都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
苦樂ノ二ッヲ離レ終ルナリ、離レ終テ、無心無念ノ不可思議ト成ル、是ヲ名テ、自然悟道トモ云ヒ、能所不二機法一體トモ云ニアラズヤ、大原問答ニ曰、自有相修因、直入無相樂果、抑往生見、令體達無生理、コレ等ノ所ハ、如何得心セラレ候ヤ、阿彌陀經曰、從是西方、過十萬億佛土有世界、名曰極樂、其土有佛、號阿彌陀、今現在說法、現在ハ目前ノコトナリ、唯心ノ淨土、己心ノ彌陀ナレバ、娑婆卽寂光ナリ、然レバ現在ノ說法ト云ハ、草木國土悉皆成佛ニテ、森羅萬像悉一佛ナレバ、柳ハ綠、花ハ紅ト分レテ、己々ガ法ヲ說ナリ、一心不亂ノ脩行ヲ以テ此ニ至リ、九品ノ淨土ヲ目前ニ拜ムベシ、コレ卽諸法實相ノ所ナリ、光明遍照十方世界、
新字:苦楽ノ二ッヲ離レ終ルナリ、離レ終テ、無心無念ノ不可思議ト成ル、是ヲ名テ、自然悟道トモ云ヒ、能所不二機法一体トモ云ニアラズヤ、大原問答ニ曰、自有相修因、直入無相楽果、抑往生見、令体達無生理、コレ等ノ所ハ、如何得心セラレ候ヤ、阿弥陀経曰、従是西方、過十万億仏土有世界、名曰極楽、其土有仏、号阿弥陀、今現在説法、現在ハ目前ノコトナリ、唯心ノ浄土、己心ノ弥陀ナレバ、娑婆即寂光ナリ、然レバ現在ノ説法ト云ハ、草木国土悉皆成仏ニテ、森羅万像悉一仏ナレバ、柳ハ緑、花ハ紅ト分レテ、己々ガ法ヲ説ナリ、一心不乱ノ脩行ヲ以テ此ニ至リ、九品ノ浄土ヲ目前ニ拝ムベシ、コレ即諸法実相ノ所ナリ、光明遍照十方世界、
書き下し
苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終りて、無心無念の不可思議と成る。是を名づけて、自然悟道とも云ひ、能所不二機法一体とも云ふにあらずや。大原問答に曰く、有相の修因より、直ちに無相の楽果に入る。往生の見を抑へて、無生の理を体達せしむと。これ等の所は、如何得心せられ候や。阿弥陀経に曰く、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名づけて極楽と曰ふ。其の土に仏有り、阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふと。現在は目前のことなり。唯心の浄土、己心の弥陀なれば、娑婆即寂光なり。然れば現在の説法と云ふは、草木国土悉皆成仏にて、森羅万像悉く一仏なれば、柳は緑、花は紅と分れて、己々が法を説くなり。一心不乱の脩行を以て此に至り、九品の浄土を目前に拝むべし。これ即ち諸法実相の所なり。光明遍照十方世界、
現代語訳
苦と楽の二つを離れきるのです。離れきって、無心無念の不思議な境地となる。これを自然悟道とも、能所不二・機法一体とも言うのではありませんか。『大原問答』には『形あるものを修める因から、ただちに形のない楽果に入る。往生という見方を抑えて、生ずることのない理を体得させる』とあります。こうしたところを、どう心得ておられますか。『阿弥陀経』には『ここから西方へ十万億の仏土を過ぎた所に極楽という世界があり、そこに阿弥陀という仏がいて、今現に法を説いておられる』とあります。「現在」とは目の前のことです。唯心の浄土、己心の弥陀であれば、この娑婆がそのまま寂光土です。ですから今の説法とは、草木も国土もことごとく成仏し、森羅万象がみな一仏であって、柳は緑、花は紅とそれぞれに分かれて、おのおのの法を説いているのです。一心不乱の修行でここに至り、九品の浄土を目の前に拝むべきです。これがすなわち諸法実相です。光明はあまねく十方世界を照らし、
解説

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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段曰く、然らば汝は、段々伝へ来る大事を、みな偽りと云ひ、非法するは如何なることぞ。答ふ、何ぞ理なく他を非法すべき。念仏宗に云ふは、西方極楽へ往生し、彼の国に至りて、如来の説法を聞きて、悟りを開き、成仏するとの教なり。汝如き人の導師と成る者は、此所を能々工夫して、開くべき所なり。仏氏にて云ふときは、迷ふが故に三界城、悟るが故に十方空、本来東西無し、何処にか南北有らんと。此の如くなれば、彼の国と云ふは、唯心の浄土と云ふことに決定せり。浄土と云ふも、我心のことなり。普広菩薩仏に白して言さく、世尊、十方仏土、皆厳浄たり。何の故に諸経の中に、偏へに西方阿弥陀仏国を歎じて往生を勧むるやと。仏普広菩薩に告げたまはく、一切衆生濁乱の者多く、正念の者少なし。衆生をして心を専らにして在る所有らしめんと欲す。是の故に彼の国を讃歎して別異と為すのみ。若し能く願に依りて脩行すれば、
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遠羅天釜・『遠羅天釜』仏は至る所にあり円恕の逸話此故に言ふ佛身法界に充滿して普く一切群生の前に現ずと若佛西方にのみおわさば一切群生の前に現じ玉ふ事能はじ若一切群生の前に現せは特西方に限るべからず悲ひ哉如來清淨の眞身は煥爛として目前に分明なる事掌を見るが如くなれども慧眼既に盲いたる故に都で是を見上つる事能はず豈に言はずや光明遍照十方世界と蓋し光明と世界と兩般の會を成し玉ふべからず悟る則んば十方世界草木國土を全ふして直に是如來清淨光明の眞身とし迷ふ則んは如來清淨光明の眞身を全ふして錯つて十方世界草木國土とす此故に經に曰く若し色を以て我を見音聲を以て我を求めば此の人邪道を行じて如來を見上つる事能はじと眞正淨業の行者は即ち然らず生を觀せず死を觀せず心失念せず心顚倒せずとなへ唱へて一心不亂の田地に到つて忽然として大事現前し往生決定す此の人を指て眞正見性の人とす自身直に是六十萬億那由佗恒河沙由旬の彌陀七重の寶樹八功德池心上に昭昭として目前に煥粲たり山河大地萬象森羅盡く是れ微妙希有の莊嚴海なる事を徹見す專唱稱名一念不生放身捨命の端的を往と云三昧發得眞智現前の當位を生と云如上の眞理煥然として當處湛然一毫をも隔てず涌出するを來迎とす來迎往生直下不二是見性の當體なり元祿の頃をい二人の淨業者あり一人を圓恕と云ひ一人りを圓愚と云ふ二人志を同ふして專唱怠る事なし圓恕は山城の人也唱念純一果して一心不亂の境致に到つて忽然として三昧發得し往生の大事を決定す此に於て遠の初山に上つて獨湛老人に謁す湛問ふ儞ちは是何れの處の人ぞ恕曰く山城湛云く何れの宗をか業とす恕曰く淨業湛云く彌陀如來年多少ぞ恕曰く某甲と同年湛云く儞ち年多少ぞ恕曰く彌陀と同年湛云く即今何れの處にか在恕即ち左手を握て少く揚ぐ湛驚て曰く儞は是眞箇淨業の人也と圓愚も亦久しからずして三昧發得し大事決定す元祿の初め豆州の赤澤なる處に行者あり即往と云ふ彼れ亦た稱名の力に依て大ひに得力あり予向きに此兩三箇の傳を記す逐一枚擧するに暇あらず是即ち專唱稱名得力の現證なり
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