都鄙問答 / 卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段
一ヲ擧テ云ハヾ、往ハ猶此ノゴトシ、此ニ生ルナリ、自心ヨリ生ルヲ以テ、故ニ不往往ヲ名ケテ往生トナスナリ、念佛ノ行者モ、初ニハ火宅ヲ厭ヒ、離レンコトヲ思フテ、極樂往生ヲ願ヒ、彌陀ヲ念ズルナリ、夫ヨリ年月ヲ經テ、南無阿彌陀佛南無阿彌陀佛ト唱レバ、念佛ニクセツキテ、終ニハ餘念他念ナク、後ニハ南無阿彌陀佛計ニナレバ不往シテ、南無阿彌陀佛ニ生ルヽナリ、南無阿彌陀佛ニナレバ、我ト云モノアルベキヤ、我ナケレバ虛空ノ如シ、虛空ニ南無阿彌陀佛ノ聲有テ唱レバ、此レ卽阿彌陀佛ナリ、阿彌陀佛直ニ御名ヲ唱ヘ玉フハ、說法ニアラズヤ、此說法ノ功德ニ依テ、彌陀ヲ念ズル行者モ、念ゼラルヽ方ノ佛モ、雙方トモニ一體ト成リ、
新字:一ヲ挙テ云ハヾ、往ハ猶此ノゴトシ、此ニ生ルナリ、自心ヨリ生ルヲ以テ、故ニ不往往ヲ名ケテ往生トナスナリ、念仏ノ行者モ、初ニハ火宅ヲ厭ヒ、離レンコトヲ思フテ、極楽往生ヲ願ヒ、弥陀ヲ念ズルナリ、夫ヨリ年月ヲ経テ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏ト唱レバ、念仏ニクセツキテ、終ニハ余念他念ナク、後ニハ南無阿弥陀仏計ニナレバ不往シテ、南無阿弥陀仏ニ生ルヽナリ、南無阿弥陀仏ニナレバ、我ト云モノアルベキヤ、我ナケレバ虚空ノ如シ、虚空ニ南無阿弥陀仏ノ声有テ唱レバ、此レ即阿弥陀仏ナリ、阿弥陀仏直ニ御名ヲ唱ヘ玉フハ、説法ニアラズヤ、此説法ノ功徳ニ依テ、弥陀ヲ念ズル行者モ、念ゼラルヽ方ノ仏モ、双方トモニ一体ト成リ、
書き下し
一を挙げて云はゞ、往は猶此のごとし、此に生るなり。自心より生るを以て、故に往かずして往くを名づけて往生となすなり。念仏の行者も、初めには火宅を厭ひ、離れんことを思うて、極楽往生を願ひ、弥陀を念ずるなり。夫より年月を経て、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱ふれば、念仏にくせつきて、終には余念他念なく、後には南無阿弥陀仏計りになれば、往かずして、南無阿弥陀仏に生るゝなり。南無阿弥陀仏になれば、我と云ふものあるべきや。我なければ虚空の如し。虚空に南無阿弥陀仏の声有りて唱ふれば、此れ即ち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏直に御名を唱へ玉ふは、説法にあらずや。此説法の功徳に依りて、弥陀を念ずる行者も、念ぜらるゝ方の仏も、双方ともに一体と成り、
現代語訳
その一つを挙げれば、「往」とはここにあるということ、ここに生まれるということです。自分の心から生まれるのですから、行かずに行くことを往生と名づけるのです。念仏の行者も、はじめは燃える家のようなこの世を厭い、離れたいと思って極楽往生を願い、阿弥陀仏を念じます。それから年月を経て、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱えていると、念仏が癖になって、ついには他の雑念がなくなり、南無阿弥陀仏ばかりになる。そうなれば、どこへも行かずに南無阿弥陀仏に生まれるのです。南無阿弥陀仏になりきれば、自分というものがあるでしょうか。自分がなければ虚空のようなものです。その虚空に南無阿弥陀仏の声があって唱えるのなら、それがすなわち阿弥陀仏です。阿弥陀仏がじかに御名を唱えておられるのが説法でなくて何でしょう。この説法の功徳によって、阿弥陀を念じる行者も念じられる仏も、双方ともに一体となり、
解説
この章句が説くこと
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段益を獲ざること莫しと。これに因りて見れば、一切衆生に、心の濁り乱るゝ者多く、正念の者は少きゆへに、衆生の心を、一筋に向はしめん為に、西方を極楽と指して教ふとの玉ふこと、明白なり。然れば、極楽を西方と教へ玉ふは、愚痴の者に説き玉ふ法にて、上知の教は、十方仏土なること明なり。師範と成る者は、別して味はふべき所なり。愚痴なれば、先づ我往くべき道を知らず。我往生を知らずして、他を導くべき所にあらず。扠如来の説法と云ふは、直に南無阿弥陀仏と知るべし。如何となれば、口に唱ふる南無阿弥陀仏が耳に入り、一遍の念仏にては、一念の悪を消し、二遍の念仏にては、二念の悪を消す。悪念死して善心生るなれば、これ即ち往生なり。往生に三義を立つる中に、
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『都鄙問答』卷之四・淨土宗之僧、念佛ヲ勸之段苦楽の二つを離れ終るなり。離れ終りて、無心無念の不可思議と成る。是を名づけて、自然悟道とも云ひ、能所不二機法一体とも云ふにあらずや。大原問答に曰く、有相の修因より、直ちに無相の楽果に入る。往生の見を抑へて、無生の理を体達せしむと。これ等の所は、如何得心せられ候や。阿弥陀経に曰く、是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名づけて極楽と曰ふ。其の土に仏有り、阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふと。現在は目前のことなり。唯心の浄土、己心の弥陀なれば、娑婆即寂光なり。然れば現在の説法と云ふは、草木国土悉皆成仏にて、森羅万像悉く一仏なれば、柳は緑、花は紅と分れて、己々が法を説くなり。一心不乱の脩行を以て此に至り、九品の浄土を目前に拝むべし。これ即ち諸法実相の所なり。光明遍照十方世界、
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『驢鞍橋』卷上亦仏を信するにも二科有り、深く仏恩を信して、身命を抛ちて礼し奉り、業障を尽し、我を尽すは可也。仏を敬つて其代に仏に成らんと思ふは、輪廻の業也。亦念仏申すにも二科有り、念仏を申し仏に成らんと思ふは輪廻の業也。実には念仏を以て、一切の煩悩を申し消すを正理とす。其故は総して今仏に成る物にあらず、煩悩をさへ申し消せば本自ら仏也。然るに死して後仏に成らん抔と思ふは、皆死欲かわき也。尤も機に随つて死欲を以て、娑婆欲を奪ふ方便なきにあらず。死欲に生欲は替物なれとも輪廻の業と成る事は一つ也。悪き我を尽せとも、却て善き我を建立する也。兎角後能く成らんと思ふて勤むるは、皆輪廻の業也。然る間万事を放下して、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と息を引切り引切り常に死習ひて安楽に死ぬる外なし。只强く念仏すべし、沈み念仏申すべからす。総して强き機には病か付かぬ物也。
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