遠羅天釜 / 『遠羅天釜』浄土系の先達も求めた見性
是彼の善慧大士の謂ゆる頓に心源を悟つて寶藏を開き玉ふに非ずや澆季末代壞劫法滅の末世といへども佛子たらん者の尊信すべき芳躅ならずや大凡番々出世の如來歷代傳燈の祖師及び一切の賢聖智者高僧に至るまで其所傳の秘訣行持の內證を探るに盡く自性の法門を至要とす蓮如上人の如きも平生往生不來迎の往生と說れけるよし顧ふに是亦これ見性の眞理にあらずや深く海藏の底を探つて五千餘卷の金文を五度びまで究め玉ひ王侯より庶人に至るまで生身の如來の如く仰ぎ貴ばれ玉ひし法然上人の如きも常に悲嘆し玉ひけるは特り敎內の理に暗からざるのみに非ず敎外の心宗願を探る先達なき故に索短ふして深泉を汲まず翼さ短ふして長空に翔らざる心地なりと諭置れける由敎外の心宗とは何をか云や此見性の法門に非ずや至人の一言毫釐も欺き玉はず寔に恐るべく敬しつべし神祇冥道も恭敬し尊重し玉ひける程の止ごとなき上人だにも斯望み深くをはせし見性の大事なるものを今の人々の慢り謗り玉ふは罪深くこそ覺ゆれ蓋し理はり知り玉はぬ上へには左ばかり罪み科にもならぬにこそ惠心院の僧都の如きは廿四歲にして自性の大圓鏡を琢磨せんとて橫川に入り玉ひしより晝三部の法華經夜六萬聲の念佛中間片時も怠惰し玉はず行年六十四歲にして初めて自身眞如なる事を識得すとの玉ひけるよし寔に貴ぶべし自身纔に眞如なる時山河大地萬像森羅草木國土有情非情同時に不變眞如の全體と見出す是を寂滅現前見性了悟の時節とす高野の明蓮僧都五十餘歲の秋深く念佛三昧に入り玉ふ時高野大師正しく藕絲の袈裟并に一紙の金文を授け玉ふ其略に曰く西方の一方を指す者は方便なり九域を簡して亂心を止む畢命を期として名を稱せば心眼卽開の大益を得んと心眼卽開直に是見性の時節なり
新字:是彼の善慧大士の謂ゆる頓に心源を悟つて宝蔵を開き玉ふに非ずや澆季末代壊劫法滅の末世といへども仏子たらん者の尊信すべき芳躅ならずや大凡番々出世の如来歴代伝灯の祖師及び一切の賢聖智者高僧に至るまで其所伝の秘訣行持の内証を探るに尽く自性の法門を至要とす蓮如上人の如きも平生往生不来迎の往生と説れけるよし顧ふに是亦これ見性の真理にあらずや深く海蔵の底を探つて五千余巻の金文を五度びまで究め玉ひ王侯より庶人に至るまで生身の如来の如く仰ぎ貴ばれ玉ひし法然上人の如きも常に悲嘆し玉ひけるは特り教内の理に暗からざるのみに非ず教外の心宗願を探る先達なき故に索短ふして深泉を汲まず翼さ短ふして長空に翔らざる心地なりと諭置れける由教外の心宗とは何をか云や此見性の法門に非ずや至人の一言毫釐も欺き玉はず寔に恐るべく敬しつべし神祇冥道も恭敬し尊重し玉ひける程の止ごとなき上人だにも斯望み深くをはせし見性の大事なるものを今の人々の慢り謗り玉ふは罪深くこそ覚ゆれ蓋し理はり知り玉はぬ上へには左ばかり罪み科にもならぬにこそ恵心院の僧都の如きは廿四歳にして自性の大円鏡を琢磨せんとて横川に入り玉ひしより昼三部の法華経夜六万声の念仏中間片時も怠惰し玉はず行年六十四歳にして初めて自身真如なる事を識得すとの玉ひけるよし寔に貴ぶべし自身纔に真如なる時山河大地万像森羅草木国土有情非情同時に不変真如の全体と見出す是を寂滅現前見性了悟の時節とす高野の明蓮僧都五十余歳の秋深く念仏三昧に入り玉ふ時高野大師正しく藕糸の袈裟并に一紙の金文を授け玉ふ其略に曰く西方の一方を指す者は方便なり九域を簡して乱心を止む畢命を期として名を称せば心眼即開の大益を得んと心眼即開直に是見性の時節なり
書き下し
是彼の善慧大士の謂ゆる頓に心源を悟つて寶藏を開き玉ふに非ずや澆季末代壞劫法滅の末世といへども佛子たらん者の尊信すべき芳躅ならずや大凡番々出世の如來歷代傳燈の祖師及び一切の賢聖智者高僧に至るまで其所傳の秘訣行持の內證を探るに盡く自性の法門を至要とす蓮如上人の如きも平生往生不來迎の往生と說れけるよし顧ふに是亦これ見性の眞理にあらずや深く海藏の底を探つて五千餘卷の金文を五度びまで究め玉ひ王侯より庶人に至るまで生身の如來の如く仰ぎ貴ばれ玉ひし法然上人の如きも常に悲嘆し玉ひけるは特り敎內の理に暗からざるのみに非ず敎外の心宗願を探る先達なき故に索短ふして深泉を汲まず翼さ短ふして長空に翔らざる心地なりと諭置れける由敎外の心宗とは何をか云や此見性の法門に非ずや至人の一言毫釐も欺き玉はず寔に恐るべく敬しつべし神祇冥道も恭敬し尊重し玉ひける程の止ごとなき上人だにも斯望み深くをはせし見性の大事なるものを今の人々の慢り謗り玉ふは罪深くこそ覺ゆれ蓋し理はり知り玉はぬ上へには左ばかり罪み科にもならぬにこそ惠心院の僧都の如きは廿四歲にして自性の大圓鏡を琢磨せんとて橫川に入り玉ひしより晝三部の法華經夜六萬聲の念佛中間片時も怠惰し玉はず行年六十四歲にして初めて自身眞如なる事を識得すとの玉ひけるよし寔に貴ぶべし自身纔に眞如なる時山河大地萬像森羅草木國土有情非情同時に不變眞如の全體と見出す是を寂滅現前見性了悟の時節とす高野の明蓮僧都五十餘歲の秋深く念佛三昧に入り玉ふ時高野大師正しく藕絲の袈裟并に一紙の金文を授け玉ふ其略に曰く西方の一方を指す者は方便なり九域を簡して亂心を止む畢命を期として名を稱せば心眼卽開の大益を得んと心眼卽開直に是見性の時節なり
現代語訳
これは、あの善慧大士の言う「頓に心源を悟って宝蔵を開く」ということではないか。末の世の、法の滅びる末世であっても、仏弟子たる者が尊び信ずべき尊い足跡ではないか。およそ代々世に出られた如来、歴代伝灯の祖師、および一切の賢聖、智者、高僧に至るまで、その伝えた秘訣、行持の内証を探れば、ことごとく自性の法門を要とする。蓮如上人も、平生往生、不来迎の往生と説かれたということである。思うに、これも見性の真理ではないか。深く海蔵の底を探り、五千余巻の経典を五度まで究められ、王侯から庶民に至るまで生身の如来のように仰ぎ貴ばれなさった法然上人も、常に悲しみ嘆かれたのは、教内の理に暗くないばかりでなく、教外の心宗を探る先達がいなかったために、綱が短くて深い泉を汲まず、翼が短くて大空に翔らない心地がする、ということだったと諭し置かれたそうである。教外の心宗とは何か。この見性の法門ではないか。至人の一言は、毫釐も人を欺かない。まことに恐るべく、敬うべきである。神祇や冥道も恭敬し尊重なさったほどの尊い上人でさえ、このように望みを深くなさった見性の大事なのに、今の人々が侮り謗るのは罪深く思われる。しかし、道理を知らない人には、それほどの罪咎にもならないだろう。恵心院の僧都は、二十四歳で自性の大円鏡を磨こうとして横川に入られてから、昼は法華経三部、夜は六万遍の念仏を、その間わずかの間も怠けなさらず、六十四歳にして初めて、自身が真如であることを悟られたということだ。まことに貴ぶべきである。自身が真如であると悟る時、山河大地、万象森羅、草木国土、有情非情が、同時に不変真如の全体と見える。これを寂滅現前、見性了悟の時節とする。高野の明蓮僧都が五十余歳の秋、深く念仏三昧に入られた時、高野大師が正しく藕糸の袈裟と一紙の金文を授けられた。その略に言う。「西方の一方を指すのは方便である。九域を簡んで乱心を止め、命の終わりを期として名を称えれば、心眼即開の大益を得よう」と。心眼即開とは、そのまま見性の時節である。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
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