遠羅天釜 / 『遠羅天釜』火中の蓮と六塵の禅定
然るに山林野外に在て一食卯齋し六時行道する人さへ道業純一になる事能はず況や夫婦昆弟の間に交り塵務紛然たる巷をや若それ見性の眼なくんば毫釐も相應する事能はじ是故に達磨大師云く若欲覓佛須是見性と若し又た忽ち諸法實相唯有一乘の知見を開かば六塵即ち禪定五欲即ち一乘なるが故に語默動靜常に禪定中なるべし若果して然らば彼山林に在て禪を行ずる底と得力零壤の間を隔てん火裏の蓮とは世間希有の行者なりと稱歎し玉ふにし非ず永嘉は天台の三諦即一の堂奧に達し止觀の修行は精しく鍛鍊し玉ひたれば傳中にも四威儀に常に禪觀に冥ずと稱歎したる程なれば片言隻字といへども中々容易の事にし非ず四威儀に常に禪觀に冥ずとは四儀即ち禪觀禪觀即ち四儀なるに冥合したる境界を云へり彼菩薩は道場を起ずして諸の威儀を現ずと說たまひしと同一模範なりそれ蓮は水中にさける華なる故に火邊に近付時は立處に枯れ凋む事なり然れば火氣は蓮には上へもなき敵藥ならずや然るに火裏よりさき出たらん蓮は烈火に向ふ程いよ〱色香を增して麗はしかるべし彼五欲を避嫌つて最初より修行したらん人は縱ひ我法の二空に通じ見道如何許り明らかなりとも靜中を離し動中に向ふ時は蜆蝦の水を失へるに等しく獮猴の林樹を離れたるに似て半點の氣力無して左ながら水中の蓮の火氣に逢て忽ち凋枯するが如けん若し又平生六塵の上へに於て猛く精彩を著け純一無雜打成一片にして毫釐も錯らず彼何百兩の黃金を亂世の時贈り屆けし人の如く猛く甲斐〱しき氣象を押立て片時も間斷なく勵に進みたらんには忽ち自心の源底を掀翻し生死の命根を蹈斷して虛空消殞し鐵山摧る底の大歡喜あらん彼火裏よりさき出たる蓮華の火氣に逢てうたゝ色香を增が如けん何が故ぞ火氣即ち蓮華蓮華即ち火氣なる故に
新字:然るに山林野外に在て一食卯斎し六時行道する人さへ道業純一になる事能はず況や夫婦昆弟の間に交り塵務紛然たる巷をや若それ見性の眼なくんば毫釐も相応する事能はじ是故に達磨大師云く若欲覓仏須是見性と若し又た忽ち諸法実相唯有一乗の知見を開かば六塵即ち禅定五欲即ち一乗なるが故に語黙動静常に禅定中なるべし若果して然らば彼山林に在て禅を行ずる底と得力零壤の間を隔てん火裏の蓮とは世間希有の行者なりと称嘆し玉ふにし非ず永嘉は天台の三諦即一の堂奥に達し止観の修行は精しく鍛錬し玉ひたれば伝中にも四威儀に常に禅観に冥ずと称嘆したる程なれば片言隻字といへども中々容易の事にし非ず四威儀に常に禅観に冥ずとは四儀即ち禅観禅観即ち四儀なるに冥合したる境界を云へり彼菩薩は道場を起ずして諸の威儀を現ずと説たまひしと同一模範なりそれ蓮は水中にさける華なる故に火辺に近付時は立処に枯れ凋む事なり然れば火気は蓮には上へもなき敵薬ならずや然るに火裏よりさき出たらん蓮は烈火に向ふ程いよ〱色香を增して麗はしかるべし彼五欲を避嫌つて最初より修行したらん人は縦ひ我法の二空に通じ見道如何許り明らかなりとも静中を離し動中に向ふ時は蜆蝦の水を失へるに等しく獮猴の林樹を離れたるに似て半点の気力無して左ながら水中の蓮の火気に逢て忽ち凋枯するが如けん若し又平生六塵の上へに於て猛く精彩を著け純一無雑打成一片にして毫釐も錯らず彼何百両の黄金を乱世の時贈り届けし人の如く猛く甲斐〱しき気象を押立て片時も間断なく励に進みたらんには忽ち自心の源底を掀翻し生死の命根を蹈断して虚空消殞し鉄山摧る底の大歓喜あらん彼火裏よりさき出たる蓮華の火気に逢てうたゝ色香を增が如けん何が故ぞ火気即ち蓮華蓮華即ち火気なる故に
書き下し
然るに山林野外に在て一食卯齋し六時行道する人さへ道業純一になる事能はず況や夫婦昆弟の間に交り塵務紛然たる巷をや若それ見性の眼なくんば毫釐も相應する事能はじ是故に達磨大師云く若欲覓佛須是見性と若し又た忽ち諸法實相唯有一乘の知見を開かば六塵即ち禪定五欲即ち一乘なるが故に語默動靜常に禪定中なるべし若果して然らば彼山林に在て禪を行ずる底と得力零壤の間を隔てん火裏の蓮とは世間希有の行者なりと稱歎し玉ふにし非ず永嘉は天台の三諦即一の堂奧に達し止觀の修行は精しく鍛鍊し玉ひたれば傳中にも四威儀に常に禪觀に冥ずと稱歎したる程なれば片言隻字といへども中々容易の事にし非ず四威儀に常に禪觀に冥ずとは四儀即ち禪觀禪觀即ち四儀なるに冥合したる境界を云へり彼菩薩は道場を起ずして諸の威儀を現ずと說たまひしと同一模範なりそれ蓮は水中にさける華なる故に火邊に近付時は立處に枯れ凋む事なり然れば火氣は蓮には上へもなき敵藥ならずや然るに火裏よりさき出たらん蓮は烈火に向ふ程いよ〱色香を增して麗はしかるべし彼五欲を避嫌つて最初より修行したらん人は縱ひ我法の二空に通じ見道如何許り明らかなりとも靜中を離し動中に向ふ時は蜆蝦の水を失へるに等しく獮猴の林樹を離れたるに似て半點の氣力無して左ながら水中の蓮の火氣に逢て忽ち凋枯するが如けん若し又平生六塵の上へに於て猛く精彩を著け純一無雜打成一片にして毫釐も錯らず彼何百兩の黃金を亂世の時贈り屆けし人の如く猛く甲斐〱しき氣象を押立て片時も間斷なく勵に進みたらんには忽ち自心の源底を掀翻し生死の命根を蹈斷して虛空消殞し鐵山摧る底の大歡喜あらん彼火裏よりさき出たる蓮華の火氣に逢てうたゝ色香を增が如けん何が故ぞ火氣即ち蓮華蓮華即ち火氣なる故に
現代語訳
ところが、山林や野外にいて一日一食、昼にのみ食事し、六時に行道する人でさえ、道業を純一にすることができない。ましてや夫婦や兄弟のあいだに交わり、俗務が入り乱れる巷ではなおさらである。もし見性の眼がなければ、わずかも相応することはできない。このゆえに達磨大師は、「もし仏を求めようとするなら、見性しなければならない」と言った。もし忽ち、諸法の実相はただ一乗であるという知見が開ければ、六塵がそのまま禅定、五欲がそのまま一乗であるから、語り黙り動き静まる間も、常に禅定の中にあることになる。もしそうであれば、あの山林にあって禅を行ずる者とは、得力において天地ほどの隔たりがあろう。火中の蓮とは、世間にまれな行者であると称賛されたというだけの、軽いことではない。永嘉は天台の三諦即一の奥義に達し、止観の修行を細かく鍛錬されたので、『伝』の中にも、四威儀に常に禅観に冥合すると称えられたほどであるから、片言隻句といえどもなかなか容易なことではない。四威儀に常に禅観に冥ずるとは、行住坐臥がそのまま禅観、禅観がそのまま行住坐臥であることに冥合した境界をいう。かの菩薩は道場を起たずして諸の威儀を現ずと説かれたのと同じ手本である。そもそも蓮は水中に咲く花であるから、火のそばに近づけばたちまち枯れしぼむ。そうであれば、火気は蓮にとってこの上ない敵薬ではないか。ところが火の中から咲き出た蓮は、烈火に向かうほどいよいよ色香を増して美しいであろう。あの五欲を避け嫌って最初から修行した人は、たとえ我法の二空に通じ、見道がいかに明らかであっても、静中を離れて動中に向かう時は、蜆や蝦が水を失ったのに等しく、猿が林の木を離れたのに似て、半点の気力もなく、あたかも水中の蓮が火気に遭ってたちまち枯れしぼむようであろう。もしまた、平生六塵の上で猛々しく精彩を着け、純一無雑に打成一片となって、わずかも誤らず、あの何百両の黄金を乱世に送り届けた人のように、猛々しく甲斐甲斐しい気象を押し立て、片時も絶えず励み進んだなら、たちまち自心の源底をひっくり返し、生死の命根を踏み切って、虚空が消え去り鉄山が砕けるほどの大歓喜があろう。あの火の中から咲き出た蓮華が火気に遭っていよいよ色香を増すようなものである。なぜか。火気がそのまま蓮華、蓮華がそのまま火気だからである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』黄金を届ける男の譬え譬ば茲に何百兩の黃金あらんを人をして守護せしめんに室を閉扉を鎖して其傍らに坐し守て人にも取られず奪れずて中々氣力有んずる者の手柄とも働きとも申さるべき事にし非ず是を二乘聲聞の自了偏枯の修行に比す又一人有り群盜蜂の如くに起り凶黨蟻の如くに馳廻らんず中をかの金を持して何某の處まで贈り屆けよと命ぜられたらんに彼男膽氣あつて大劍を挾み脛高く褰げかの金を取て棒頭に突掛け打傾て一交もせで彼所へ贈り屆けて少しも恐るゝ氣色なくんば天晴甲斐〱しき働らき大丈夫の氣象とも稱嘆すべき事なりこれを圓頓菩薩の上求菩提下化衆生の眞修に比す何百兩の黃金とは正念工夫堅固不退の大志を云へり群盜蜂の如く凶黨蟻の如しとは五蓋十纏五欲八邪の妄念を云へり彼男とは眞正參禪圓頓究竟の上士を云へり何某の處とは常樂我淨の四德具足大寂彼岸の寶所を云へり所以に言ふ眞正參玄の衲子聲色堆裏に向つて坐臥すべしと往々に古の二乘聲聞なりとて輕しむれども見道の力も智德の光りも今の世の人々の及ぶべき事にし侍らず只修行の趣向あしく空閑の處をのみ好みて都で菩薩の威儀を知らず佛國土の因緣なき故に如來は疥癩野干の身に比し淨名は焦芽敗種の部類なりと呵責し玉ひき三祖大師の宣はく欲趣一乘勿惡六塵と是又六塵を數奇好めとには非ず水鳥の水に入ども少しも翼の濕ざる如く平生六塵の上に於て取らず捨てずして間斷なく正念工夫相續せよとの心にて侍り若又一向に六塵を避八風を恐れば覺へず二乘の臼窠に墮して永く佛道を成せじとなり永嘉大師は在欲行禪知見力火裏生蓮終不壞と宣ひき是亦五欲に耽着せよとの心には侍ず五欲六塵の上へに在ても蓮の泥土に汚されざるが如く純一に受用せよとの心にて侍り
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』大敵に囲まれた時の工夫如何がして眞正の得悟は得る事ぞとならば塵務繁絮世事紛然七顚八倒の上へに於て譬へば勇士の大敵に取り圍まれたらん時に匹馬單鎗大勇猛の精神を震つて一方を突き破つてかけ拔んず時の心持にて正念工夫絶ずりもなく精彩を着け手脚の下すべき樣もなく四面空洞として心身ともに消失せたる心地は時々にこれ有者に侍り此時恐怖を生ぜず勵み進み侍れば一旦の得力は間もなく豁然たる者に侍り總じて參學は妄念情量と戰ひ昏沈睡魔と戰ひ動靜違順と戰ひ是非憎愛と戰ひ一切の塵境と相戰ひ正念工夫を推立もて行張合にて不慮の省覺はこれ有事に侍り彼勇施菩薩の如きは大重禁を犯じて懺悔すべきに地なし徒に憂悲惱亂す忽ち自ら大誓を發して憂惱と戰つて默坐す忽然として無生を悟る雲門大師は老睦州に左脚を逼折せられて大悟し蒙山の異禪師は痢疾を患る事晝夜百次身體苦しみ疲れて前面只死あるのみ此に於て大誓願を起し苦痛と戰つて死坐す少焉腸大に鳴動する事數回痢疾は拭ふが如く平愈して大に得所あり大圓寶鑑國師の如きは華園に入て聖澤の庸山老師に謁して所見を演山漫罵して打て追出す師憤然として煩暑の日竹林の中に入て寸絲かけず裸形にして枯坐す夜に入て蚊子百萬競ひ來つて身上に集り圍んで師の肌を咬む此に於て痌痒と戰つて齒を切り拳を握つて癡坐す正氣を打失せんとする者殆んど數次圖らず豁然として契悟す昔し調御世尊は雪山に在て苦修六年皮骨連立蘆芽膝を穿つて臂に至り慧可大師は臂を斷つて自の本源に徹し玄沙は泣々象骨を下つて蹶蹈して左脚を破つて徹骨徹髓し臨濟は痛棒を喫して破家散宅すこれ古今の榜樣なり三世古今の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖なし今時の如く徒に空しく胸臆の凡解を恃んで自己脚跟下の大事を了簡分別して以て足れりとせば一生妄想の魔網を破る事能はじ小智は菩提の妨とは此等の輩に侍り
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』不断坐禅と枯坐黙照の弊吾正受老人常に云く不斷坐禪を學ばん人は殺害刀杖の巷號哭悲泣の室相撲掉戲の場管絃歌舞の席に入りても安排を加へず計較を添へず束ねて一則の話頭と作て一氣に進んで退かず譬へば阿修羅大力鬼に肘臂を捉られて三千大千世界を遶る事千囘百匝すと云へども正念工夫片時モ打失せず相續不斷なる是を名て眞正參禪の衲子とす十二時中只而皮を冷却し眼睛を瞠却して毫釐も人情を交へざれど寔に貴ぶべし兵法にも亦云はずや且戰且耕是萬全之良策也と參學もまた爾り工夫は且戰ふの眞修內觀は且耕の至要鳥の雙翼の如く車の兩輪の如し內觀の秘訣は予向に江湖參玄の衲子の爲に夜船閑話に書し了れり予常に此等の趣きを以て衲子の禪病を救ふ事幾人と云數を知らず中に就て重症必死に向とする者八九を治す學者必ず內觀と參學と共に合せ並べ貯はへて以て生平の本志を成ぜよ學道の人縱ひ參じて五派七流の大事を究得るとも若夫れ短壽ならば何の用を成すに堪んや縱ひ又內觀の力に依て彭祖が八百の歲時を閱すと云ふとも若夫れ見性の眼無んば唯是一箇老大の守屍鬼何の好事かあらん若又枯坐默照を以て足れりとせは枉て一生を錯り大ひに佛道に違せん只佛道に違するのみに非ず大に世諦もまた癈ぜん何が故ぞ若夫諸侯大夫は朝覲を怠り國務を廢して枯坐默照し武夫は射御を踈にし武術を忘れて枯坐默照し商賈は戶店を鎖し算盤を碎て枯坐默照し農夫は犂鋤を擲ち耕耘を止て枯坐默照し工匠は繩墨を捨て斧斤を拋て枯坐默照せば國衰へ民疲れ賊盜頻りに起つて國それ危からんか然らば則ち衆民瞋り恨みて必ず云はん禪は窮て不祥の大兆なりと殊に知らず古へ禪林の盛なりし時南嶽馬祖百丈黃檗臨濟歸宗麻谷興化盤山九峯地藏等の諸聖挽石搬土水薪柴蔬作務普請の鼓を鳴して專ら動中の得力を求む此故に百丈大師曰く一日不作一日不食是を動中の工夫不斷坐禪と云此風近代地を拂つて盡蓋し斯いへばとて坐禪を嫌ひ靜慮を謗るにし非ず大凡一切の賢聖古今の智者禪定に依らずして佛道を成就する底半箇も亦無し夫戒定慧の三要は佛道萬古の大綱なり誰か敢て輕忽せんや然るに向に謂ゆる禪門の諸聖の如きは超宗越格眞正無上の大禪定擬議するときは則ち電轉じ星飛ぶ羝羊の眼狐狸の智如何ぞ敢て窺知る事を得ん縱ひ又默照枯坐して立地に成佛し立地に大光明を放つ底の好事ありとも諸侯大夫士庶民家萬般の公務千般の家事ある何の暇あつてか片時も打坐する事を得んや此に於て病と稱して公務を遁れ家業を廢して三五七日一室を閉戶牖を鎖して幾枚の團蒲を重ね一枝の香を挾んで坐すと云へども平生の塵務に疲れて一寸坐すれば一次睡り三合の坐禪には千萬解の妄想を集む既にして眼を瞠り牙を咬み拳を握り梁骨を堅起して坐すれば萬般の邪境頭を競つて生ず越て額を攢め眉を皺めて覺へず悲泣して曰官途道業を妨げ仕路禪定を障ふしかじ官を辭し印を解て水邊林下寂寞無人の處に在て恣に禪觀を修し永劫の苦輪を遁んと大に錯り畢り
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』無事禅の戒めと遠くない道此上猶又怠り給はずは禪門にいはゆる左手を握て中指を咬等の心地も次第に明かなるべし今時往々に道參禪無益なり話頭了じて什麼かせん即心即佛の直指なれば念の起るをも愁ず念の止たるをも喜ばず山賤の白木の合子只生れ付たる自性の儘なるがよきぞ漆つけねば剝色こそ無れとて日々徒に盲龜の空谷に入が如し去て以て足りとす此は是天竺の自然外道の所見なり恁麼にして佛心向上の宗旨なりと稱せば七村裏の土地も亦掌を撫して大笑すべきぞかし何が故ぞこれ總に長沙の謂ゆる識神を認得する底の凝人ならずや楞嚴に賊を認て子となす終に元淨明の體を知事能はずと呵せられしは此等の部類なり殊にしらず如來は四果の聖者の諸漏已盡し我法の眞理に達し神通具足し名稱普く聞へ給ふをさゑ禪を知りとは許可し給はず故に經曰我弟子大阿羅漢不能解此義唯有大菩薩衆應解此義とも說給へるものを見性の功さへなくて妄に自ら尊と稱す是何の心ぞや人は只兎もあれ萬緣を抛擲して唱るに越たる事はなき事なり去ながら題目ばかりの利益なりと偏執し給ふべからず眞言に限らず淨土に限らず何れも優劣あるべからず淨家の人々は專唱稱名の功力に依て是非〱一回唯心の淨土己身の彌陀の妙相を見屆けでや置べきと決烈の大志を憤起し頭然を救ふが如く間もなく唱へ進みたらんに佛も去此不遠と說給ひたる者をなどや七重の寶樹八功德池の有樣を見屆けずやはあるべき眞言の人々は陀羅尼微妙の威力に依て是非とも阿字不生の大日輪を拜し奉るべしと禪門に於て一則の話頭を擧揚するが如く精進勇猛の憤志を震つて繰たらんに高野大師も不轉肉身と唱へ給ひたる者をなどかは彼金剛不壞の正體を磨出さずや有べき何れも死後を待て利益に預んと打延し給ふは不覺油斷の至り覺束なきものぞかし遠き事とな歎給ひぞ八重の潮路を隔てたる唐土天竺の事を見給へ聞給へと云にこそ遠き事とは歎くべけれ自心を以て自心を見る吾瞳を以て吾瞳を見るより近き事には侍らずや深き事とな恐れ給ひそ九淵の潭の底千尋の海の中なる物を見給へ聞給へと云にこそ深き事とは恐るべけれ吾心を以て吾心を見る吾鼻を以て吾鼻を嗅より近き事には侍らずや世は末世なれども法は更々末世ならず末世なりとて打捨顧み給はずば寳の山に入ながら自ら飢凍を苦しむが如し末世には去事は及ばぬ事とな恐れ給ひぞ遠くは惠心院の僧都近くは赤澤の即往山城の圓悉何れも稱名の力に依て右の素懷を遂給ひたるぞかし法然上人も此望は深くおわしけれども先達なき故に翼短ふして長空に翔らざる心地なりと宣ひき
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』悟った気の安閑は張六と同じ參學も亦た斯くの如し。初め儞の得る所は卽ち是れ人人本具の性、唯有一乘の法華の眞面目なり。我が得る所も亦た人々本具の性、唯有一乘の法華の眞面目なり。此れ見性は是れ性を見ると言ふ。初め見道從り終に種智成就に到るまで、毫釐も變遷無きこと、一鋌の大冶の精金の如し。故に言ふ、初發心の時、便ち正覺を成ず、と。敎家は此れを十住の初住と言ふ。轉た最後の重關有り。誰か知らん、祖庭、猶ほ天涯を隔てて在ることを。往々にして此の一片の所見を擔ひ、乃ち曰く、我、今、旣に朕兆未發以前、佛祖未興の處に向かひて立つ。者裡には全く生死無く、涅槃無く、煩惱無く、菩提無し。一代藏經は不淨を拭ふ故紙、菩薩羅漢は厠穢の如し。參禪學道は閑妄想、古則公案は眼中の翳なり。者裡には無く、今時には無く、那邊には無し。佛を求めず、祖を求めず、饑ゑては飯し、困しては眠る、何の欠少する所か有らん、と。者般の見解は、佛祖も亦た醫するを得ず。只だ日日に安閑の處を求め、今日は只だ恁麼に死猶狙地に去り、明日も亦た恁麼に死猶狙地に去る。縱ひ恁麼にして無數劫を歷るとも、依然として只だ是れ一箇の死猶狙墀なり。什麼の用をか作さん。如來は此れを疥癩の野干の身莊嚴に比して呵し、蚯蚓の智と爲す。淨名は焦芽敗種の部類と曰ふ。長沙の此れ百尺竿頭不動の人と言ひ、臨濟の湛々たる黑暗の深坑と言ふは、是れ見地を脫せざるを言ふ。所謂る機、位を離れず、毒海に墮在する者なり。只だ一片の所見を執して揩磨し淨盡して、一生を錯了するは、彼の張六が一鋌の金を懷きて困倦逼迫し、死に去ること十分なるが如し。慈明・黃龍・眞淨・晦堂・息耕・大惠の諸老、力を盡くして攘斥すれども、救ひ得ず。
-
遠羅天釜・『遠羅天釜』白隠の自述と二兎を追う戒め大凡世尊一代五千餘卷の金文有つて頓漸秘密不定の妙義を說き演べ玉ひたれども畢竟此の見性の大事を出ず故へに經に曰く唯此一事實餘二卽非眞と去る程に三世古今の間に見性せざるの佛祖なく見性せざるの賢聖は必定決定無き事なり山野七八歲より心を佛理に傾け十五歲の時出家十九歲にして行脚廿四歲にして初めて此の見性の大事に搔著す其後叢林を經普ねく諸善知識の門閫に跨がり博く諸經論を窺がひ略三敎の經典を探り及び諸子百家をさへに若し一法の自性の法門に超過せる有らば莊老列の道といへども必らず信受し推し弘めんと誓ひ侍りき今年六十五歲に到つて終ひに見性の大事に過たる法理を見ず左も侍らずば何しに妄りに紙墨を費やして覺へも無き事を書付け高覽に入れ侍るべきや只返す返すも見性の助けに便りよく侍へらば絶へずりも無く唱へ進みて一心不亂の田地に到り玉はば必定大歡喜の眉を開き玉ふべし若しそれ無の字を打捨て佛名を唱る事は專唱稱名の力らに依て見性分明に直に佛祖の骨髓に徹底する事を得ば是可なり縱ひ見性明白なる事を得ずとも稱名の功力に依て死後には必らず極樂に往生せん是一擧兩得萬全の良策なりとの底意ならば早速稱名の修行を放下し純一に無の字を擧揚し玉ふべし何が故ぞ斯れは是二百年來禪苑を荒廢し眞風を蠹害するの惡風俗杜撰の禪徒鄙俗下賤の邪見解なり夫れ禪宗は抓危が上へにも轉孤危ならん事を要し祖庭は嶮峻が上にも轉嶮峻なるを貴しとす常に要津を把定して凡聖を通ぜす一言を出す則ば三賢魂蕩し四果眼眩す一句を吐く則ば閑神恐れ走り野鬼悲しみ哭す木人の腸たを割き石女の髓を敲く棟梁の質あつて神俊の才を具する底の英伶の學者を見る則んば難透難解難信難入底の話頭を放つて正法眼藏を瞎却し涅槃妙心を攙奪す學者も亦蠱毒の鄕を過るが如く水も亦他の一滴をうけず堅に咬み橫に參じて情量の窟宅を破り智解の窠臼を拔き理盡き詞ば窮まり心死し意消して忽然として凡に非ず聖にあらず佛にあらず魔に非ざる底の奇怪の鈍瞎漢を放出して以て佛祖の深恩を報答す斯の如きの手段を法窟の爪牙と名け奪命の神符と云ふ大ひに上々根機の人に利あり中下の機は閣ひて顧みず淨家は却つて是に反す是れ又敬しつべきの一門なり