翁問答 / 下卷之末
その上いましむるところの邪婬天理の眞にかないがたし子細はその妻一人のほかをばおしなべて邪婬とするは、死法と云てかたつまりたる事なり、儒道の法には庶人ばかり妻一人の定なり天子より士まではその位々分々相應によつて后夫人世婦妻妾の員數自然の天則ありて、妻一人の定にあらず、仔細は根本子孫相續の道なれば、婦人に子のなきものある故なり、もとよりその位々の員數の外は邪婬なり、その員數に定たる妻妾にても、交まじき時に交をば邪婬と戒むるなり時に相應したる義理にしたがふを法の眼とするなり、これを活法と云なり、
新字:その上いましむるところの邪婬天理の真にかないがたし子細はその妻一人のほかをばおしなべて邪婬とするは、死法と云てかたつまりたる事なり、儒道の法には庶人ばかり妻一人の定なり天子より士まではその位々分々相応によつて后夫人世婦妻妾の員数自然の天則ありて、妻一人の定にあらず、仔細は根本子孫相続の道なれば、婦人に子のなきものある故なり、もとよりその位々の員数の外は邪婬なり、その員数に定たる妻妾にても、交まじき時に交をば邪婬と戒むるなり時に相応したる義理にしたがふを法の眼とするなり、これを活法と云なり、
書き下し
その上いましむるところの邪婬天理の真にかないがたし子細はその妻一人のほかをばおしなべて邪婬とするは、死法と云てかたつまりたる事なり、儒道の法には庶人ばかり妻一人の定なり天子より士まではその位々分々相応によつて后夫人世婦妻妾の員数自然の天則ありて、妻一人の定にあらず、仔細は根本子孫相続の道なれば、婦人に子のなきものある故なり、もとよりその位々の員数の外は邪婬なり、その員数に定たる妻妾にても、交まじき時に交をば邪婬と戒むるなり時に相応したる義理にしたがふを法の眼とするなり、これを活法と云なり、
現代語訳
そのうえ戒めるところの邪婬は、天理の真にかないがたい。そのわけは、その妻一人のほかをすべて邪婬とするのは死法といって、行き詰まったことだからである。儒道の法では庶人だけが妻一人と定まっている。天子から士までは、その位・分に応じて后・夫人・世婦・妻・妾の員数に自然の天則があって、妻一人の定めではない。そのわけは、根本が子孫相続の道であるから、婦人に子のない者がいるためである。もとより、その位ごとの員数の外は邪婬である。その員数に定められた妻妾であっても、交わるべきでない時に交わるのを邪婬と戒めるのである。時に相応した義理に従うことを法の眼目とするのであり、これを活法という。
解説
この章句が説くこと
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『翁問答』上卷之末体充曰しをきの学問は、いかやうにしたるがよくおはしまし候や、又さだまりたるよき法度も御座候や。師の曰しをきの学問は即ち儒学なり真儒にしたがひて学びたるがよく候、よき法度は活法とて、事をさし定めぬものにて候、一偏にさだまりたるをば死法といひて、用にたゝぬものなり、法度にも心迹の差別あり、周礼などに記したる事は、聖人天時地利人情の至善をはかりてさだめ給まふ法度のあとなり、其あとのうちにそなはりたるところの本意を心と云、その迹によつて立法の本意をよくさとり、当代の法度をさたむるかゞみとし、その事のあとになづまず、聖人の心によくかなふを、至善の活法とす、其心をば弁へずして事の迹ばかりを手本としてまねをするを、膠柱の死法と云ておろかにして用にたゞず、
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『翁問答』下卷之末夫婦の別は本来智に属したるものなり、しかるを礼なりといへるは、儒道無案内なる故か、又は飲酒戒のあて所なき故かなるべし、妄語戒を信なりと云るは可也、しかれども信は天徳の至誠人間真実無妄の神理、五常百行の根本にして、自古皆有死、民無信不立とのたまふほど、広大親切無類なる天性に、不妄語一色をおしあつるは、九牛の一毛を全牛に当るに異ならず、
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『翁問答』下卷之末孝経に曰く、夫れ孝は天の経なり、地の義なり、民の行なり、天地の経にして民是れに則る、とあれば経と権とおなじく道の総名なれば、経と権と弁ありと云は不可なり礼法と権とすこし弁ありといはんは可なり、しかれ共、礼法は本権道の節文なるによつて、時中にかなひて用れば、礼法即ち権也、時中にたがひて用ゆれば、権にそむきて非礼の礼となれば、畢竟礼の外に権なし、権の外に礼なし、礼と権と名義はすこし弁あれども、実は一理なり、よくよく玩味あるべし。
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『翁問答』下卷之末さてまた出家は不婬と戒たり、これはすじもなき妄法と云ものにて候。飢渇の人に飲食を戒むるにことならず、しかる故に末流の比丘婬欲こらへがたきによつて、男女和合のとなりなればにや、大便道をほり出して無陰陽の地不和合の処にて、執著の煩悩なしと例の家のへりことを巧にし、旦那を罔して色欲のかはりとし、おさなき人を女の形に似せて、児喝食なと云て和尚上人の妻となせりまことに浅ましきとも中々言語道断なり、元来不婬戒の法、天理にそむきたる法たるによつて、末流かくのごとく畜生にも劣りたる作法となるなり、文殊の始て此道を開闢めされたるなど、仏者の言ならはすことなれ共、文殊は既に菩薩の果を得たる人なれば、かくあさましき欲心はあるまじき分明なり、例の家の造言なるべし、
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『翁問答』下卷之末之末聞く者之を疑ひて曰く、性は即ち理なり、命は即ち気なり、人の性は天地の理なり、人の命は天地の気なり、誠に能く性を以て天地の理に合し、命を以て天地の気に会すれば、即ち天地の理は自ら性なり、天地の気は自ら命なり、理気終壊すること無ければ、此の性命も亦終壊すること無し、譬へば水を以て水に投ずるがごとし、何に于てか竭くべき、火を以て火に投ず、何に于てか滅すべき、其の体大造にして小劫を超ゆるに由りて、故に天地の成毀を以て成毀せず、大身を獲て小形を忘る、故に躯殼の存亡を以て存亡せず、之を性を尽して命に至ると謂ひ、之を道を体して天に同じくすと謂ひ、之を至徳道を凝らすと謂ふ、此の中に大いに真楽有り、盎然として春融し、凞然として宇泰し、既に利にして且つ貞、活溌々地なり、即ち易の黄中理に通じ、正位体に居り、美其の中に在りて、四肢に暢び事業に発す、美の至りなり、此れ乃ち儒教中の不死の神方、長生の正術にして、空寂を守りて枯禅に坐し、精魂を弄して昇挙を希ふ者と日を同じくして語るべからざるなり、この賢範をよく体察玩味して、儒家の聖神至誠無息の位には、仙仏の修行の分にては梯しても及ばぬ所ある事を明に弁へ、迷をはらしたまふべし、保合大和する心法を他に求むべからず即ち全孝の心法なり。
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『十善法語』巻第二・不偸盜戒不邪婬戒ヲ古ヨリ礼ニ配スル。此モ的当テハナイ。古ニ礼ハ庶人ニ下ラス。刑ハ大夫ニ上サスト云。上下推通スル道テハナキシヤ。此不邪婬戒ハ。国君モ乱サレヌ。公卿大夫モ乱サレヌ。士庶人モ乱サレヌ。君子小人ノ隔ハナイ。上下推通スルノ道ハ此ニ在ルシヤ。又礼ハ学者ナラネハ尽サレヌコトシヤ。孔子モ周ニ適テ礼ヲ老聃ニ問トアル。小人野人マテ悉ク学ヒ知ラシムベカラスシヤ。智愚推通スルノ道デハナキシヤ。此不邪婬戒ハ。万巻ノ書ヲ諳ンスル者モ持ネハ身ニ灾アル。甚ニ至テハ其家ヲ亡ス。一文不通ノ者モ持ネハ身ニ灾アル。甚ニ至テハ家ヲ亡ス。学者モ愚者モ一等ニ謹ミ守ラネハナラヌシヤ。誠ニ智愚推通スルノ道ハ此ニ在ルシヤ。
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