遠羅天釜 / 『遠羅天釜』主心を下に収める養生
古への神醫は未だ病ざる先を治すよく人をして心を攝め氣を養はしむ庸醫は是に反す已に病の後を見て針灸藥の三つを以てこれを治せんとす救ざるものの多し大凡精氣神の三つの物は一身の柱礎なり至人は氣を惜んで使ず蓋し生を養ふの術は國を守が如し神は君の如く精は臣の如く氣は民の如し夫その民を愛するは其國を全ふするゆゑんなり其氣を惜むは其身を全ふするゆゑんなり民散ずる時は國亡ぶ氣竭る時は身死す此故に聖主は常に心を下に專にし庸主は常に心を上に恣にす上に恣にする時は九卿寵を恃み百僚權に傲つて曾て民間の窮枯を顧る事なし歛臣貪り掠め酷吏僞はり剝野に菜色多く國に餓莩倒る賢良潛み竄れ臣民瞋り恨み終に民庶を塗炭にし國脉永く斷るに至る心を下に專にする時は常に民間の勞疲を忘るゝ事なく民肥國強く令に違するの臣民なく境を侵すの敵國なし人身も亦然り至人は常に心氣をして下に充しむ此故に七凶內に動く事なく四邪外より侵す事能はず營衞充ち心神健かなり身終に針灸の痛痒を知ざる事強國の民の刁斗の聲を聞かざるが如し岐伯昔し黃帝の問に答ふ恬淡虛無なれば眞氣これに從ふ精神內に守らば病安よりか來らんと今の人は此に反す生より死に至るまで主心片時も內を守る事なし主心とは何それの物と云事をさへ知らず無知なる事犬馬の日々に足に任せて走るが如し危かな兵家に云はずや驚悲妄りに起るは主心定まらざる故なりと蓋し主心內に守る時は憂悲恐怖妄りに生ずる事なし若人片時も主心なき時は死人に如同す或ひは放辟邪侈至らずと云事なし
新字:古への神医は未だ病ざる先を治すよく人をして心を摂め気を養はしむ庸医は是に反す已に病の後を見て針灸薬の三つを以てこれを治せんとす救ざるものの多し大凡精気神の三つの物は一身の柱礎なり至人は気を惜んで使ず蓋し生を養ふの術は国を守が如し神は君の如く精は臣の如く気は民の如し夫その民を愛するは其国を全ふするゆゑんなり其気を惜むは其身を全ふするゆゑんなり民散ずる時は国亡ぶ気竭る時は身死す此故に聖主は常に心を下に専にし庸主は常に心を上に恣にす上に恣にする時は九卿寵を恃み百僚権に傲つて曽て民間の窮枯を顧る事なし歛臣貪り掠め酷吏偽はり剥野に菜色多く国に餓莩倒る賢良潜み竄れ臣民瞋り恨み終に民庶を塗炭にし国脉永く断るに至る心を下に専にする時は常に民間の労疲を忘るゝ事なく民肥国強く令に違するの臣民なく境を侵すの敵国なし人身も亦然り至人は常に心気をして下に充しむ此故に七凶内に動く事なく四邪外より侵す事能はず営衛充ち心神健かなり身終に針灸の痛痒を知ざる事強国の民の刁斗の声を聞かざるが如し岐伯昔し黄帝の問に答ふ恬淡虚無なれば真気これに従ふ精神内に守らば病安よりか来らんと今の人は此に反す生より死に至るまで主心片時も内を守る事なし主心とは何それの物と云事をさへ知らず無知なる事犬馬の日々に足に任せて走るが如し危かな兵家に云はずや驚悲妄りに起るは主心定まらざる故なりと蓋し主心内に守る時は憂悲恐怖妄りに生ずる事なし若人片時も主心なき時は死人に如同す或ひは放辟邪侈至らずと云事なし
書き下し
古への神醫は未だ病ざる先を治すよく人をして心を攝め氣を養はしむ庸醫は是に反す已に病の後を見て針灸藥の三つを以てこれを治せんとす救ざるものの多し大凡精氣神の三つの物は一身の柱礎なり至人は氣を惜んで使ず蓋し生を養ふの術は國を守が如し神は君の如く精は臣の如く氣は民の如し夫その民を愛するは其國を全ふするゆゑんなり其氣を惜むは其身を全ふするゆゑんなり民散ずる時は國亡ぶ氣竭る時は身死す此故に聖主は常に心を下に專にし庸主は常に心を上に恣にす上に恣にする時は九卿寵を恃み百僚權に傲つて曾て民間の窮枯を顧る事なし歛臣貪り掠め酷吏僞はり剝野に菜色多く國に餓莩倒る賢良潛み竄れ臣民瞋り恨み終に民庶を塗炭にし國脉永く斷るに至る心を下に專にする時は常に民間の勞疲を忘るゝ事なく民肥國強く令に違するの臣民なく境を侵すの敵國なし人身も亦然り至人は常に心氣をして下に充しむ此故に七凶內に動く事なく四邪外より侵す事能はず營衞充ち心神健かなり身終に針灸の痛痒を知ざる事強國の民の刁斗の聲を聞かざるが如し岐伯昔し黃帝の問に答ふ恬淡虛無なれば眞氣これに從ふ精神內に守らば病安よりか來らんと今の人は此に反す生より死に至るまで主心片時も內を守る事なし主心とは何それの物と云事をさへ知らず無知なる事犬馬の日々に足に任せて走るが如し危かな兵家に云はずや驚悲妄りに起るは主心定まらざる故なりと蓋し主心內に守る時は憂悲恐怖妄りに生ずる事なし若人片時も主心なき時は死人に如同す或ひは放辟邪侈至らずと云事なし
現代語訳
昔の神医は、病まぬうちを治した。よく人に心を収めさせ気を養わせた。凡庸な医者はこれと反対で、すでに病んだ後を見て、針・灸・薬の三つで治そうとする。救えない者が多い。おおよそ精・気・神の三つは一身の柱と礎石である。至人は気を惜しんで使わない。思うに生を養う術は国を守るのと同じである。神は君主のごとく、精は臣のごとく、気は民のごとし。そもそも民を愛するのはその国を全うするためであり、気を惜しむのはその身を全うするためである。民が離散する時は国が滅び、気が尽きる時は身が死ぬ。このゆえに、聖主は常に心を下に専らにし、凡庸な君主は常に心を上に放縦にする。上に放縦にする時は、九卿は寵愛を頼みにし、百官は権力に傲って、まったく民間の困窮を顧みることがない。税を取り立てる臣は貪り奪い、酷吏は偽りを働き剥ぎ取り、野には飢えて青ざめた顔色の者が多く、国には餓死者が倒れ、賢良の人は潜み隠れ、臣民は怒り恨み、ついに庶民を塗炭の苦しみに陥れて、国の命脈が永く断たれるに至る。心を下に専らにする時は、常に民間の疲労を忘れることなく、民は肥え国は強く、命令に背く臣民もなく、国境を侵す敵国もない。人の身もまたそうである。至人は常に心気を下に充たしめる。このゆえに七つの凶が内に動くことなく、四つの邪が外から侵すこともできない。営衛が充ち、心神は健やかで、身はついに針灸の痛みやかゆみを知らない。それは強国の民が、夜警の刁斗の音を聞かないようなものである。岐伯は昔、黄帝の問いに答えて言った、「心が恬淡で虚無であれば、真気はこれに従う。精神が内に守られていれば、病はどこから来ようか」と。今の人はこれと反対で、生まれてから死ぬまで、主心を片時も内に守ることがない。主心とは何かということさえ知らない。無知なことは、犬や馬が毎日足にまかせて走るようなものである。危ういことだ。兵家にもいうではないか、「驚きや悲しみがみだりに起こるのは、主心が定まらないからである」と。思うに、主心が内に守られている時は、憂い・悲しみ・恐れ・おののきがみだりに生じることはない。もし人に片時でも主心がない時は、死人と同じである。あるいは、よこしまで放逸なことのすべてが、至らぬものはなくなる。
解説

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関連する章句
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『養生訓』巻第一・総論上一古の君子は、礼楽をこのんで行ひ、射御を学び、力を労動し、詠歌舞蹈して血脈を養ひ、嗜慾を節にし、心気を定め、外邪を慎み防ぐ。かくのごとく常に行へば、鍼灸薬を用ひずして病なし。是君子の行ふ所、本をつとむるの法、上策なり。病多きは皆養生の術なきよりおこる。病おこりて薬を服し、いたき鍼、あつき灸をして、父母よりうけし遺体にきずづけ、火をつけ、熱痛をこらへて身をせめ病を療すは、甚末の事、下策なり。たとへば国ををさむるに徳を以てすれば、民おのづから服して乱おこらず、攻め撃つことを用ひず、又保養を用ひずして、只薬と鍼灸を用ひて病をせむるは、たとへば国を治むるに徳を用ひず、下を治むる道なく、臣民うらみそむきて乱をおこすをしづめんとて、兵を用ひてたたかふが如し。百たび戦つて百たび勝つとも、たつとぶにたらず。養生をよくせずして、薬と鍼灸とを頼んで病を治するも、またかくの如し。
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『夜船閑話』本文蓋し生を養ふことは国を守るが如し。明君聖主は常に心を下に専にし、暗君庸主は常に心を上に恣にす。上に恣にする則は、九卿権に誇り、百僚寵を恃んで、曽て民間の窮困を顧ること無し、野に菜色多く国餓莩多し。賢良潜み竄れ、臣民瞋り恨む。諸侯離れ叛き、衆夷競ひ起つて終に民庶を塗炭にし、国脉永く断絶するに到る。
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文子・下德老子曰く、身を治むるは、太上は神を養い、其の次は形を養う。神清く意平らかにして、百節皆寧きは、養生の本なり。肌膚を肥やし、腹腸を充たし、嗜欲を供するは、養生の末なり。国を治むるは、太上は化を養い、其の次は法を正す。民交ごも譲りて争いて卑きに処り、財利争いて受くること少なく、事力争いて労に就き、日に上に化して善に遷り、其の然る所以を知らざるは、治の本なり。利して賞して善を勧め、刑を畏れて敢えて非を為さず、法令上に正しくして、百姓下に服するは、治の末なり。上世は本を養い、下世は末を事とす。
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『夜船閑話』本文人身もまた然り、至人は常に心気をして下に充たしむ。心気下に充つる則は、七凶内に動くことなく、四邪また外より窺ふこと能はず。営衛充ち、心神健なり。口終に薬餌の甘酸を知らず、身終に鍼灸の痛痒を受けず。
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『慎思録』巻之一心は隠微の中に在りて、未だ形迹の著るること有らず。之を操ること難し。情に発して後に迹有りて、善悪著る。此に於て操りて存すべし。情は気に由りて発す。故に正心の道は、養気に在り。養気とは、動静語黙、人に接し事に応ずるに、常に和平なるを要す。和平の道は、所謂其の志を持して其の気を暴ふこと勿きに在るのみ。大率日用常行の際、己を修め人に接するの道は、温恭を以て基と為す。堯は允恭克譲、舜は温恭允塞、夫子は温良恭倹譲、燕居申申夭夭。詩に曰く、温温たる恭人、惟れ徳の基と。管子弟子職に曰く、温恭自ら虚しくすと。聖賢の行ふ所、皆是れ這件の事なり。夫れ人の一身、心固より主為り、而して気専ら事を用ふ。故に七情思慮視聴言動、皆気の為す所なり。之を養ふに節を以てせざるべからず。若し其の気を暴へば、則ち其の道を失ふと為す。故に平生温恭和平にして以て気を養ふは、是れ即ち心を養ふ所以にして、心を養ふと気を養ふとは、二事に非ざるなり。
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文子・九守老子曰く、聖人は陰と俱に閉じ、陽と俱に開き、能く無楽に至るや、即ち楽しまざる無し。楽しまざる無きは、即ち至楽極まるなり。是を以て内は外を楽しませ、外を以て内を楽しませず、故に自ら楽しむ有り、即ち自ら志して天下に貴きを有つ。然る所以は、因りて天下の要を為せばなり。彼に在らずして我に在り、人に在らずして身に在り。身得れば則ち万物備わる。故に心術の論に達する者は、即ち嗜欲好憎外なり。是の故に喜ぶ所無く、怒る所無く、楽しむ所無く、苦しむ所無く、万物玄同にして、非も無く是も無し。故に士に一定の論有り、女に易えざるの行い有り、勢を待たずして尊く、財を須たずして富み、力を須たずして強く、貨財を利とせず、世名を貪らず、貴を以て安しとせず、賤を以て危しとせず、形神気志各おの其の宜しきに居る。夫れ形は生の舎なり、気は生の元なり、神は生の制なり。一たび其の位を失えば即ち三者傷つく。故に神を以て主と為す者は形従いて利あり、形を以て制と為す者は神従いて害あり。其の生、貪叨多欲の人は、勢利より宜しきは莫く、名位を誘慕し、幾ど過人の知を以て位世に高きも、即ち精神日に耗して以て遠く、久しく淫して還らず、形閑中に拒めば、即ち入る由無し。是を以て時に盲忘自失の患い有り。夫れ精神志気は、静なれば日に充ちて以て壮んに、躁なれば日に耗して以て老ゆ。是の故に聖人は其の神を持養し、其の気を和弱にし、其の形を平夷にして、道と浮沈す。此くの如くなれば則ち万物の化偶せざる無く、百事の変応ぜざる無し。