遠羅天釜 / 『遠羅天釜』一椀の水と江湖の水
永平の開祖も行持あらん一日は貴ぶべきの一日なり行持なからん百年は恨むべきの百年なりと宣ひき窓にたま〱受難き人身をうけながら何の行持の心もなくて逢難き一生をやみ〱と犬猫などの何の覺悟もなくて朽果る如く苦しかりし三塗の舊里へ懲もなく立歸らんずる事口惜く淺猿しき境界かなと涙を落すべき事なり然るに難きことは甚だ難しとは我得て疑ふ事なし易き事は甚だ易しとは如何なる故ぞとならば若人此經を手を放ちて行住坐臥にやすく〱と持んとならば誓つて一囘法華眞の面目を見屆くべしと願ひ給ふべし法華眞の面目を一見したらん上は咳唾掉臂動靜云爲草木瓦石有情非情悉く皆妙法蓮華經と現成する故に十二時中此經と冥合す何ぞ別に持つ事を用んや眞の法華を一見せずして法華經を持たんと擬するは譬ばこゝに一人あらんに手に一椀の水を擎て零さじ動かさじと晝夜に愼み守りて養ひ增んと願ふが如し縱ひ一生擎げ守つて十成なるも養ひ增す事は存じもよらず自家の飢渴も亦救ふ事能はず彼二利の願行に於ては望を其間に絕ものなり何の用を作にか堪んや若又眞の法華を一見して此經を持つ人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し忽ち三萬六千頃の烟波と混合し德澤を大湖と共にして飛者走る者翔る者蠢く者同く共に行て呑んに盡る事なし眞の法華を見ざる人は一椀の水を擎る人の如し他を利する事能はざるのみに非ず自己も亦利する事能はじ眞の法華を一見する人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し覺へず諸佛の大寂滅海に投入して諸佛の眞法身戒定智慧と冥合して忽ち賴耶の暗窟を擊碎し大圓鏡光を放出して塵沙劫を經て大法施を行せんに終に乏き事なし一見法華の功德の廣大なる事上下四維等匹なし人あり一切諸經論を熟讀せんよりは須らく眞の法華を一見すべし無量の寶塔を修造せんよりは須らく眞の法華を一見すべし百千の佛を造立せんよりは須らく眞の法華を一見すべし三界の秘密を學得せんよりは須らく眞の法華を一見すべし彼黄卷赤軸のみを把ゑて法華經なりと偏執せんよりは須らく眞の法華を一見すべし口に百千萬部の法華經を讀誦せんよりは須らく眼に一囘眞の法華を見るべし是實に成實不壞の高談なり
新字:永平の開祖も行持あらん一日は貴ぶべきの一日なり行持なからん百年は恨むべきの百年なりと宣ひき窓にたま〱受難き人身をうけながら何の行持の心もなくて逢難き一生をやみ〱と犬猫などの何の覚悟もなくて朽果る如く苦しかりし三塗の旧里へ懲もなく立帰らんずる事口惜く浅猿しき境界かなと涙を落すべき事なり然るに難きことは甚だ難しとは我得て疑ふ事なし易き事は甚だ易しとは如何なる故ぞとならば若人此経を手を放ちて行住坐臥にやすく〱と持んとならば誓つて一囘法華真の面目を見届くべしと願ひ給ふべし法華真の面目を一見したらん上は咳唾掉臂動静云為草木瓦石有情非情悉く皆妙法蓮華経と現成する故に十二時中此経と冥合す何ぞ別に持つ事を用んや真の法華を一見せずして法華経を持たんと擬するは譬ばこゝに一人あらんに手に一椀の水を擎て零さじ動かさじと昼夜に慎み守りて養ひ增んと願ふが如し縦ひ一生擎げ守つて十成なるも養ひ增す事は存じもよらず自家の飢渇も亦救ふ事能はず彼二利の願行に於ては望を其間に絶ものなり何の用を作にか堪んや若又真の法華を一見して此経を持つ人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し忽ち三万六千頃の烟波と混合し徳沢を大湖と共にして飛者走る者翔る者蠢く者同く共に行て呑んに尽る事なし真の法華を見ざる人は一椀の水を擎る人の如し他を利する事能はざるのみに非ず自己も亦利する事能はじ真の法華を一見する人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し覚へず諸仏の大寂滅海に投入して諸仏の真法身戒定智慧と冥合して忽ち頼耶の暗窟を撃砕し大円鏡光を放出して塵沙劫を経て大法施を行せんに終に乏き事なし一見法華の功徳の広大なる事上下四維等匹なし人あり一切諸経論を熟読せんよりは須らく真の法華を一見すべし無量の宝塔を修造せんよりは須らく真の法華を一見すべし百千の仏を造立せんよりは須らく真の法華を一見すべし三界の秘密を学得せんよりは須らく真の法華を一見すべし彼黄巻赤軸のみを把ゑて法華経なりと偏執せんよりは須らく真の法華を一見すべし口に百千万部の法華経を読誦せんよりは須らく眼に一囘真の法華を見るべし是実に成実不壊の高談なり
書き下し
永平の開祖も行持あらん一日は貴ぶべきの一日なり行持なからん百年は恨むべきの百年なりと宣ひき窓にたま〱受難き人身をうけながら何の行持の心もなくて逢難き一生をやみ〱と犬猫などの何の覺悟もなくて朽果る如く苦しかりし三塗の舊里へ懲もなく立歸らんずる事口惜く淺猿しき境界かなと涙を落すべき事なり然るに難きことは甚だ難しとは我得て疑ふ事なし易き事は甚だ易しとは如何なる故ぞとならば若人此經を手を放ちて行住坐臥にやすく〱と持んとならば誓つて一囘法華眞の面目を見屆くべしと願ひ給ふべし法華眞の面目を一見したらん上は咳唾掉臂動靜云爲草木瓦石有情非情悉く皆妙法蓮華經と現成する故に十二時中此經と冥合す何ぞ別に持つ事を用んや眞の法華を一見せずして法華經を持たんと擬するは譬ばこゝに一人あらんに手に一椀の水を擎て零さじ動かさじと晝夜に愼み守りて養ひ增んと願ふが如し縱ひ一生擎げ守つて十成なるも養ひ增す事は存じもよらず自家の飢渴も亦救ふ事能はず彼二利の願行に於ては望を其間に絕ものなり何の用を作にか堪んや若又眞の法華を一見して此經を持つ人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し忽ち三萬六千頃の烟波と混合し德澤を大湖と共にして飛者走る者翔る者蠢く者同く共に行て呑んに盡る事なし眞の法華を見ざる人は一椀の水を擎る人の如し他を利する事能はざるのみに非ず自己も亦利する事能はじ眞の法華を一見する人は彼一椀の水を江湖に投ずるが如し覺へず諸佛の大寂滅海に投入して諸佛の眞法身戒定智慧と冥合して忽ち賴耶の暗窟を擊碎し大圓鏡光を放出して塵沙劫を經て大法施を行せんに終に乏き事なし一見法華の功德の廣大なる事上下四維等匹なし人あり一切諸經論を熟讀せんよりは須らく眞の法華を一見すべし無量の寶塔を修造せんよりは須らく眞の法華を一見すべし百千の佛を造立せんよりは須らく眞の法華を一見すべし三界の秘密を學得せんよりは須らく眞の法華を一見すべし彼黄卷赤軸のみを把ゑて法華經なりと偏執せんよりは須らく眞の法華を一見すべし口に百千萬部の法華經を讀誦せんよりは須らく眼に一囘眞の法華を見るべし是實に成實不壞の高談なり
現代語訳
永平の開祖(道元)も「行持のある一日は貴ぶべき一日であり、行持のない百年は恨むべき百年である」と仰せられた。まことに、受け難い人の身を受けながら、何の行持の心もなく、逢い難い一生をぼんやりと、犬や猫が何の覚悟もなく朽ち果てるように過ごし、苦しかった三塗(地獄・餓鬼・畜生)の旧里へ懲りもせず立ち帰ろうとすることは、口惜しく浅ましい境遇であると、涙を落とすべきことである。ところで、難いことは甚だ難いということは私も疑わないが、易いことは甚だ易いとはどういうわけかといえば、もし人がこの経を手を放して、行住坐臥にたやすく持とうとするなら、誓って一度は法華の真の面目を見届けようと願われるがよい。法華の真の面目を一度見たからには、咳唾・掉臂・動静・云為、草木瓦石、有情非情、ことごとくみな妙法蓮華経として現れるので、十二時中この経と冥合する。どうして別に持つことを用いようか。真の法華を一見せずに法華経を持とうとするのは、たとえば、ここに一人がいて、手に一椀の水をささげ持ち、こぼすまい動かすまいと昼夜慎み守り、それを養い増やそうと願うようなものである。たとえ一生ささげ守って十分に守ったとしても、養い増やすことは思いもよらず、自分の飢えや渇きさえ救うことができない。あの自利利他の願いと行においては、望みを絶つものである。何の用に堪えようか。もしまた、真の法華を一見してこの経を持つ人は、あの一椀の水を江湖に投じるようなものである。たちまち三万六千頃の煙波と混じり合い、恵みを大湖と共にして、飛ぶもの・走るもの・翔るもの・蠢くものが、同じく共に行って飲んでも、尽きることがない。真の法華を見ない人は一椀の水をささげる人のようで、他を利することができないだけでなく、自分をも利することができない。真の法華を一見する人は、あの一椀の水を江湖に投じるようなもので、知らず知らず諸仏の大寂滅海に投入し、諸仏の真法身である戒・定・慧と冥合して、たちまち頼耶(阿頼耶識)の暗い洞窟を撃ち砕き、大円鏡智の光を放ち出して、塵沙劫を経て大法施を行っても、ついに乏しくなることがない。一見法華の功徳の広大なことは、上下四方に匹敵するものがない。ある人が一切の諸経論を熟読しようとするよりは、まず真の法華を一見すべきである。無量の宝塔を造営するよりは、まず真の法華を一見すべきである。百千の仏を造立するよりは、まず真の法華を一見すべきである。三界の秘密を学び得るよりは、まず真の法華を一見すべきである。あの黄巻赤軸だけを手にして法華経だと偏執するよりは、まず真の法華を一見すべきである。口に百千万部の法華経を読誦するよりは、眼に一回、真の法華を見るべきである。これは実に、成実不壊の高談である。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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