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翁問答 / 下卷之末

さてまた出家は不婬と戒たり、これはすじもなき妄法と云ものにて候。飢渴の人に飮食を戒むるにことならず、しかる故に末流の比丘婬欲こらへがたきによつて、男女和合のとなりなればにや、大便道をほり出して無陰陽の地不和合の處にて、執著の煩惱なしと例の家のへりことを巧にし、旦那を罔して色欲のかはりとし、おさなき人を女の形に似せて、兒喝食なと云て和尙上人の妻となせりまことに淺ましきとも中々言語道斷なり、元來不婬戒の法、天理にそむきたる法たるによつて、末流かくのごとく畜生にも劣りたる作法となるなり、文殊の始て此道を開闢めされたるなど、佛者の言ならはすことなれ共、文殊は既に菩薩の果を得たる人なれば、かくあさましき欲心はあるまじき分明なり、例の家の造言なるべし、

新字:さてまた出家は不婬と戒たり、これはすじもなき妄法と云ものにて候。飢渇の人に飲食を戒むるにことならず、しかる故に末流の比丘婬欲こらへがたきによつて、男女和合のとなりなればにや、大便道をほり出して無陰陽の地不和合の処にて、執著の煩悩なしと例の家のへりことを巧にし、旦那を罔して色欲のかはりとし、おさなき人を女の形に似せて、児喝食なと云て和尚上人の妻となせりまことに浅ましきとも中々言語道断なり、元来不婬戒の法、天理にそむきたる法たるによつて、末流かくのごとく畜生にも劣りたる作法となるなり、文殊の始て此道を開闢めされたるなど、仏者の言ならはすことなれ共、文殊は既に菩薩の果を得たる人なれば、かくあさましき欲心はあるまじき分明なり、例の家の造言なるべし、

書き下し

さてまた出家は不婬と戒たり、これはすじもなき妄法と云ものにて候。飢渇の人に飲食を戒むるにことならず、しかる故に末流の比丘婬欲こらへがたきによつて、男女和合のとなりなればにや、大便道をほり出して無陰陽の地不和合の処にて、執著の煩悩なしと例の家のへりことを巧にし、旦那を罔して色欲のかはりとし、おさなき人を女の形に似せて、児喝食なと云て和尚上人の妻となせりまことに浅ましきとも中々言語道断なり、元来不婬戒の法、天理にそむきたる法たるによつて、末流かくのごとく畜生にも劣りたる作法となるなり、文殊の始て此道を開闢めされたるなど、仏者の言ならはすことなれ共、文殊は既に菩薩の果を得たる人なれば、かくあさましき欲心はあるまじき分明なり、例の家の造言なるべし、

現代語訳

さてまた出家は不婬と戒めている。これは筋の通らない妄法というものである。飢えや渇きに苦しむ人に飲食を戒めるのと変わらない。それゆえ末流の比丘は婬欲をこらえがたいので、男女の交わりの代わりにでもというのか、男色の道を掘り出して、陰陽のない所、和合しない所であるから執着の煩悩はないと、例の宗門の屁理屈を巧みにし、檀那を欺いて色欲の代わりとし、幼い者を女の姿に似せて稚児・喝食などと言って、和尚・上人の妻としている。まことに浅ましく、まったく言語道断である。もともと不婬戒の法は天理に背いた法であるから、末流はこのように畜生にも劣る作法となるのである。文殊が初めてこの道を開かれたなどと仏者は言い慣わしているが、文殊はすでに菩薩の果を得た人であるから、そのような浅ましい欲心はあるはずがないことは明らかである。例の宗門の作り話であろう。

解説

藤樹は出家者に婬を一切禁じる戒を、天理に背く「妄法」と断じる。飢えた人に食を禁じるようなもので、抑え込まれた欲はかえって歪んだ形で噴き出すという見立てである。当時の寺院に見られた稚児をめぐる男色の風習を、その帰結として厳しく批判している。ただしここでも文殊菩薩その人を貶めず、後世の作り話だとして区別している。人の自然な欲を無理に抑え込む仕組みは、表から見えない所で歪みを生む。人間の性質を前提にして制度を設計することの大切さを、この一節は示している。

この章句が説くこと

妄法天理欲仏教制度不婬戒

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