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翁問答 / 上卷之末

夫軍法の本意は國家安穩武運長久にして萬民を惠まん爲なるにかへつて萬民も其毒にあたり、其身の運もつき國家も絶滅する基となれば、軍法に達し軍功をたつるも、畢竟は無益のいたずら事なり、其上陰謀をのみもつはらとし、詐力に任して仁義の德なきは、たとへ韓信項羽の才ありといふとも、節制の敵にさへ楯つくことあたはず、まして仁義の師に敵せん事、立車にむかへる螳螂に異ならず、太白陰經に齊の伎擊は魏の武卒にあふべからず、魏の武卒は秦の銳士に勝ことあたはず、秦の銳士は桓文の節制にあたるべからず、桓文の節制は湯武の仁義に敵す可からずといへるこゝろよく玩味あるべし、しかるゆへに孫子の五事はみちを第一とし、吳子の兵法は和をもつて先とす、道といへるも和といへるも、みな仁義の德のことなり、儒門の心學の外に此德を明かにすべき道なければ、心學をつとめてその德をあきらかにしてのちに、軍法をまなびたるがよしといふ事分明なり、とても軍法を學ばんとならば天下に敵なき仁者の軍法をまなびたるがよろしきか。

新字:夫軍法の本意は国家安穏武運長久にして万民を恵まん為なるにかへつて万民も其毒にあたり、其身の運もつき国家も絶滅する基となれば、軍法に達し軍功をたつるも、畢竟は無益のいたずら事なり、其上陰謀をのみもつはらとし、詐力に任して仁義の徳なきは、たとへ韓信項羽の才ありといふとも、節制の敵にさへ楯つくことあたはず、まして仁義の師に敵せん事、立車にむかへる螳螂に異ならず、太白陰経に斉の伎撃は魏の武卒にあふべからず、魏の武卒は秦の鋭士に勝ことあたはず、秦の鋭士は桓文の節制にあたるべからず、桓文の節制は湯武の仁義に敵す可からずといへるこゝろよく玩味あるべし、しかるゆへに孫子の五事はみちを第一とし、呉子の兵法は和をもつて先とす、道といへるも和といへるも、みな仁義の徳のことなり、儒門の心学の外に此徳を明かにすべき道なければ、心学をつとめてその徳をあきらかにしてのちに、軍法をまなびたるがよしといふ事分明なり、とても軍法を学ばんとならば天下に敵なき仁者の軍法をまなびたるがよろしきか。

書き下し

夫軍法の本意は国家安穏武運長久にして万民を恵まん為なるにかへつて万民も其毒にあたり、其身の運もつき国家も絶滅する基となれば、軍法に達し軍功をたつるも、畢竟は無益のいたずら事なり、其上陰謀をのみもつはらとし、詐力に任して仁義の徳なきは、たとへ韓信項羽の才ありといふとも、節制の敵にさへ楯つくことあたはず、まして仁義の師に敵せん事、立車にむかへる螳螂に異ならず、太白陰経に斉の伎撃は魏の武卒にあふべからず、魏の武卒は秦の鋭士に勝ことあたはず、秦の鋭士は桓文の節制にあたるべからず、桓文の節制は湯武の仁義に敵す可からずといへるこゝろよく玩味あるべし、しかるゆへに孫子の五事はみちを第一とし、呉子の兵法は和をもつて先とす、道といへるも和といへるも、みな仁義の徳のことなり、儒門の心学の外に此徳を明かにすべき道なければ、心学をつとめてその徳をあきらかにしてのちに、軍法をまなびたるがよしといふ事分明なり、とても軍法を学ばんとならば天下に敵なき仁者の軍法をまなびたるがよろしきか。

現代語訳

そもそも軍法の本来の目的は、国家を安らかにし武運を長く保って、万民に恵みを施すためである。それなのにかえって万民がその害を受け、自分の運も尽き国家も滅びるもとになるのなら、軍法に通じて軍功を立てても、結局は無益な無駄事である。そのうえ陰謀ばかりを専らとし、詐りと力に任せて仁義の徳がない者は、たとえ韓信や項羽ほどの才があっても、規律の整った軍にさえ立ち向かえず、まして仁義の軍に敵対するなど、車に向かうかまきりと変わらない。『太白陰経』に「斉の技撃は魏の武卒に当たれず、魏の武卒は秦の鋭士に勝てず、秦の鋭士は斉の桓公・晋の文公の節制の軍に当たれず、桓文の節制は湯王・武王の仁義の軍に敵わない」とある意味をよく味わうべきである。だから孫子の五事は道を第一とし、呉子の兵法は和を先とする。道といい和といい、みな仁義の徳のことである。儒門の心学のほかにこの徳を明らかにする道はないので、心学に努めて徳を明らかにしてから軍法を学ぶのがよいことは明白である。どうせ軍法を学ぶなら、天下に敵のない仁者の軍法を学ぶのがよいのではないか。

解説

藤樹は軍法の目的を「国家の安穏と万民への恵み」に置き直し、その目的に反する勝ち方は無益だと言い切る。『太白陰経』の段階論を引いて、技術より規律、規律より仁義の軍が強いと示し、孫子が五事の第一に「道」を、呉子が「和」を置いたこともその証とする。兵法書そのものが徳を土台にしているという読み方であり、文武を分けない藤樹らしい論である。仕事でも、手法やテクニックは組織の目的と信頼関係の上に乗ってはじめて力を持つ。目的を見失った成果は、いずれ組織を傷つけるものだと心得たい。

この章句が説くこと

仁義徳和道軍法孫子

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