遠羅天釜 / 『遠羅天釜』仏は至る所にあり円恕の逸話
此故に言ふ佛身法界に充滿して普く一切群生の前に現ずと若佛西方にのみおわさば一切群生の前に現じ玉ふ事能はじ若一切群生の前に現せは特西方に限るべからず悲ひ哉如來清淨の眞身は煥爛として目前に分明なる事掌を見るが如くなれども慧眼既に盲いたる故に都で是を見上つる事能はず豈に言はずや光明遍照十方世界と蓋し光明と世界と兩般の會を成し玉ふべからず悟る則んば十方世界草木國土を全ふして直に是如來清淨光明の眞身とし迷ふ則んは如來清淨光明の眞身を全ふして錯つて十方世界草木國土とす此故に經に曰く若し色を以て我を見音聲を以て我を求めば此の人邪道を行じて如來を見上つる事能はじと眞正淨業の行者は即ち然らず生を觀せず死を觀せず心失念せず心顚倒せずとなへ唱へて一心不亂の田地に到つて忽然として大事現前し往生決定す此の人を指て眞正見性の人とす自身直に是六十萬億那由佗恒河沙由旬の彌陀七重の寶樹八功德池心上に昭昭として目前に煥粲たり山河大地萬象森羅盡く是れ微妙希有の莊嚴海なる事を徹見す專唱稱名一念不生放身捨命の端的を往と云三昧發得眞智現前の當位を生と云如上の眞理煥然として當處湛然一毫をも隔てず涌出するを來迎とす來迎往生直下不二是見性の當體なり元祿の頃をい二人の淨業者あり一人を圓恕と云ひ一人りを圓愚と云ふ二人志を同ふして專唱怠る事なし圓恕は山城の人也唱念純一果して一心不亂の境致に到つて忽然として三昧發得し往生の大事を決定す此に於て遠の初山に上つて獨湛老人に謁す湛問ふ儞ちは是何れの處の人ぞ恕曰く山城湛云く何れの宗をか業とす恕曰く淨業湛云く彌陀如來年多少ぞ恕曰く某甲と同年湛云く儞ち年多少ぞ恕曰く彌陀と同年湛云く即今何れの處にか在恕即ち左手を握て少く揚ぐ湛驚て曰く儞は是眞箇淨業の人也と圓愚も亦久しからずして三昧發得し大事決定す元祿の初め豆州の赤澤なる處に行者あり即往と云ふ彼れ亦た稱名の力に依て大ひに得力あり予向きに此兩三箇の傳を記す逐一枚擧するに暇あらず是即ち專唱稱名得力の現證なり
新字:此故に言ふ仏身法界に充満して普く一切群生の前に現ずと若仏西方にのみおわさば一切群生の前に現じ玉ふ事能はじ若一切群生の前に現せは特西方に限るべからず悲ひ哉如来清浄の真身は煥爛として目前に分明なる事掌を見るが如くなれども慧眼既に盲いたる故に都で是を見上つる事能はず豈に言はずや光明遍照十方世界と蓋し光明と世界と両般の会を成し玉ふべからず悟る則んば十方世界草木国土を全ふして直に是如来清浄光明の真身とし迷ふ則んは如来清浄光明の真身を全ふして錯つて十方世界草木国土とす此故に経に曰く若し色を以て我を見音声を以て我を求めば此の人邪道を行じて如来を見上つる事能はじと真正浄業の行者は即ち然らず生を観せず死を観せず心失念せず心顛倒せずとなへ唱へて一心不乱の田地に到つて忽然として大事現前し往生決定す此の人を指て真正見性の人とす自身直に是六十万億那由佗恒河沙由旬の弥陀七重の宝樹八功徳池心上に昭昭として目前に煥粲たり山河大地万象森羅尽く是れ微妙希有の荘厳海なる事を徹見す専唱称名一念不生放身捨命の端的を往と云三昧発得真智現前の当位を生と云如上の真理煥然として当処湛然一毫をも隔てず涌出するを来迎とす来迎往生直下不二是見性の当体なり元禄の頃をい二人の浄業者あり一人を円恕と云ひ一人りを円愚と云ふ二人志を同ふして専唱怠る事なし円恕は山城の人也唱念純一果して一心不乱の境致に到つて忽然として三昧発得し往生の大事を決定す此に於て遠の初山に上つて独湛老人に謁す湛問ふ儞ちは是何れの処の人ぞ恕曰く山城湛云く何れの宗をか業とす恕曰く浄業湛云く弥陀如来年多少ぞ恕曰く某甲と同年湛云く儞ち年多少ぞ恕曰く弥陀と同年湛云く即今何れの処にか在恕即ち左手を握て少く揚ぐ湛驚て曰く儞は是真箇浄業の人也と円愚も亦久しからずして三昧発得し大事決定す元禄の初め豆州の赤沢なる処に行者あり即往と云ふ彼れ亦た称名の力に依て大ひに得力あり予向きに此両三箇の伝を記す逐一枚挙するに暇あらず是即ち専唱称名得力の現証なり
書き下し
此故に言ふ佛身法界に充滿して普く一切群生の前に現ずと若佛西方にのみおわさば一切群生の前に現じ玉ふ事能はじ若一切群生の前に現せは特西方に限るべからず悲ひ哉如來清淨の眞身は煥爛として目前に分明なる事掌を見るが如くなれども慧眼既に盲いたる故に都で是を見上つる事能はず豈に言はずや光明遍照十方世界と蓋し光明と世界と兩般の會を成し玉ふべからず悟る則んば十方世界草木國土を全ふして直に是如來清淨光明の眞身とし迷ふ則んは如來清淨光明の眞身を全ふして錯つて十方世界草木國土とす此故に經に曰く若し色を以て我を見音聲を以て我を求めば此の人邪道を行じて如來を見上つる事能はじと眞正淨業の行者は即ち然らず生を觀せず死を觀せず心失念せず心顚倒せずとなへ唱へて一心不亂の田地に到つて忽然として大事現前し往生決定す此の人を指て眞正見性の人とす自身直に是六十萬億那由佗恒河沙由旬の彌陀七重の寶樹八功德池心上に昭昭として目前に煥粲たり山河大地萬象森羅盡く是れ微妙希有の莊嚴海なる事を徹見す專唱稱名一念不生放身捨命の端的を往と云三昧發得眞智現前の當位を生と云如上の眞理煥然として當處湛然一毫をも隔てず涌出するを來迎とす來迎往生直下不二是見性の當體なり元祿の頃をい二人の淨業者あり一人を圓恕と云ひ一人りを圓愚と云ふ二人志を同ふして專唱怠る事なし圓恕は山城の人也唱念純一果して一心不亂の境致に到つて忽然として三昧發得し往生の大事を決定す此に於て遠の初山に上つて獨湛老人に謁す湛問ふ儞ちは是何れの處の人ぞ恕曰く山城湛云く何れの宗をか業とす恕曰く淨業湛云く彌陀如來年多少ぞ恕曰く某甲と同年湛云く儞ち年多少ぞ恕曰く彌陀と同年湛云く即今何れの處にか在恕即ち左手を握て少く揚ぐ湛驚て曰く儞は是眞箇淨業の人也と圓愚も亦久しからずして三昧發得し大事決定す元祿の初め豆州の赤澤なる處に行者あり即往と云ふ彼れ亦た稱名の力に依て大ひに得力あり予向きに此兩三箇の傳を記す逐一枚擧するに暇あらず是即ち專唱稱名得力の現證なり
現代語訳
だから「仏身は法界に充満して、あまねく一切衆生の前に現れる」と言うのである。もし仏が西方にだけおられるなら、一切衆生の前に現れることはできない。一切衆生の前に現れるなら、西方に限るはずがない。悲しいことに、如来の清浄な真身は、はっきりと目の前に、掌を見るように明らかであるのに、智慧の眼がすでに盲いているために、まったくこれを仰ぎ見ることができない。「光明は十方世界をあまねく照らす」とも言うではないか。光明と世界とを二通りに理解してはならない。悟れば、十方世界も草木国土もそのまま全うして、直ちにそれが如来清浄光明の真身であり、迷えば、如来清浄光明の真身をそのまま全うして、誤って十方世界の草木国土とするのである。だから経に「もし色形で私を見、音声で私を求めるなら、この人は邪道を行じており、如来を見ることはできない」と言う。真の浄土の行者はそうではない。生を見ず死を見ず、心は正念を失わず、心は顛倒せず、唱えに唱えて一心不乱の境地に到ると、たちまち大事が現前して往生が決定する。この人を指して真の見性の人とする。自身がそのまま、六十万億那由他恒河沙由旬の弥陀、七重の宝樹、八功徳池であり、それが心の上にありありと目の前に輝き、山河大地、万象森羅がことごとく微妙希有の荘厳の海であることを見抜く。専ら唱えて一念も生ぜず、身を放ち命を捨てるその端的を「往」といい、三昧を得て真智が現前する当位を「生」という。以上の真理が明らかになり、その場がそのまま静かに澄み、一毫も隔てずに湧き出るのを「来迎」とする。来迎と往生が直ちに不二であること、これが見性の当体である。元禄の頃、二人の浄業者がいた。一人を円恕といい、一人を円愚といった。二人は志を同じくして、専ら唱えて怠ることがなかった。円恕は山城の人である。唱念が純一で、はたして一心不乱の境地に到り、たちまち三昧を得て往生の大事を決定した。そこで遠江の初山に登り、独湛老人に参じた。独湛が問う、「おまえはどこの人か」。円恕、「山城」。独湛、「何の宗を業とするか」。円恕、「浄業」。独湛、「阿弥陀如来は年がいくつか」。円恕、「私と同い年」。独湛、「おまえは年がいくつか」。円恕、「阿弥陀と同い年」。独湛、「いま、どこにおられる」。円恕は左手を握って少し挙げた。独湛は驚いて、「おまえは真の浄業の人だ」と言った。円愚もまもなく三昧を得て、大事を決定した。元禄の初め、豆州の赤沢に即往という行者があった。彼もまた称名の力で大いに力を得た。私は先ごろこの二、三の伝を記した。逐一挙げる暇はない。これこそ、専唱称名が力を得た現証である。
解説

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