夢中問答集 / 『夢中問答集』機根の違いと五性の差別
問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一眞法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、總てこれをいはゞ五類あり。一つには聲聞性、二つには緣覺性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。聲聞緣覺の二乘は所學の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乘心となづく衆生を利益せんために大乘の道を求むるをば菩薩と號す、有る時は小乘心を發し、有る時は大乘心を發して根性さだめなきは不定性なり、一切の佛法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる處を論せば實に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。圓覺經に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を發揮して五性の差別を顯出せり。又云く、圓覺の自性は五性にあらず、五性に隨つて差別の相を現ず、實相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑經に云く、如來は有にあらず無にあらず出にあらず沒にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも說くことなし。しかるを愚人は如來出世して法を說きて人を度すと思へり。如來の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、來に非ず去に非ず有に非ず無に非ず內に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華嚴經に云く、眞淨界の中には佛もなく衆生もなしと云云。釋論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ敎說をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乘の梵語なり、大小權實いまだわかれざる處を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖敎をば信ぜず、方便の門に心をつけて敎に大小權實を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。
新字:問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一真法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、総てこれをいはゞ五類あり。一つには声聞性、二つには縁覚性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。声聞縁覚の二乗は所学の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乗心となづく衆生を利益せんために大乗の道を求むるをば菩薩と号す、有る時は小乗心を発し、有る時は大乗心を発して根性さだめなきは不定性なり、一切の仏法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる処を論せば実に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。円覚経に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を発揮して五性の差別を顕出せり。又云く、円覚の自性は五性にあらず、五性に随つて差別の相を現ず、実相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑経に云く、如来は有にあらず無にあらず出にあらず没にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも説くことなし。しかるを愚人は如来出世して法を説きて人を度すと思へり。如来の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、来に非ず去に非ず有に非ず無に非ず内に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽経に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華厳経に云く、真浄界の中には仏もなく衆生もなしと云云。釈論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ教説をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乗の梵語なり、大小権実いまだわかれざる処を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖教をば信ぜず、方便の門に心をつけて教に大小権実を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。
書き下し
問法理に差別のあることは、機根の同じからざる故なり、機根の同じからざるとは何の故ぞや。 答一眞法界の中には人もなく法もなし、迷情に約してしばらく人法をわかてり、衆生の根性種々なりといへ共、總てこれをいはゞ五類あり。一つには聲聞性、二つには緣覺性、三つには菩薩性、四つには不定性、五つには闡提性なり。聲聞緣覺の二乘は所學の法門ことなりといへども、たゞ自ら出離する道を求めて他を益する心なし、この故に同じく小乘心となづく衆生を利益せんために大乘の道を求むるをば菩薩と號す、有る時は小乘心を發し、有る時は大乘心を發して根性さだめなきは不定性なり、一切の佛法をすべて信ぜざるをば闡提性となづく、平等一性の中に一念の無明起る故にかりに五性の差別を成せり、各の根性のかはれる處を論せば實に同じといふべからず、この故に五性各別の法門あり。圓覺經に云く、一切衆生貪欲を本とするによりて、無明を發揮して五性の差別を顯出せり。又云く、圓覺の自性は五性にあらず、五性に隨つて差別の相を現ず、實相の中には菩薩及び諸の衆生なし、何を以ての故に菩薩衆生は皆な是れ幻化のごとしと云云。像法決疑經に云く、如來は有にあらず無にあらず出にあらず沒にあらず色にあらず非色にあらず、初成道より涅槃に至るまで其の中間において。一句の法をも說くことなし。しかるを愚人は如來出世して法を說きて人を度すと思へり。如來の境界は不可思議なり、識を以てもしるべからず、智を以てもしるべからずと云云。又云く、衆生の身相は幻化の如く鏡像の如く水月の如し、衆生の心相も不可思議也、來に非ず去に非ず有に非ず無に非ず內に非ず外に非ず。しかれ共衆生迷倒してふかく我見に著する故に妄に輪廻を受たりと云云。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、いまだかつて一字をも談せずと云云。華嚴經に云く、眞淨界の中には佛もなく衆生もなしと云云。釋論に云く。不二摩訶衍は機根をはなれ敎說をはなれたりと云云。摩訶衍とは大乘の梵語なり、大小權實いまだわかれざる處を不二摩訶衍と名けたり、かやうの聖敎をば信ぜず、方便の門に心をつけて敎に大小權實を論じ機に上中下根をわかつ故に、或は高慢の心を起して魔道に入り、或は退屈の思を生じて迷衢にかへるこれを智人といふべしや。
現代語訳
問:仏法の教えに浅い深いの差別があるのは、人の機根が同じでないからだと言うが、機根が同じでないとはどういうことか。 答:ひとつの真実の法界には、人もなく法もない。迷いの心に即して、仮に人と法を分けているのである。衆生の素質はさまざまだが、まとめれば五つの類がある。第一は声聞性、第二は縁覚性、第三は菩薩性、第四は不定性、第五は闡提性である。声聞と縁覚の二乗は学ぶ法門こそ違うが、ただ自分が迷いを離れる道を求めるだけで他を益する心がない。そこで同じく小乗の心と呼ぶ。衆生を利益するために大乗の道を求める者を菩薩と呼ぶ。ある時は小乗の心を起こし、ある時は大乗の心を起こして素質の定まらないのが不定性である。すべての仏法を信じないのを闡提性と呼ぶ。平等な一性の中に一念の無明が起こるので、仮に五性の差別ができたのである。それぞれの素質の違いを論じれば、実際に同じとは言えない。だから五性それぞれに別の教えがある。 円覚経にいう。一切衆生は貪欲を根本とするので、無明を発揮して五性の差別を現し出した。また、円覚の自性は五性ではないが、五性に従って差別の相を現す。真実の相の中には菩薩も衆生もない。なぜなら菩薩も衆生もみな幻のようなものだからだ、と。像法決疑経にいう。如来は有でも無でもなく、出現でも消滅でもなく、色でも非色でもない。初めて悟りを開いてから涅槃に入るまで、その間に一句の法も説いたことがない。それなのに愚かな者は、如来が世に出て法を説き人を救うと思っている。如来の境界は不可思議で、識でも知れず、智でも知れない、と。またいう。衆生の身の相は幻のようで、鏡の像のようで、水に映る月のようだ。衆生の心の相も不可思議であって、来るのでも去るのでもなく、有でも無でもなく、内でも外でもない。それなのに衆生は迷い転倒して深く我見に執着するので、みだりに輪廻を受けるのだ、と。楞伽経にいう。初めて鹿野苑で説いてから最後に跋提河に至るまで、いまだ一字も語ったことがない、と。華厳経にいう。真に清らかな世界の中には仏もなく衆生もない、と。釈論にいう。不二の摩訶衍は機根を離れ、教説を離れている、と。摩訶衍とは大乗の梵語であり、大乗・小乗、権教・実教がまだ分かれていないところを不二摩訶衍と名づけたのである。このような聖教を信じず、方便の門に心をつけて、教えに大小権実を論じ、機に上中下の根を分けるので、ある者は高慢の心を起こして魔道に入り、ある者は退屈の思いを生じて迷いの巷に帰る。これを智者と言えようか。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』心とは何か、身心は幻か問此の身は貴賤ことなりといへども、同じく生老病死にうつさる、實に幻化のごとし。此の心は色形なければ、常住不滅なるべししかるを身心俱に幻化のごとしといへることは、何ぞや經の中にも心は幻のごとしと說ける文もあり、心は常住不滅と明せる言もあり、何れの中をか正とすべきや。 答心といへる言は同じけれども、其の義に種々の差別あり、樹木の皮膚は皆朽失せて其の中の堅實にして、くちのこれる處をも木心となづく、梵語にはこれを乾栗駄といへり、紇栗陀耶ともいへり。密宗に肉團心を明せり、宗鏡錄の中には肉團心の梵語は、紇利陀耶といへり。木石等の年を經て精靈あるをも心といふ。梵語にはこれを矣栗駄といへり、慮知分別するをも心となづく有情の類にこれあり、梵語には質多といへり、凡夫の我心と計する者のは是なり。小乘敎の中に心といへるも、此の質多心をさすなり、眞言敎に質多心を菩提心と談ずる事あり、凡夫所計の質多にはあらず、梵語には阿賴耶といへるをば漢語には含藏識といへり、卽ち是れ第八識なり。梵語には末那といへるは漢語には染汚意となづく、卽ち是第七識なり、これらは皆有情の具足せる心法の類なり。此の二つは大乘に始めてあかせり凡夫小乘はかやうの心ありともしらず、第八識は無明と法性と和合する處なるが故に、唯妄にもあらず唯眞にもあらず、此の八識を心王と談ずる敎もあり。或は此の上に第九識を立たり梵語には庵摩羅と名けたり。漢語には清淨無垢識といへり、此は是れ衆生の本心なり、迷倒の時も迷倒に染せられず、故に清淨無垢となづけたり、かゝる種々の謂れあるによりて一心についてしばらく眞妄をわかてり、凡夫の慮知分別は悉く是れ妄心なり、四大和合する時假りに此の相あり、すべて實體なし故にこれを空花にたとへ幻化にたとふかやうの妄心眞心によりてかりに起れり。故にすべて目體なし、たとへば人の本月によりて、第二の月を見るがごとし。月に二相はなけれ共、目をひねる者の所見によせて第二月とは名けたり。心に二相はなけれ共迷人の我心と思へるものは實にあらず、故に幻心となづく實は生滅心ともいへり。妄心とて實に生滅する物あるにはあらず、聖人の所見に約すれば常住不滅なり、故にこれを眞心と名けたり。かやうのわけめをしらしめんために、眞心を梵語に說く時は、乾栗駄といへり、樹木の堅實不壞の義になぞらへて衆生の本心の金剛不壞なる事をあかせり。楞伽經の中に、或は自心と說き、或は妙心と說ける心の字の下に皆梵語は、乾栗駄と註せるは此の意なり。梵語の心經に心の字をば紇栗駄耶といへり、宗鏡錄の中には、心にあまたのしなある事を明かして、今は乾栗駄心を宗とすといへり。凡夫の心と思へる者は色形見えずといへ共、刹那に生滅してしばらくも停住せざる事水の流注し燈の焰を續がごとし。色身と同じく、生住異滅すしかるを身は、生滅すれども心は常住なりと思へるは外道の見なり。心を常住といふ事は、凡聖同體にして色心不二なる一心法界をしめすなり。されば語人の所見に約すれば、たゞ心のみ常住なるにあらず身も亦常住なり。しかるを身は生滅し、心は常住なりと申すは、大乘の法門にあらず、大日經の疏に云く、一切衆生の色心實相にして、本より毘盧遮那の平等智身なりと云云。昔南陽の忠國師僧に問て云く、汝何れの處よりか來る僧の云く、南方より來れり。國師の云く、南方の知識如何か人にしめすや。僧云く、身は壞滅すといへ共、心は常住不滅なり。國師の云く、此は是れ外道の神我の見なり。僧の云く。和尙如何か人にしめす。國師の云く、我は說く身心一如なりと云云。そのかみ馮濟川といへる俗人ありき、壁の上に死屍を繪にかけるを見て、これを題して一偈を述ぶ。屍は這裏にあり、其の人何くにか在る、乃ち知んぬ一靈皮袋に居せざる事を、此の偈の意は、一靈とは心をさし皮袋とは身をたとへたり、此の人いまだ神我の見をまぬがれず、故に大慧禪師うけがはず、別に一偈を作り給へり。此の形骸に卽して便ち是其の人なり、一靈皮袋、皮袋一靈、濟川が偈は其の意やしりやすし、大慧の頌をばいかゞ心得べき、身心一如なる法門は、大乘の通理なる故に其口頭の所談を取らば、大慧の意にそむくことあらんや。其の心中の計著を論せば、濟川が見を越ざる人も多かるべし、眞心妄心の差別は圓覺楞嚴等の經の中にくはしく明せり、具さに引くに及ばず。
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夢中問答集・『夢中問答集』智慧と愚癡を超える船筏問菩薩の行は六波羅蜜を本とす。其の中には般若波羅蜜を勝れたりといふことは、其の餘の五波羅蜜も若智慧なければ、成ぜさる故なり。しかるを一向に智慧をきらふ事は何ぞや。 答般若は梵語なり。漢語には智慧となづく。智慧といへる語はをなしけれども、眞智妄智權智實智種々の差別あり。よのつね人のちえと思へるは諸の法門を解了して日來の愚癡を改めたるを申すなり。圓覺經に云く、ちゑも愚癡も通じて般若たりと云云。この經のこゝろは、ぐちを改めたるを眞實の智慧といふにあらず。無明の業識生ずる故に、圓覺大智の中に智慧愚癡の二相をみる卽ち是れ妄想なり。此の妄想の上に住著して愚癡をあらためて、ちゑとなさんことを求めば、第二重の妄想なり。般若をば覺とも翻じ、道とも譯せり。古人の云く、道は知にも屬せず。不知にも屬せず。知は是れ妄覺不知は是れ無記なりと云云。禪宗の學者の中に本分の理を解了するを、道をさとれりと思ふ人あり。若し爾らば何ぞ道は知に屬せずといはんや。或は知解を泯絕して空々寂々たる處を、道をさとれりと思へり。若し爾らば何ぞ道は不知に屬せずといはんや。たゞかやうなる一切の解會を放下して、放下の處について二六時中猛烈に參究せば時節到來して本分の大智に契當すべし。其時始めて道の體は愚癡にもあらず。ちゑにもあらざることをしるべし。こゝに到りぬれば日來の智慧も、ぐちも亦外邊にあらず。みな我が屋裏の事なるべし。夫れ無常の理をしり、因果の謂を辨へて世間の名利を捨つるは、つねさまの愚人よりも、かしこき智慧なりといへども、此分劑にては佛果を成ずる事あるべからず。乃至三賢十聖の菩薩或は如幻智を證し、或は無生智を得たれども、亦いまだ佛果をば成ぜず。等覺地に到りて、前の三賢十聖の諸智倶に忘ずるを金剛喩定となづく。此の時妙覺の大智始めて現前す。其の大智とは人々具足し、箇々圓成せる者なり。然らば卽ち、最上利根の機は三賢十聖等の階級をへずして、直下に本有の大智に契當す。古人の云く、一超して直に如來地に入るといへるは、此の意なり。華嚴經に云く、初發心の時すなはち正覺を成ずと云云。權敎の法門を信ずる人、第十地にのぼる菩薩だにも、妙覺の大智をばいまだ得ざるに、薄地の凡夫のやがて大智を得るといへる事あたらずと思へるは、本有の大智をば信ぜず。たゞ愚癡を改めたるを智慧と心得たる故なり。六度萬行を說き、五十二位を立つること皆な是れ中下根のためなり。六度の中に智度を貴ぶことは、直に本分の大智に契當することあたはざる人のために、しばらく幻智を船筏として、漸く本分の彼岸にいたらしむる方便なり。敎門にしばらく學解をゆるすことは此の故なり。敎の本意にはあらず。船筏の大切なる事は大河をわたりて、むかひの岸にいたらんためなり。しかるを愚人其の船筏を愛著して、すてざるはいまだ船筏の大切なる謂れをしらざる故なり。佛祖の出世して諸の法門を說き給ふことは、迷倒の大河を越へて本分の岸に到らしめんための船筏なり。たとひ此の船筏にのりたりとも、これを愛著を捨てずんば、本分の田地にいたる事あるべからず。若し又飛行自在を得たる人は、船筏をからずして直にむかひの岸にいたるがごとく、最上根の人は三賢十聖の智慧をからずして、直に本分の田地に到るべし。若し此の人に學解をすゝむるは、飛行自在の人に船筏をあたふるがごとし。此の船筏なか〱障となるべし。この故に禪門には諸の學解をきらふなり。しかるを禪門の學者の中に、宗師の語話を船筏として、敎家の船筏には勝れたりと思ふて、慢心を起せる人あり。たとひ大に勝れたる船筏にのりたりとも、其中に嬉戯して究竟安穩の想ひをなさば、一生むなしく此の岸に住著して船筏のさたをだにせぬ者には、まされりといへども、いたづらに河流にたゞよふて彼岸にいたらざることは、是れ同じ三賢十聖は殊勝の船筏にのれりといへ共、猶も其の中に住在せる故に、いまだ變易生死の流れをこえず。況んや權小の船筏の中に住在して滿足の想ひをなさんや。