翁問答 / 下卷之末之末
全孝の心法その廣大高明なること神明に通じ、六合にわたるといへども、約ところの本實は身をたて道を行ふにあり、身をたて道を行ふ本は明德にあり、明德を明にする本は良知を鏡として獨を愼にあり、良知とは赤子孩提の時より、その親を愛敬する最初一念を根本として善惡の分別是非を眞實に辨しる德性の知を云、この良知は磨而不磷、涅而不緇の靈明なれば、いかなる愚痴不肖の凡夫の心にも明にあるものなり、しかる故に此良知を工夫の鏡とし種として工夫するなり、大學の致知格物の工夫これなり、
新字:全孝の心法その広大高明なること神明に通じ、六合にわたるといへども、約ところの本実は身をたて道を行ふにあり、身をたて道を行ふ本は明徳にあり、明徳を明にする本は良知を鏡として独を慎にあり、良知とは赤子孩提の時より、その親を愛敬する最初一念を根本として善悪の分別是非を真実に弁しる徳性の知を云、この良知は磨而不磷、涅而不緇の霊明なれば、いかなる愚痴不肖の凡夫の心にも明にあるものなり、しかる故に此良知を工夫の鏡とし種として工夫するなり、大学の致知格物の工夫これなり、
書き下し
全孝の心法その広大高明なること神明に通じ、六合にわたるといへども、約ところの本実は身をたて道を行ふにあり、身をたて道を行ふ本は明徳にあり、明徳を明にする本は良知を鏡として独を慎にあり、良知とは赤子孩提の時より、その親を愛敬する最初一念を根本として善悪の分別是非を真実に弁しる徳性の知を云、この良知は磨すれども磷がず、涅すれども緇まずの霊明なれば、いかなる愚痴不肖の凡夫の心にも明にあるものなり、しかる故に此良知を工夫の鏡とし種として工夫するなり、大学の致知格物の工夫これなり、
現代語訳
全孝の心法は、その広大高明なことは神明に通じ、天地四方に行きわたるけれども、要約すればその本質は身を立て道を行うことにある。身を立て道を行う本は明徳にある。明徳を明らかにする本は、良知を鏡として独りを慎むことにある。良知とは、赤子や幼子の時からその親を愛し敬う最初の一念を根本として、善悪の分別や是非を真実にわきまえ知る、徳性の知をいう。この良知は、磨いても薄くならず、黒く染めても黒くならない霊明なものであるから、どのような愚かで不肖な凡夫の心にも明らかにあるものである。それゆえこの良知を工夫の鏡とし種として工夫するのである。大学の致知格物の工夫がこれである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『翁問答』下卷之末之末孟子曰く、仁の実は親に事ふる是なり、義の実は兄に従ふ是なり、智の実は斯の二者を知りて去らざる是なり、礼の実は斯の二者を節文する是なり、楽の実は此の二者を楽しむ、楽しめば則ち生ず、生ずれば則ち悪んぞ已むべけんや、悪んぞ已むべけんやとなれば則ち足の之を蹈み手の之を舞ふを知らず、礼記に曰く、仁人は物に過たず、孝子は物に過たず、是の故に仁人の親に事ふるや、天に事ふるが如く、天に事ふるは親に事ふるが如し、是の故に孝子は身を成す、以上の聖謨賢範をよく熟読して孝徳の親切真実、広大高明、無上無外、至尊無対にして、孝の外には徳もなく道もなき事を明に弁ふべし、たとひ其行ふ所よしといふも、孝徳の天真にそむきぬれば、天威のゆるさゞるところ、君子のたつとばざる所なりしかる故に孝経に、其の親を愛せずして他人を愛する者、之を悖徳と謂ひ、其の親を敬せずして他人を敬する者、之を悖礼と謂ふと戒たまへり、かくのごとくなる孝徳全体の天真を明にする工夫を全孝の心法と云なり、
-
『翁問答』下卷之末之末体充曰、全孝の心法をばいかやうに受用候はんや。師の曰、孝経に曰く、夫れ孝は天の経なり、地の義なり、民の行なり、天地の経にして民是に則る、又曰く、天地の性人を貴しと為す、人の行は孝より大なるは莫く、孝は父を厳ぶより大なるは莫く、父を厳ぶは天に配するより大なるは莫し、又曰く、孝悌の至りは神明に通じ、四海に光りて通ぜざる所無し、詩に曰く、西よりし東よりし南よりし北よりし、思ひて服せざる無しと、曽子曰く、夫れ孝は之を置けば天地に塞がり、之を溥くすれば四海に横たはり、諸を後世に施して朝夕無し、推して諸を東海に放りて準とし、推して諸を西海に放りて準とし、推して諸を南海に放りて準とし、推して諸を北海に放りて準とす、詩に曰く、西よりし東よりし南よりし北よりし、思ひて服せざる無しと、此の謂なり、又曰く、衆の本教を孝と曰ふ、其の行を養と曰ふ、養は能くすべきなり、敬を難しと為す、敬は能くすべきなり、安を難しと為す、安は能くすべきなり、卒を難しと為す、父母既に没して、慎みて其の身を行ひ、父母に悪名を遺さざるは、能く終ると謂ふべし、仁とは此を仁とする者なり、礼とは此を履む者なり、義とは此を宜しくする者なり、信とは此を信にする者なり、強とは此を強くする者なり、楽は此に順ふより生じ、刑は此に反するより作る、
-
伝習録・黄以方録黄以方問う、「『博く文を学ぶ』は事に随いて此の天理を存するを学ぶと為す。然らば則ち『行いて余力有らば、則ち以て文を学ぶ』と謂うは、其の説、相い合わざるに似たり」と。先生曰く、「『詩』『書』・六芸は、皆な是れ天理の発見なり。文字は都て其の中に包まる。之を『詩』『書』・六芸に考うるは、皆な此の天理を存するを学ぶ所以なり。特に事為に発見する者のみ方に文と為すにあらず。『余力あらば文を学ぶ』も亦た只だ『博く文を学ぶ』中の事なり」と。或るひと「学びて思わず」の二句を問う。曰く、「此れも亦た為にする有りて言う。其の実、思うは即ち学なり。学びて疑う所有らば、便ち須らく之を思うべし。『思いて学ばず』とは、蓋し此等の人有り。只だ懸空に去きて思い、一の想個の道理を想い出ださんことを要す。却って身心の上に在りて実に其の力を用い、以て此の天理を存するを学ばず。思と学とを両事と作して做す。故に『罔(くら)し』と『殆(あや)うし』の病有り。其の実、思うは只だ是れ其の学ぶ所を思う。原と両事に非ざるなり」と。先生曰く、「先儒、『格物』を解して天下の物を格すと為す。天下の物、如何ぞ格し得んや。且つ一草一木も亦た皆な理有りと謂う。今、如何ぞ去きて格さんや。縦い草・木を格し得来たるも、如何ぞ反り来たりて自家の意を誠にし得んや。我、『格』を解して『正』の字の義と作し、『物』を『事』の字の義と作す。『大学』の所謂る『身』は、即ち耳・目・口・鼻・四肢、是なり。身を修めんと欲するは便ち是れ、目は礼に非ずんば視る勿かれ、耳は礼に非ずんば聴く勿かれ、口は礼に非ずんば言う勿かれ、四肢は礼に非ずんば動く勿かれ、と要するなり。這個の身を修めんことを要するに、身上に如何ぞ工夫を用い得んや。心なる者は、身の主宰なり。目は視ると雖も、而して視る所以の者は、心なり。耳は聴くと雖も、而して聴く所以の者は、心なり。口と四肢とは言い動くと雖も、而して言い動く所以の者は、心なり。故に身を修めんと欲するは自家の心体を体当し、常に廓然大公にして、些子も正しからざる処有る無からしむるに在り。主宰、一たび正しければ、則ち目に竅を発するも、自ら礼に非ざるの視る無く、耳に竅を発するも、自ら礼に非ざるの聴く無く、口と四肢とに竅を発するも、自ら礼に非ざるの言い動く無し。此れ便ち是れ身を修むるは其の心を正すに在るなり。然れども至善なる者は、心の本体なり。心の本体、那ぞ不善有らんや。如今、心を正さんと要するに、本体の上、何処にか功を用い得んや。必ず心の発動する処に就きて、纔(はじ)めて力を著くべきなり。心の発動は不善無き能わず。故に須らく此の処に就きて力を著くべし。便ち是れ『誠意』に在るなり。一念、善を好むに発せば、便ち実実落落として去きて善を好むが如し。一念、悪を悪むに発せば、便ち実実落落として去きて悪を悪む。意の発する所、既に誠ならざる無くんば、則ち其の本体、如何ぞ正しからざる的有らんや。故に其の心を正さんと欲するは意を誠にするに在り。工夫、誠意に到りて、始めて著落の処有り。然れども誠意の本は、又た知を致すに在るなり。所謂る『人、知らずと雖も、己の独り知る者』、此れ正に是れ吾が心の良知の処なり。然れども善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち做し去らず、不善を知り得て、却って這個の良知に依りて便ち去きて做さずんば、則ち這個の良知は便ち遮蔽し了る。是れ知を致す能わざるなり。吾が心の良知、既に擴充して底に到る能わずんば、則ち善は好むを知ると雖も、著実に好む能わず。悪は悪むを知ると雖も、著実に悪む能わず。如何ぞ意の誠なるを得んや。故に知を致すは、意の誠なるの本なり。然れども亦た是れ懸空の致知にあらず。知を致すは実事の上に在りて格す。意、善を為すに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為し、意、悪を去るに在らば、便ち這件の事の上に就きて去きて為さざるが如し。悪を去るは固より是れ不正を格して以て正に帰す。善を為すは則ち不善、正されたり。亦た是れ不正を格して以て正に帰すなり。此くの如くんば、則ち吾が心の良知、私欲の蔽う無くして、以て其の極を致すを得たり。而して意の発する所、善を好み悪を去ること、誠ならざる有る無し。誠意の工夫の実に手を下す処は格物に在るなり。若し此くの如く物を格さば、人人、便ち做し得たり。人皆な以て堯・舜と為るべしとは、正に此に在るなり」と。
-
伝習録・徐愛録又た曰く、「知は是れ心の本体なり。心は自然に会(よ)く知る。父を見れば、自然に孝を知る。兄を見れば、自然に弟を知る。孺子の井に入るを見れば、自然に惻隠を知る。此れ便ち是れ『良知』なり。外に求むるを仮らず。若し『良知』の発、更に私意の障礙無くんば、即ち所謂る『其の惻隠の心を充たさば、仁は勝げて用うべからず』なり。然れども常人に在りては、私意の障礙無き能わず。所以に須らく『致知』『格物』の功を用うべし。私に勝ち理に復すれば、即ち心の『良知』は更に障礙無く、充塞流行するを得。便ち是れ其の知を致すなり。知致らば、則ち意誠なり」と。
-
伝習録・答聶文蔚 二蓋し良知は只だ是れ一個の天理の自然に明覚し発見する処なり。只だ是れ一箇の真誠惻怛、便ち是れ他の本体なり。故に此の良知の真誠惻怛を致して以て親に事うれば便ち是れ孝なり。此の良知の真誠惻怛を致して以て兄に従えば便ち是れ弟なり。此の良知の真誠惻怛を致して以て君に事うれば便ち是れ忠なり。只だ是れ一個の良知、一個の真誠惻怛なり。若し是れ兄に従うの良知、其の真誠惻怛を致す能わずんば、即ち是れ親に事うるの良知、其の真誠惻怛を致す能わざるなり。君に事うるの良知、其の真誠惻怛を致す能わずんば、即ち是れ兄に従うの真知、其の真誠惻怛を致す能わざるなり。故に事君の良知を致し得れば、便ち是れ従兄の良知を致し却るなり。従兄の良知を致し得れば、便ち是れ事親の良知を致し却るなり。事君の良知を致す能わずして、却って須らく又た事親の良知の上より去きて擴充し将ち来たるべきに非ず。此くの如くんば又た是れ本原を脱却して、支節の上に着きて求むるなり。良知は只だ是れ一個なり。他の発見流行する処に随いて、当下、具足す。更に去来無く、仮借を須いず。然れども其の発見流行する処は、却って自ら軽重厚薄有りて、毫髪も増減を容れざる者なり。所謂る「天然自ら有るの中」なり。軽重厚薄、毫髪も増減を容れずと雖も、而も厚も又た只だ是れ一個なり。只だ是れ一個なりと雖も、而も其の間の軽重厚薄は、又た毫髪も増減を容れず。若し増減を得べく、若し仮借を須いば、即ち已に其の真誠惻怛の本体に非ざるなり。此れ良知の妙用、方体無く、窮尽無く、大を語れば天下も能く載する莫く、小を語れば天下も能く破る莫き所以なる者なり。
-
伝習録・答顧東橋書来書に云う、「学者に語り、乃ち『物に即して理を窮む』の説も亦た是れ物を玩びて志を喪うと謂い、又た其の『繁を厭いて約に就く』『本原を涵養す』の数説を取りて学者に標示し、指して晩年の定論と為すと聞く。此れも亦た恐らくは非ならん」と。朱子の所謂る「格物」と云う者は、「物に即して其の理を窮む」に在り。物に即して理を窮むるは是れ事事物物の上に就きて其の所謂る定理なる者を求むるなり。是れ吾が心を以て理を事事物物の中に求む。心と理とを析(わ)ちて二と為すなり。夫れ理を事事物物に求むる者は、孝の理を其の親に求むるの謂いの如きなり。孝の理を其の親に求むれば、則ち孝の理は其れ果たして吾が心に在らんか。抑(そもそ)も果たして親の身に在らんか。仮に果たして親の身に在らば、則ち親の没するの後、吾が心は遂に孝の理無からんか。孺子の井に入るを見れば、必ず惻隠の理有り。是れ惻隠の理は果たして孺子の身に在らんか。抑も吾が心の良知に在らんか。其れ或いは以て之に井に従うべからざるか。其れ或いは手を以て之を援くべきか。是れ皆な所謂る理なり。是れ果たして孺子の身に在らんか。抑も果たして吾が心の良知より出でんか。是を以て之に例せば、万事万物の理も皆な然らざる莫し。是れ以て心と理とを析ちて二と為すの非なるを知るべし。夫れ心と理とを析ちて二と為すは、此れ告子の義を外にするの説なり。孟子の深く闢(ひら)く所なり。「外を務め内を遺れ、博くして要寡し」とは、吾子既に已に之を知れり。是れ果たして何の謂いにして然るか。之を物を玩びて志を喪うと謂うも、尚お猶お以て不可と為さんか。鄙人の所謂る「致知・格物」の若き者は、吾が心の良知を事事物物に致すなり。吾が心の良知は、即ち所謂る「天理」なり。吾が心の良知の「天理」を事事物物に致さば、則ち事事物物は皆な其の理を得ん。吾が心の良知を致す者は、致知なり。事事物物、皆な其の理を得る者は、格物なり。是れ心と理とを合して一と為す者なり。心と理とを合して一と為さば、則ち凡そ区区の前に云う所と、朱子の晩年の論とは、皆な以て言わずして喩すべし。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る