遠羅天釜 / 『遠羅天釜』命根を断つ無明の一念と我
學道も亦然り譬へば茲に一個有んに宿に靈骨有つて英豪の氣を具し神俊の才を備へ剩さへ馬祖百丈を師家とし南泉長沙を同伴とし勇猛の穎氣を養なひ打成一片に進み純一無雜に修したりとも命根截斷せざらん限りは團地一下の歡喜は努々これ有べからず命根とは何をか云や無量劫來相續し來る底の無明の一念子なり天堂地獄穢土淨刹を化出し三途六趣を現成する事は皆是彼れが力に依れり夢幻空華の細念なれども見性の大事を妨ぐる事は百千の魔軍にも超へたり空華の細念とも名づけ生死の命根とも名づけ煩惱とも名づけ陰魔とも云ふ一實多名子細に看來れば畢竟我見の一法に歸せり有我に依るが故に生死有り涅槃あり煩惱あり菩提あり此故に言ふ心生ずれば種々の法生じ心滅すれば種々の法滅すと又若し我相人相衆生相あらば即ち菩薩にあらずと佛け迦葉菩薩に問玉はく善男子何等の法をか修して大涅槃の法に契當する事を得る迦葉菩薩其時五戒十善十八不共六度萬行八背捨無量の法門逐一擧げて答ふれども佛け總に許可し玉はず迦葉佛けに問ふ世尊何等の法門か涅槃に契ふ事を得るや佛のの玉はく但無我の一法のみ涅槃に契ふ事を得たりと然るに無我に兩般あり人あり常に心身怯弱にして一切の人を恐れ心氣を殺して萬緣に應じて罵れども嗔らず打擲すれども管せず常に癡々呆々として一事を經ず一智を長せず我は是無我を得たりとして足れりとす此れは是一個の破飯囊泥猪の肥へ腯れて一切無智昏愚なるが如し是れ眞正の無我にはあらず
新字:学道も亦然り譬へば茲に一個有んに宿に霊骨有つて英豪の気を具し神俊の才を備へ剰さへ馬祖百丈を師家とし南泉長沙を同伴とし勇猛の穎気を養なひ打成一片に進み純一無雑に修したりとも命根截断せざらん限りは団地一下の歓喜は努々これ有べからず命根とは何をか云や無量劫来相続し来る底の無明の一念子なり天堂地獄穢土浄刹を化出し三途六趣を現成する事は皆是彼れが力に依れり夢幻空華の細念なれども見性の大事を妨ぐる事は百千の魔軍にも超へたり空華の細念とも名づけ生死の命根とも名づけ煩悩とも名づけ陰魔とも云ふ一実多名子細に看来れば畢竟我見の一法に帰せり有我に依るが故に生死有り涅槃あり煩悩あり菩提あり此故に言ふ心生ずれば種々の法生じ心滅すれば種々の法滅すと又若し我相人相衆生相あらば即ち菩薩にあらずと仏け迦葉菩薩に問玉はく善男子何等の法をか修して大涅槃の法に契当する事を得る迦葉菩薩其時五戒十善十八不共六度万行八背捨無量の法門逐一挙げて答ふれども仏け総に許可し玉はず迦葉仏けに問ふ世尊何等の法門か涅槃に契ふ事を得るや仏のの玉はく但無我の一法のみ涅槃に契ふ事を得たりと然るに無我に両般あり人あり常に心身怯弱にして一切の人を恐れ心気を殺して万縁に応じて罵れども嗔らず打擲すれども管せず常に痴々呆々として一事を経ず一智を長せず我は是無我を得たりとして足れりとす此れは是一個の破飯嚢泥猪の肥へ腯れて一切無智昏愚なるが如し是れ真正の無我にはあらず
書き下し
學道も亦然り譬へば茲に一個有んに宿に靈骨有つて英豪の氣を具し神俊の才を備へ剩さへ馬祖百丈を師家とし南泉長沙を同伴とし勇猛の穎氣を養なひ打成一片に進み純一無雜に修したりとも命根截斷せざらん限りは團地一下の歡喜は努々これ有べからず命根とは何をか云や無量劫來相續し來る底の無明の一念子なり天堂地獄穢土淨刹を化出し三途六趣を現成する事は皆是彼れが力に依れり夢幻空華の細念なれども見性の大事を妨ぐる事は百千の魔軍にも超へたり空華の細念とも名づけ生死の命根とも名づけ煩惱とも名づけ陰魔とも云ふ一實多名子細に看來れば畢竟我見の一法に歸せり有我に依るが故に生死有り涅槃あり煩惱あり菩提あり此故に言ふ心生ずれば種々の法生じ心滅すれば種々の法滅すと又若し我相人相衆生相あらば即ち菩薩にあらずと佛け迦葉菩薩に問玉はく善男子何等の法をか修して大涅槃の法に契當する事を得る迦葉菩薩其時五戒十善十八不共六度萬行八背捨無量の法門逐一擧げて答ふれども佛け總に許可し玉はず迦葉佛けに問ふ世尊何等の法門か涅槃に契ふ事を得るや佛のの玉はく但無我の一法のみ涅槃に契ふ事を得たりと然るに無我に兩般あり人あり常に心身怯弱にして一切の人を恐れ心氣を殺して萬緣に應じて罵れども嗔らず打擲すれども管せず常に癡々呆々として一事を經ず一智を長せず我は是無我を得たりとして足れりとす此れは是一個の破飯囊泥猪の肥へ腯れて一切無智昏愚なるが如し是れ眞正の無我にはあらず
現代語訳
修行もまたそうである。たとえばここに一人がいて、生まれつき英傑の気を具え、神のような俊才を備え、さらには馬祖・百丈を師とし、南泉・長沙を同志とし、勇猛な鋭気を養い、打って一丸となって進み、純一無雑に修めたとしても、命根を断ち切らない限りは、団地一下の歓喜、すなわち大悟は決してあるはずがない。命根とは何か。それは、はかり知れない昔から続いてきた無明の一念である。天上界、地獄、穢土、浄土を現し出し、三途六趣を現成するのは、すべてこの一念の力による。夢幻や空中の花のような微細な念であるが、見性の大事を妨げることは、百千の魔軍にもまさる。空華の細念とも名づけ、生死の命根とも名づけ、煩悩とも名づけ、陰魔とも言う。実は一つで名は多いが、詳しく見ると、結局は我見の一法に帰する。我があるから生死があり涅槃があり、煩悩があり菩提がある。だから「心が生ずれば種々の法が生じ、心が滅すれば種々の法が滅す」と言い、また「もし我相・人相・衆生相があるなら、それは菩薩ではない」と言う。仏が迦葉菩薩に問われた。「善男子よ、どのような法を修めれば、大涅槃の法にかなうことができるか」。迦葉菩薩はそのとき、五戒、十善、十八不共法、六度万行、八背捨、無量の法門を逐一挙げて答えたが、仏はまったく許可されなかった。迦葉が仏に問う。「世尊よ、どのような法門が涅槃にかなうことができるのでしょうか」。仏は言われた。「ただ無我の一法だけが、涅槃にかなうことができる」と。ところが、無我には二通りがある。ある人は、いつも心身が臆病で弱く、あらゆる人を恐れ、心気を殺してあらゆる縁に応じ、罵られても怒らず、打たれても気にせず、いつもぼんやりして一事も経ず一智も伸ばさず、「私は無我を得た」として満足している。これは一個の破れ飯袋、泥の中で肥え太った豚のようで、すべてが無知愚昧なのと同じである。これは真正の無我ではない。
解説

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