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おもひで草 / 伴林光平傳・国学へ転じた伴林光平の前半生

光平、姓は伴林氏、通稱は六郎、嵩齋又班鳩隱士と號す、光平は其名、攝津の人なり、文化十年(西紀一八一三年)に生る、幼にして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と稱し、河內顯證寺の支坊に居る、稍〻長じて國學に志し、竊に歸俗の念を抱く、嘗て攝津川邊郡猪名に流寓す、偶〻同宗の僧因幡氣多郡鹿野の光輪寺無蓋、伊丹に來り、其師飯田秀雄の天仁衰波學を講ずるを聽き、始めて詠歌の意を起す、是れ光平が古學に響ひたる原因なり、後無蓋に從つて因幡に赴き、贄を秀雄の門に執り、遂に佛敎を斥けて國學に歸す、秀雄の第二子年平と親交し、嘗て曰はく「予已に古道に入り、君と約して兄弟たらんとす、而して猶緇徒の名稱を用ふるは不祥なり、君請ふ、予が爲に姓名を撰べよ」、年平曰はく「聞く君が桑梓にに伴林神祉ありと、蓋し君も亦其氏子ならん、且君予より長ず、宜しく兄たるべし、則ち彼に取り此に準ひ、伴林六郎とせば如何」と、光平即ち之に從ひ、髮を蓄へ、又光平と稱す、遂に寺門に還らず、大和班鳩村に住し、國學及和歌を以て業とす、近隣の士民從學する者多し、是より先き嘉永癸丑以來外交の難あり、光平慷慨憂國の衷情隱然として其內に含積す、而して講習必ず尊王を說き、言談必ず攘夷を唱ふ、乃ち「難解機の重荷」一卷を著はし、關白鷹司輔熙に獻ず、輔熙其忠誠を憐み、竊に其書を奉じて天覽に備ふ、其卷首に光平自詠の和歌を揭ぐ、曰はく「身に積る賤が歎の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」、其書主として外人に對し警戒を加へ、且暗弱の幕兵を用ひず、天皇親ら天下の義士を募り外患を除くの策を陳ぶ、天皇深く之を嘉納せられたりといふ、幾許もなく廟議一決し、

新字:光平、姓は伴林氏、通称は六郎、嵩斎又班鳩隠士と号す、光平は其名、摂津の人なり、文化十年(西紀一八一三年)に生る、幼にして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と称し、河内顕証寺の支坊に居る、稍〻長じて国学に志し、窃に帰俗の念を抱く、嘗て摂津川辺郡猪名に流寓す、偶〻同宗の僧因幡気多郡鹿野の光輪寺無蓋、伊丹に来り、其師飯田秀雄の天仁衰波学を講ずるを聴き、始めて詠歌の意を起す、是れ光平が古学に響ひたる原因なり、後無蓋に従つて因幡に赴き、贄を秀雄の門に執り、遂に仏教を斥けて国学に帰す、秀雄の第二子年平と親交し、嘗て曰はく「予已に古道に入り、君と約して兄弟たらんとす、而して猶緇徒の名称を用ふるは不祥なり、君請ふ、予が為に姓名を撰べよ」、年平曰はく「聞く君が桑梓にに伴林神祉ありと、蓋し君も亦其氏子ならん、且君予より長ず、宜しく兄たるべし、則ち彼に取り此に準ひ、伴林六郎とせば如何」と、光平即ち之に従ひ、髪を蓄へ、又光平と称す、遂に寺門に還らず、大和班鳩村に住し、国学及和歌を以て業とす、近隣の士民従学する者多し、是より先き嘉永癸丑以来外交の難あり、光平慷慨憂国の衷情隠然として其内に含積す、而して講習必ず尊王を説き、言談必ず攘夷を唱ふ、乃ち「難解機の重荷」一巻を著はし、関白鷹司輔熙に献ず、輔熙其忠誠を憐み、窃に其書を奉じて天覧に備ふ、其巻首に光平自詠の和歌を掲ぐ、曰はく「身に積る賤が嘆の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」、其書主として外人に対し警戒を加へ、且暗弱の幕兵を用ひず、天皇親ら天下の義士を募り外患を除くの策を陳ぶ、天皇深く之を嘉納せられたりといふ、幾許もなく廟議一決し、

書き下し

光平、姓は伴林氏、通稱は六郎、嵩齋又班鳩隱士と號す、光平は其名、攝津の人なり、文化十年(西紀一八一三年)に生る、幼にして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と稱し、河內顯證寺の支坊に居る、稍〻長じて國學に志し、竊に歸俗の念を抱く、嘗て攝津川邊郡猪名に流寓す、偶〻同宗の僧因幡氣多郡鹿野の光輪寺無蓋、伊丹に來り、其師飯田秀雄の天仁衰波學を講ずるを聽き、始めて詠歌の意を起す、是れ光平が古學に響ひたる原因なり、後無蓋に從つて因幡に赴き、贄を秀雄の門に執り、遂に佛敎を斥けて國學に歸す、秀雄の第二子年平と親交し、嘗て曰はく「予已に古道に入り、君と約して兄弟たらんとす、而して猶緇徒の名稱を用ふるは不祥なり、君請ふ、予が爲に姓名を撰べよ」、年平曰はく「聞く君が桑梓にに伴林神祉ありと、蓋し君も亦其氏子ならん、且君予より長ず、宜しく兄たるべし、則ち彼に取り此に準ひ、伴林六郎とせば如何」と、光平即ち之に從ひ、髮を蓄へ、又光平と稱す、遂に寺門に還らず、大和班鳩村に住し、國學及和歌を以て業とす、近隣の士民從學する者多し、是より先き嘉永癸丑以來外交の難あり、光平慷慨憂國の衷情隱然として其內に含積す、而して講習必ず尊王を說き、言談必ず攘夷を唱ふ、乃ち「難解機の重荷」一卷を著はし、關白鷹司輔熙に獻ず、輔熙其忠誠を憐み、竊に其書を奉じて天覽に備ふ、其卷首に光平自詠の和歌を揭ぐ、曰はく「身に積る賤が歎の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」、其書主として外人に對し警戒を加へ、且暗弱の幕兵を用ひず、天皇親ら天下の義士を募り外患を除くの策を陳ぶ、天皇深く之を嘉納せられたりといふ、幾許もなく廟議一決し、

現代語訳

光平は姓を伴林氏、通称を六郎、号を嵩斎、また班鳩隠士といい、光平は名で、摂津の人です。文化十年(西暦1813年)に生まれ、幼くして本願寺派の僧となり、法名を大雲坊周永と称して、河内の顕証寺の支坊に住んでいました。やや成長すると国学に志し、ひそかに俗人に戻る思いを抱きました。かつて摂津川辺郡の猪名に身を寄せていたとき、同宗の僧で因幡国気多郡鹿野の光輪寺にいる無蓋が伊丹に来て、その師である飯田秀雄が天仁衰波(てにをは)の学を講じるのを聴き、初めて歌を詠む気持ちが起こりました。これが光平が古学に心を寄せた原因です。のち無蓋に従って因幡に赴き、入門の礼物を秀雄の門に納め、ついに仏教を退けて国学に帰しました。秀雄の次男の年平と親しくなり、あるとき言いました。「私はすでに古道に入りました。あなたと約束して兄弟になりたい。それなのになお僧侶の名を使うのは不吉です。どうか私のために姓名を選んでください」。年平は言いました。「聞くところでは、君の郷里には伴林神社があるとか。きっと君もその氏子でしょう。それに君は私より年長ですから兄になるのがよい。そこで、その社にならって伴林六郎としてはどうですか」。光平はこれに従い、髪を伸ばして、また光平と称し、ついに寺には戻らず、大和の班鳩村に住んで、国学と和歌を生業としました。近隣の士民で学びに従う者が多くいました。これより前、嘉永癸丑(ペリー来航の年)以来、外交上の難題が続き、光平は国を憂える思いを内に深く秘めていました。講義では必ず尊王を説き、談話では必ず攘夷を唱えました。そこで『難解機の重荷』一巻を著し、関白の鷹司輔熙に献上しました。輔熙はその忠誠を哀れみ、ひそかにその書を奉じて天皇のご覧に供しました。巻頭には光平自作の和歌を掲げています。「身に積る賤が歎の荷を重み道のまゝにや行つかれなん」。その書は主に外国人への警戒を述べ、また惰弱な幕府の兵を用いず、天皇ご自身が天下の義士を募って外からの患いを除く策を述べたものです。天皇は深くこれをお認めになったといいます。まもなく朝廷の議が一決し、

解説

僧から国学者へと身の置き所を変え、名も改めて新しい道に入った人物の経歴です。底本は、のちの行動の源を、学びの師との出会いと外交の危機への憂いに置いて語っています。現代の管理職にとっても、自分の役割や所属が変わるときは、名乗りと実際の仕事を一致させる覚悟が要ります。また危機感を持つだけで終わらず、提言を文書にまとめて上位者に届けた点は、現場の問題を企画書にして経営層へ上げる実践に通じます。経歴を知ることは、その人の言葉の重みを量る手がかりになります。

この章句が説くこと

おもひで草伴林光平国学和歌尊王攘夷

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