おもひで草 / 文武左右・文武の左右と、武を軽んじない国風
西土は文を右にして武を左にす、皇國は武を左にして文を右にす、其は皇國は其國躰外國と同じからず、當時神漏岐神漏美命の青海原を畫成給ゐし天之瓊矛の滴より生出たる國なれば、自然いひしらぬ武德を具へたり、かれ世々の神號王稱等にも、常に建武てふ語を多く用給て、長に武道を宗とし在り、此大御國風をよくさとり在るにや、近頃水戶景山老公の弘道館の碑文に、東照神祖の御事を稱る條に、吾東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、左武右文、以開太平之基、と記させ給へるは、和漢の差別潔白に見へわかれて目覺る心地す、さるを近頃の文人等□□貴ぶ方に泥て、ともすれば武道を卑めつゝ己が文事の下草にせんとするは、皇國の古風を知らぬ妄言也、さはいへど文人は尙許さるゝ方も有りなんを、武士の武を餘氣に思ひためるはいかにぞや、此頃家定卿の鷹三百首の歌を見しに、「はし鷹のみよりたゞさかはるらんもろこし人は右にすゑつゝ」といへる歌あり、此は正しく和漢左右の違へる例なり、みよりは身依にて鷹の右の羽をいひ、たゞさきは臂先にて左の羽根をいふたりとぞ、
新字:西土は文を右にして武を左にす、皇国は武を左にして文を右にす、其は皇国は其国体外国と同じからず、当時神漏岐神漏美命の青海原を画成給ゐし天之瓊矛の滴より生出たる国なれば、自然いひしらぬ武徳を具へたり、かれ世々の神号王称等にも、常に建武てふ語を多く用給て、長に武道を宗とし在り、此大御国風をよくさとり在るにや、近頃水戸景山老公の弘道館の碑文に、東照神祖の御事を称る条に、吾東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、左武右文、以開太平之基、と記させ給へるは、和漢の差別潔白に見へわかれて目覚る心地す、さるを近頃の文人等□□貴ぶ方に泥て、ともすれば武道を卑めつゝ己が文事の下草にせんとするは、皇国の古風を知らぬ妄言也、さはいへど文人は尚許さるゝ方も有りなんを、武士の武を余気に思ひためるはいかにぞや、此頃家定卿の鷹三百首の歌を見しに、「はし鷹のみよりたゞさかはるらんもろこし人は右にすゑつゝ」といへる歌あり、此は正しく和漢左右の違へる例なり、みよりは身依にて鷹の右の羽をいひ、たゞさきは臂先にて左の羽根をいふたりとぞ、
書き下し
西土は文を右にして武を左にす、皇國は武を左にして文を右にす、其は皇國は其國躰外國と同じからず、當時神漏岐神漏美命の青海原を畫成給ゐし天之瓊矛の滴より生出たる國なれば、自然いひしらぬ武德を具へたり、かれ世々の神號王稱等にも、常に建武てふ語を多く用給て、長に武道を宗とし在り、此大御國風をよくさとり在るにや、近頃水戶景山老公の弘道館の碑文に、東照神祖の御事を稱る條に、吾東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、左武右文、以開太平之基、と記させ給へるは、和漢の差別潔白に見へわかれて目覺る心地す、さるを近頃の文人等□□貴ぶ方に泥て、ともすれば武道を卑めつゝ己が文事の下草にせんとするは、皇國の古風を知らぬ妄言也、さはいへど文人は尙許さるゝ方も有りなんを、武士の武を餘氣に思ひためるはいかにぞや、此頃家定卿の鷹三百首の歌を見しに、「はし鷹のみよりたゞさかはるらんもろこし人は右にすゑつゝ」といへる歌あり、此は正しく和漢左右の違へる例なり、みよりは身依にて鷹の右の羽をいひ、たゞさきは臂先にて左の羽根をいふたりとぞ、
現代語訳
西方の国は文を右にして武を左にします。皇国は武を左にして文を右にします。それは、皇国は国のあり方が外国と同じではなく、神漏岐・神漏美の命が青海原を掻き固められた天之瓊矛の滴から生まれ出た国なので、自然と言いようもない武の徳を備えているからです。代々の神号や王の称号などにも、常に「建武」という語を多く用いられ、長く武道を宗としてこられました。この国風をよく悟っておられたのでしょうか。近ごろ水戸の景山(徳川斉昭)老公の弘道館の碑文に、東照神祖(徳川家康)のことを称える条に「わが東照宮は、乱を撥め正に反し、王を尊び夷を攘い、武を左にし文を右にして、太平の基を開かれた」と記されているのは、和と漢の違いがはっきりと見分けられて目の覚める心地がします。それなのに近ごろの文人たちが、(底本で判読できない字)(底本で判読できない字)貴ぶ方にこだわり、ともすれば武道を卑しめて自分の文事の下草にしようとするのは、皇国の古風を知らない妄言です。とはいえ、文人はまだ許される面もありましょうが、武士が武を余事のように思っているのはどうしたことでしょうか。この頃、家定公の鷹三百首の歌を見ましたところ、「はし鷹のみよりたださかはるらんもろこし人は右にすえつつ」という歌があります。これはまさに和と漢の左右の違いの例です。みよりは身依で鷹の右の羽をいい、たださきは臂先で左の羽をいうのだとのことです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『おもひで草』・文武不二・文武は二つに分けず一つに備える西土は文武各異也、かれ文官は武事を勤めず、武官は文事に拘はらず、我皇國の文武一致にて文官武を兼ね、武官文を備ふ、 はやく後醍醐天皇の綸旨にも文武不二と書させ給へりとぞ、例の景山公の碑文に文武不岐と書せ給へるは、此綸旨の文に依らせ給へるにや、いとめでたし、
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『弘道館記述義』・文武不岐・文と武は車の両輪で分けてはならない文武岐れず。臣彪謹んで案ずるに、神聖は武を以て基を建て、而して文も亦固より其の中に寓す。猶ほ夫れ西土三代の忠質文に於けるがごとし。夏殷に文無きに非ず、周豈に忠質を廃せんや。而るに夏は忠、殷は質、周は文と曰ふは、皆其の向ふ所を言ふのみ。天祖天孫の統を垂れ、神武崇神諸帝の天業を経綸するは、其の武を尚ぶこと論ずる亡し。然れども其の神を敬ひ民を愛し、政を為し治を図るの迹、豈に之を文と謂はざるべけんや。聖子神孫世々其の緒を承け、内は万民を安んじ外は四夷を撫す。諸王諸臣も亦皆文は能く衆を附け、武は能く敵を威す。国運の盛んなること赫赫として日の升るが如し。中葉以降、将相職を異にし、文武背馳す。公卿軟弱にして手に兵を知らず、源平互ひに起こり、皇室陵夷し、天下の大権遂に武人に移る。夫れ文武の国家に於けるは、猶ほ天地の陰陽有るがごとし。陰陽並び行はれて年穀豊饒なり、文武並び挙げて天下乂安なり。其れ然らざる者は則ち反す。是の故に武人の政を為すや、其の文教を質す者は或いは小康を致すべし。専ら威刑に任ずる者は亡ぶること踵を旋らさず。東照宮に至りては文を撥め武を奮ひ、以て今日の基を開く。則ち上に在る君子は固より宜しく其の業を紹述すべし、而して凡そ天下の士は、黽勉して此に従事せざるべからず。蓋し文武の道には各小大有り。天地を経緯し克く禍乱を定むるは、是れ其の大なる者なり。書を読み冊を挟み、剣を撃ち矛を奮ふは、是れ其の小なる者なり。然れども書冊は道義を講ずる所以にして、剣矛は心胆を錬る所以なり。心胆実して後に以て難に臨み変を制すべく、道義明らかにして後に以て己を脩め人を治むべし。且つ文の弊は弱、武以て弱を矯むべし。武の弊は愚、文以て愚を医すべし。然らば則ち学者其の大を語りて其の小を急にするは、固より不可なり。其の小に務めて其の大を忘るるも、亦不可なり。分かちて二と為し、又其の一を廃するは、尤も不可なり。周代六芸の科、射御其の中に居る。孔子曰く、文事有る者は必ず武備有りと。冉求矛を奮ひて斉の軍に入り、仲由三軍を行ふを以て自ら許す。則ち古の人を教ふる所以は、其をして文武兼ね資り、徳を成し材を達せしむるなり、知るべし。後世に及び、大道湮晦し、学校の設けも亦文具に属す。凡そ黌舎に周旋する者は率ね皆白面の書生。古の所謂勇敢強有力なる者は、頭を其の間に屈するを甘んぜず。李唐に至りて呂尚を尊びて孔子に匹似せしめ、別に武学を建てて文学と相対す。其の文武に心を用ふるは則ち似たり。殊に知らず、文武益ます岐れて復た収合すべからず、而して聖人の意大いに荒るるを。備前国主池田氏、蓋し此に見る有り、其の臣熊沢伯継の議を用ひ、新たに学校を設けて文武を合して一と為す。我が公、毎に深く其の国体に通達するを嗟賞し、斯の館を建つるに及び、亦其の美意に倣ふ。文武岐れずの戒め有る所以なり。学者、其れ服膺せざるべけんや。
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『おもひで草』・神國文武・教えは国の風土に合わせて設けるもの河といへば均しく河なれども、其國其地によりて其形勢異也、船といへば均しく船なれども、其河の形勢に合せて便りよき樣に作出たれば、其製造各異也、此理を能くもおもひさとらで、此所なる船を假りもてきて、ゆ□ゝりなく彼所の河に用むとするは中ゝに河流の形勢を知らぬ强事也、文武も均しく文武なれども、皇國と外國と其國躰風習各異也、すべて敎てふものは其國其所の風土人情を見合て、設出たるものなれば、もぱら和漢の差異あるべき理なるを、そをよくもおもひさとらで、輙く彼の國の文武を取りて我皇國に用んとす、强事なりといはんに誰かはよく爭はむ、かの東照神祖命の御制條に學神國文武之道可奉守護御國家者也と仰掟給ひしは、實にいひしらぬ御識見也、
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『武人訓抄録』・文武を總べる神武一武の義たる、古と今と同じからず、漢と和と均しからず、古の武は文に配し、今の武は文武を總ぶ、其文に配するもの號て右武といふ、これ討賊破敵の道たり、其文武を總ぶるもの號て神武といふ、これ經國撥亂の道たり、漢の武は道の輔とす、和の武は道の主とす、其輔とするものは即文に配する武也、其主とするものは即文武を總る武なり、往古今來吾本邦の俗士等、いまだ此神武ある事をさとらず、妄りに文武をもて左右の道とす、甚あやまれり、學者すみやかに會得すべし、
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『武家須知』・乱を鎮めるは武、世を治めるは文又いはく、我國は神代より、武にて治む、我國は武國、もろこしは文國なりと、是又あやまれり、我國も唐土も、亂をしづめるときは武を主とし、世を治めるは文を主とす、我國のはじまり、王化にしたがはぬ人ありしゆへ、武を專ら用られ、それに付武のとゝのひたるを甚ほめ玉ふ言葉もあれど、武計りにて治められたる事さらに見へず、かゝる所を心得たがへ、足利以來戰國打續き、文を離しめて義を失ひ、武計りをたつとみて國を貪りたる人多かりし、此時の風儀を聞き、古よりかゝる國ぞと心得たるなるべし、又我國の人は、武氣自然と盛んなれば、武ばかりたつとむべしといふ說有り、武氣盛んなる國ならば猶更文學を尊み、文武を揃へたるこそよろしかるべき、さかんなる武氣ばかりをそだつべき理なし、
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『尚武論』・太平に慣れて武を忘れる危うさ天下の命をして、独り一人に制せしむ。諸を祖宗の世に致すも、亦猶ほ姓を更め物を改むるがごときなり、云云。吁、封建の政、郡県と為り、国体変ぜり。古は聖王の世、民は戎政に藉り、柄は常に上に在り。故に四方に事有れば、則ち天子親征す。中世に迨び、文辞を弄ぶに至れば、則ち干戈を観ること敵属のごとく、一に之を武臣に委ね、自ら視ること尊大、武臣を卑しみて奴隷と為す。上下隔遠し、文武日に離離たり。武国の実安くに在らんや。是を以て朝廷自づから衰へて武臣興り、国勢も亦変ず。我が邦は武の在る所、則ち勢の存する所なり。武有る者は盛んに、武無き者は衰ふ。帝大友は文なり、竟に天武の武に克つこと能はず。平家は文なり、終に源氏の武に勝つ能はず。南朝は文なり、卒に足利の武に克つ能はず。夫れ新田・楠は武臣なり。躬ら南朝に属すれば、則ち志を得ること克はざるは、勢の自然のみ。或ひと曰く、尊氏の西奔するや、義貞追ひて之を撃たず、殆ど事機を誤れり。楠、奏言して報いられず、憤激して早く歿す。南朝の振はざる所以なり、と。余謂へらく、義貞・正成、知勇有りと雖も、悪くんぞ天の助くる所に勝たんや。天の助くる所は、智も測る能はず、勇も奪ふ能はざるのみ。天の助くる所は、即ち武に在り。神代、諾冊の二神、瓊矛もて天下を定むるも、歴世の久しきに、天下復た乱る。神武天皇、一旦にして之を戡定す。所謂一治一乱是れなり。爾後も亦朝廷文弱、足利氏の季に臻りて、衰乱極まれり。神君龍興するに迨び、其の用ふる所熊羆の士に非ざる莫く、遂に天下を克服して、天下一に帰し、海内安寧、以て今日に至る。亦盛んならずや。是れ則ち天地神明の祐くる所なり。神武天皇の後、亘ること数千載、皇統繁衍し、継続して絶えず。乃ち我が神君の如きも、亦其の種胤にして、奕葉蔓衍して天下に充つ。武徳の盛んなること、実に前古に度越す。神明の祐くる所、以て知るべし。乃ち知る、武威は皇統と並び立つこと幾百万歳、天地と悠久なること、固より占卜を俟たざるなり。唯だ恐る、大平の久しきに、人逸楽に就き、驕奢に流れ、義を忘れ利を求め、実を去りて虚を務め、誠を喪ひて詐を懐き、懋を離れて便に随ひ、其の極み武徳を失ふに至らんことを。今、世上の俗を察するに、僧徒極めて衆くして武士少なく、商賈常に盛んにして農民減じ、游民自づから多くして工職耗す。国自づから貧乏を取る。

人生を、一行の式にしてみた。
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