おもひで草 / 伴林光平傳・天誅組に加わり獄に散る最期
文久三年八月十二日大和行幸親征の盛擧を天下に布令す、光平踊躍奮起し、速に河和攝泉の壯士を募り以て鳳輦を迎へんと、乃ち出でゝ大阪に赴く、居ると數日、松本謙三郎吉村寅太郎、侍從中山忠光を奉じて義兵を河內の間に募ると聞き、俄に大阪を發し、大和五條村に至る、光平齡已に五十に及び十七里の長途一日に達す、衆士其勇壯に服す、中山忠光命じて光平を軍中の書記官とす、是より事に軍陣に從ひ、畫策する所多く、勳功群を拔けり、然るに同志藤本鐵石以下勇士戰死す、光平の吊歌に曰はく「武士の屍をさらす荒野邊に咲きこそにほへ大和なでしこ」、既にして糧仗繼がず衆寡敵せず 光平事の成らざるを慮り、書を同志深瀨繁理に託し、衷情を中山忠光に報ぜしめ、乃ち逃れて伊勢路より京師に潛行し、間を得て長門に赴き、再擧を謀らんとす、不幸にして脚疾を發し、京師に至るを得ず、終に奈良奉行の屬吏に捕へられ、京師の獄に下る、光平和歌を詠じて冤懷を消す、概ね人口に膾炙す、今二首を節錄す、其一に曰はく「拂はずば千代の操も埋もれん雪ふりかゝる園の吳竹」、其二に曰はく「畝火山そのいてましを玉だすきかけて待しは夢かあらぬか」、而して同獄の志士に對して譜記により萬葉集を講誦し、衆士をして其鬱幽を散ぜしむ、其說極めて精妙、聞く者感嘆せざるはなし、又諸士と共に往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義擧の概意を記し、名づけて「南山踏雲錄」一といふ、在獄數月、元治元年(西紀一八六四年)二月十八日同志の士二十四人と共に刑に死す、年五十二、明治廿四年十二月從四位を贈らる、著はす所「南山踏雲錄」の外、「おもひで草」「稻木抄」等あり、本書井上頼圀氏所藏の「おもひで草」一卷を抄錄す、
新字:文久三年八月十二日大和行幸親征の盛挙を天下に布令す、光平踊躍奮起し、速に河和摂泉の壮士を募り以て鳳輦を迎へんと、乃ち出でゝ大阪に赴く、居ると数日、松本謙三郎吉村寅太郎、侍従中山忠光を奉じて義兵を河内の間に募ると聞き、俄に大阪を発し、大和五条村に至る、光平齢已に五十に及び十七里の長途一日に達す、衆士其勇壮に服す、中山忠光命じて光平を軍中の書記官とす、是より事に軍陣に従ひ、画策する所多く、勲功群を抜けり、然るに同志藤本鉄石以下勇士戦死す、光平の吊歌に曰はく「武士の屍をさらす荒野辺に咲きこそにほへ大和なでしこ」、既にして糧仗継がず衆寡敵せず 光平事の成らざるを慮り、書を同志深瀨繁理に託し、衷情を中山忠光に報ぜしめ、乃ち逃れて伊勢路より京師に潜行し、間を得て長門に赴き、再挙を謀らんとす、不幸にして脚疾を発し、京師に至るを得ず、終に奈良奉行の属吏に捕へられ、京師の獄に下る、光平和歌を詠じて冤懐を消す、概ね人口に膾炙す、今二首を節録す、其一に曰はく「払はずば千代の操も埋もれん雪ふりかゝる園の呉竹」、其二に曰はく「畝火山そのいてましを玉だすきかけて待しは夢かあらぬか」、而して同獄の志士に対して譜記により万葉集を講誦し、衆士をして其鬱幽を散ぜしむ、其説極めて精妙、聞く者感嘆せざるはなし、又諸士と共に往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義挙の概意を記し、名づけて「南山踏雲録」一といふ、在獄数月、元治元年(西紀一八六四年)二月十八日同志の士二十四人と共に刑に死す、年五十二、明治廿四年十二月従四位を贈らる、著はす所「南山踏雲録」の外、「おもひで草」「稲木抄」等あり、本書井上頼圀氏所蔵の「おもひで草」一巻を抄録す、
書き下し
文久三年八月十二日大和行幸親征の盛擧を天下に布令す、光平踊躍奮起し、速に河和攝泉の壯士を募り以て鳳輦を迎へんと、乃ち出でゝ大阪に赴く、居ると數日、松本謙三郎吉村寅太郎、侍從中山忠光を奉じて義兵を河內の間に募ると聞き、俄に大阪を發し、大和五條村に至る、光平齡已に五十に及び十七里の長途一日に達す、衆士其勇壯に服す、中山忠光命じて光平を軍中の書記官とす、是より事に軍陣に從ひ、畫策する所多く、勳功群を拔けり、然るに同志藤本鐵石以下勇士戰死す、光平の吊歌に曰はく「武士の屍をさらす荒野邊に咲きこそにほへ大和なでしこ」、既にして糧仗繼がず衆寡敵せず 光平事の成らざるを慮り、書を同志深瀨繁理に託し、衷情を中山忠光に報ぜしめ、乃ち逃れて伊勢路より京師に潛行し、間を得て長門に赴き、再擧を謀らんとす、不幸にして脚疾を發し、京師に至るを得ず、終に奈良奉行の屬吏に捕へられ、京師の獄に下る、光平和歌を詠じて冤懷を消す、概ね人口に膾炙す、今二首を節錄す、其一に曰はく「拂はずば千代の操も埋もれん雪ふりかゝる園の吳竹」、其二に曰はく「畝火山そのいてましを玉だすきかけて待しは夢かあらぬか」、而して同獄の志士に對して譜記により萬葉集を講誦し、衆士をして其鬱幽を散ぜしむ、其說極めて精妙、聞く者感嘆せざるはなし、又諸士と共に往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義擧の概意を記し、名づけて「南山踏雲錄」一といふ、在獄數月、元治元年(西紀一八六四年)二月十八日同志の士二十四人と共に刑に死す、年五十二、明治廿四年十二月從四位を贈らる、著はす所「南山踏雲錄」の外、「おもひで草」「稻木抄」等あり、本書井上頼圀氏所藏の「おもひで草」一卷を抄錄す、
現代語訳
文久三年八月十二日、大和行幸と天皇親征の盛挙を天下に布告しました。光平は小躍りして奮い立ち、すぐに河内・和泉・摂津・大和の壮士を募って天皇の御輿を迎えようとし、そこで出て大阪に赴きました。数日滞在するうちに、松本謙三郎と吉村寅太郎が侍従の中山忠光を奉じて河内のあたりで義兵を募ると聞き、にわかに大阪を発って大和の五条村に至りました。光平は年すでに五十に及んでいましたが、十七里の長い道のりを一日で到達し、衆士はその勇壮さに感服しました。中山忠光は光平に命じて軍中の書記官とし、これより軍陣の事に従い、立てた策は多く、その功労は群を抜いていました。ところが同志の藤本鉄石以下の勇士が戦死しました。光平の弔いの歌に「武士の屍をさらす荒野辺に咲きこそにほへ大和なでしこ」とあります。やがて兵糧と武器が続かず、少数で多勢に敵しえなくなり、光平は事が成らないことを案じて、書を同志の深瀬繁理に託して、心中を中山忠光に報告させ、自らは逃れて伊勢路から京都に潜行し、機会を得て長門に赴いて再起を図ろうとしました。不幸にも脚の病が起こって京都に至ることができず、ついに奈良奉行の下役に捕らえられ、京都の獄に送られました。光平は和歌を詠んで無実の思いを晴らし、それらは大方人々の口にのぼりました。いま二首を抜き書きします。その一に「拂はずば千代の操も埋もれん雪ふりかゝる園の吳竹」、その二に「畝火山そのいてましを玉だすきかけて待しは夢かあらぬか」とあります。同じ獄の志士たちには、譜記によって万葉集を講じ読み聞かせ、人々の鬱屈を晴らさせました。その説は極めて精妙で、聞く者で感嘆しない者はいませんでした。また諸士とともに過ぎたことを思い起こし、自ら藁の筆を作って大和での挙兵の概要を記し、『南山踏雲録』と名づけました。獄にあること数か月、元治元年(西暦1864年)二月十八日、同志の士二十四人とともに刑に死にました。年は五十二でした。明治二十四年十二月に従四位を贈られました。著したものは『南山踏雲録』のほか、『おもひで草』『稲木抄』などがあります。この書は、井上頼圀氏が所蔵する『おもひで草』一巻を抜き出して収めたものです。
解説
この章句が説くこと
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『おもひで草』・伴林光平傳・国学へ転じた伴林光平の前半生光平、姓は伴林氏、通稱は六郎、嵩齋又班鳩隱士と號す、光平は其名、攝津の人なり、文化十年(西紀一八一三年)に生る、幼にして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と稱し、河內顯證寺の支坊に居る、稍〻長じて國學に志し、竊に歸俗の念を抱く、嘗て攝津川邊郡猪名に流寓す、偶〻同宗の僧因幡氣多郡鹿野の光輪寺無蓋、伊丹に來り、其師飯田秀雄の天仁衰波學を講ずるを聽き、始めて詠歌の意を起す、是れ光平が古學に響ひたる原因なり、後無蓋に從つて因幡に赴き、贄を秀雄の門に執り、遂に佛敎を斥けて國學に歸す、秀雄の第二子年平と親交し、嘗て曰はく「予已に古道に入り、君と約して兄弟たらんとす、而して猶緇徒の名稱を用ふるは不祥なり、君請ふ、予が爲に姓名を撰べよ」、年平曰はく「聞く君が桑梓にに伴林神祉ありと、蓋し君も亦其氏子ならん、且君予より長ず、宜しく兄たるべし、則ち彼に取り此に準ひ、伴林六郎とせば如何」と、光平即ち之に從ひ、髮を蓄へ、又光平と稱す、遂に寺門に還らず、大和班鳩村に住し、國學及和歌を以て業とす、近隣の士民從學する者多し、是より先き嘉永癸丑以來外交の難あり、光平慷慨憂國の衷情隱然として其內に含積す、而して講習必ず尊王を說き、言談必ず攘夷を唱ふ、乃ち「難解機の重荷」一卷を著はし、關白鷹司輔熙に獻ず、輔熙其忠誠を憐み、竊に其書を奉じて天覽に備ふ、其卷首に光平自詠の和歌を揭ぐ、曰はく「身に積る賤が歎の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」、其書主として外人に對し警戒を加へ、且暗弱の幕兵を用ひず、天皇親ら天下の義士を募り外患を除くの策を陳ぶ、天皇深く之を嘉納せられたりといふ、幾許もなく廟議一決し、
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