おもひで草 / 和戰當否・和戦の議論は時を見て判断する
草深き夏野の原に男鹿逐ふ獵師の荒男の、暴く武き事もて世の災を攘ふべき時に暴なるは、暴なるに似たれど實は暴なるにあらず、唯恥を知りて武く勇めるなり、露垂ふ萩の若葉の和やかなる心しらひもて、世を策り言まじき時に和やかなるは和やかなるに似たれど眞の和やかなるにあらず、心鈍く怯劣くて戰を怖るゝ也、此頃大江戸の水戶に參來れる醜夷の痛う無禮にて、漫に强言し漫に狂事すなるを、惡み腹立て速けく罸棄てんといふ人有り、一向に睦親みて、姑にても事無らんこそよけれとて言策るもの有り、罸んといふものを暴論家と名付け、親む方は自正論家といひて己が欲する方をのみよしとおもふめり、一日友どち打集ひて種々物語する序に、或仁その當否を判論いへといふに答けらく、己人數ならぬ身にて人牧の品定せんはいと畏ければ、たゞその議論の上の可否は定がたし、されど學者は時を知るを要とすといへり、故暴論も時に遇はど正論なるべく、
新字:草深き夏野の原に男鹿逐ふ猟師の荒男の、暴く武き事もて世の災を攘ふべき時に暴なるは、暴なるに似たれど実は暴なるにあらず、唯恥を知りて武く勇めるなり、露垂ふ萩の若葉の和やかなる心しらひもて、世を策り言まじき時に和やかなるは和やかなるに似たれど真の和やかなるにあらず、心鈍く怯劣くて戦を怖るゝ也、此頃大江戸の水戸に参来れる醜夷の痛う無礼にて、漫に強言し漫に狂事すなるを、悪み腹立て速けく罰棄てんといふ人有り、一向に睦親みて、姑にても事無らんこそよけれとて言策るもの有り、罰んといふものを暴論家と名付け、親む方は自正論家といひて己が欲する方をのみよしとおもふめり、一日友どち打集ひて種々物語する序に、或仁その当否を判論いへといふに答けらく、己人数ならぬ身にて人牧の品定せんはいと畏ければ、たゞその議論の上の可否は定がたし、されど学者は時を知るを要とすといへり、故暴論も時に遇はど正論なるべく、
書き下し
草深き夏野の原に男鹿逐ふ獵師の荒男の、暴く武き事もて世の災を攘ふべき時に暴なるは、暴なるに似たれど實は暴なるにあらず、唯恥を知りて武く勇めるなり、露垂ふ萩の若葉の和やかなる心しらひもて、世を策り言まじき時に和やかなるは和やかなるに似たれど眞の和やかなるにあらず、心鈍く怯劣くて戰を怖るゝ也、此頃大江戸の水戶に參來れる醜夷の痛う無禮にて、漫に强言し漫に狂事すなるを、惡み腹立て速けく罸棄てんといふ人有り、一向に睦親みて、姑にても事無らんこそよけれとて言策るもの有り、罸んといふものを暴論家と名付け、親む方は自正論家といひて己が欲する方をのみよしとおもふめり、一日友どち打集ひて種々物語する序に、或仁その當否を判論いへといふに答けらく、己人數ならぬ身にて人牧の品定せんはいと畏ければ、たゞその議論の上の可否は定がたし、されど學者は時を知るを要とすといへり、故暴論も時に遇はど正論なるべく、
現代語訳
草深い夏の野原で牡鹿を追う猟師の荒々しい男が、荒く猛々しいことで世の災いを払うべきときに乱暴なのは、乱暴に似て実は乱暴ではなく、ただ恥を知って猛く勇んでいるのです。露をおびた萩の若葉のような穏やかな心配りで世を治め、言い争わないほうがよいときに穏やかなのは、穏やかに似て本当の穏やかさではなく、心が鈍く臆病で戦いを恐れているのです。このごろ江戸や水戸に来ている醜い夷(外国人)が、ひどく無礼で、むやみに強い言葉を吐き、むやみに狂ったふるまいをすると聞いて、憎み腹を立てて、すみやかに討ち払うべきだという人がいます。一方、ひたすら親しみ睦んで、しばらくでも事が無いのがよいと言って策を述べる者もいます。討とうという者を暴論家と名づけ、親しむ側は自ら正論家と言って、自分の望む側だけをよいと思っているようです。ある日、友人たちが集まって様々な話をするついでに、ある人がその当否を判断して論じよと言うので、私は答えました。自分は人数にも入らない身で、国の指導者を品定めするのは畏れ多いので、ただその議論そのものの可否は決められません。ただ、学者は時を知ることが肝要だと言います。それゆえ暴論も時に遇えば正論となり、
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『甲陽軍鑑』品第十四さありて此度長篠にて勝頼公の人数甲州衆うへの原に加藤丹後を残し置き、其余は一円に立て是八千なり、上野衆四千信濃より六千合せて一万八千の内、鳶が巣に千又長篠城奥平押へに千おきて、残る一万六千をもつて七万あまりの人数の節所を三ツまで搆へ、柵の木を三重にふりて待ちかまへてゐる所へ、面もふらずかゝるは、敵四人こなた一人のつもりなれ共、節所と柵の木とを考れば是又敵に十万の加勢なり、縦へば十七万の人数の籠りたる城を一万六千にて責めたるごとくなり、信玄公つねの智略にも千籠りたる城をば、二四の人数にてせめんと定め給ふ、五千にてはことあやうしと有り、
-
『驢鞍橋』卷上卯の夏夜話に曰く、我分別いつとなく失せ、慮知抔と云ふことなし。然る間云ひ損ひも有らんず事ぢやが、出次第に働きて、此年迄来れとも間に合はぬ事無し。総して若き時より無分別なる性也。然れども元より事の談合肝要の時に至ては、何たる分別者よりも我一言に究むる事多し。我もいな事に思ふ也。但しつゝきれて云ふ心か、夫れは元より中中强い位有り、事の談合に及んでは、聞くと早や胸すはつてつゝきれて云はるゝと也。
-
『囲炉夜話』第二百三則・必ず諸を心に問ふ言は盡くは信ず可からず、必ず諸を理に揆る。事は未だ遽かに行ふ可からず、必ず諸を心に問ふ。
-
史記 南越列伝使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
-
『大和俗訓』巻之八・応接一人のするわざ、其善悪十分に知れて、明白なること有り。又其事の有様、其人の心の中、善きも悪しきも、明かに知らざること多し。我が心に悪ししと思ふことも、その実をよく尋ぬれば、道理あることあり。善しと思ふことにも、善からざることあり。かやうのこと唐もやまとも、古今多し。天下皆非なるの理なしと、古人もいへり。何事も、人のしわざに故あらんと思ひ、妄に人を悪みそしるべからず。又妄に誉むべからず。
-
孫子・地形篇卒を視ること嬰児の如し、故に之と深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死すべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る