと思へり。如來の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、來に非ず去に非ず有に非ず無に非ず內に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華嚴經に云く、眞淨界の中には佛もなく衆生もなしと云云。釋論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ敎說をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乘の梵語なり、大小權實いまだわかれざる處を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖敎をば信ぜず、方便の門に心をつけて敎に大小權實を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。