長短経 / 定名
夫道者、人之所蹈也。居知所為、行知所之、事知所乘、動知所止、謂之道。〔又曰、道者、謂人之所蹈、使萬物不失其所由也。〕德者、人之所得也。使人各得其所欲、謂之德。仁者、愛也。致利除害、兼愛無私、謂之仁。〔又曰、仁者、人之所親、有慈悲惻隱之心、遂其生成。〕
新字:夫道者、人之所蹈也。居知所為、行知所之、事知所乗、動知所止、謂之道。〔又曰、道者、謂人之所蹈、使万物不失其所由也。〕徳者、人之所得也。使人各得其所欲、謂之徳。仁者、愛也。致利除害、兼愛無私、謂之仁。〔又曰、仁者、人之所親、有慈悲惻隠之心、遂其生成。〕
書き下し
夫れ道なる者は、人の蹈む所なり。居りては為す所を知り、行きては之く所を知り、事えては乗ずる所を知り、動きては止まる所を知る。之を道と謂う。〔又た曰く、道なる者は、人の蹈む所にして、万物をして其の由る所を失わざらしむるを謂うなり。〕徳なる者は、人の得る所なり。人をして各々其の欲する所を得しむる、之を徳と謂う。仁なる者は、愛なり。利を致し害を除き、兼ねて愛して私無き、之を仁と謂う。〔又た曰く、仁なる者は、人の親しむ所にして、慈悲惻隠の心有りて、其の生成を遂げしむ。〕
現代語訳
道とは、人が踏み行うものである。いるときにはすべきことを知り、行くときには行き先を知り、事に当たるときには乗るべき機を知り、動くときには止まるところを知る。これを道という。〔また言う。道とは人が踏み行うもので、万物にその拠りどころを失わせないことをいう。〕徳とは、人が得るものである。人々にそれぞれ望むものを得させる、これを徳という。仁とは、愛である。利をもたらし害を除き、分け隔てなく愛して私心がない、これを仁という。〔また言う。仁とは人が親しむもので、慈悲と憐れみの心があって、ものの生成を遂げさせることである。〕
解説

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素書・『素書』道徳仁義礼は一体夫れ道、徳、仁、義、礼、五つの者は一体なり。道とは、人の蹈む所にして、万物をして其の由る所を知らざらしむ。徳とは、人の得る所にして、万物をして各おの其の欲する所を得しむ。仁とは、人の親しむ所にして、慈恵惻隠の心有りて、以て其の生成を遂げしむ。義とは、人の宜しとする所にして、善を賞し悪を罰し、以て功を立て事を立つ。礼とは、人の履む所にして、夙に興き夜に寝ね、以て人倫の序を成す。夫れ人の本を為さんと欲せば、一も無かる可からず。
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『新書』道德說物の道とし始むる所、之を道と謂い、得て以て生ずる所、之を徳と謂う。徳の有するや、道を以て本と為す、故に曰く「道なる者は、徳の本なり」と。徳は物を生じ又物を養えば、則ち物は安利なり。物を安利にする者は、仁の行なり。仁の行は徳より出づ、故に曰く「仁なる者は、徳の出づるなり」と。徳は理を生じ、理立てば則ち宜有り、適う之を義と謂う。義なる者は、理なり、故に曰く「義なる者は、徳の理なり」と。徳は物を生じ、又之を養長して離れず、得て以て安利なり。徳の物に遇うや忠厚なり、故に曰く「忠なる者は、徳の厚きなり」と。徳の忠厚なるや、信固くして易わらず、此れ徳の常なり。故に曰く「信なる者は、徳の固きなり」と。徳は道より生じて理有り、理を守れば則ち道に合し、道と理と密にして離れず、故に能く物を畜い物を養う。物は仰ぎて徳を恃まざる莫し、此れ徳の高きなり、故に曰く「密なる者は、徳の高きなり」と。道して失う勿ければ、則ち道有り。得て之を守れば、則ち徳有り。行い休む無き有れば、則ち行成る。故に曰く「道此れ之を道と謂い、徳此れ之を徳と謂い、行此れ之を行と謂う」と。諸の此の言は、徳の変を尽くす。変なる者は、理なり。
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『弁名』仁且つ先王は聡明睿知の徳有りて、礼楽を制作し是の道を立て、天下後世をして是に由らしむ。而して後の君子奉じて以て之を行ふ。是れ聡明睿知の徳有りと雖も、将た安んぞ之を用ひん。且つ先王の是の道を立つるや仁を以てす。故に礼楽刑政仁に非ざる者莫し。是を以て苟も仁人に非ざれば、何を以て能く先王の道に任じて以て天下の民を安んぜんや。故に孔門の教へは、仁を以て至りと為し、仁に依るを以て務めと為して、復た聖人と為らんことを求めざるは、古の道爾りと為す。孟子曰く、「仁なる者は人なり。合はせて之を言へば道なり」と。夫れ道は先王に属し徳は我に属す。唯だ仁に依りて後に道と我と得て合ふべし。此れ古来相伝ふるの説なり。
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『呻吟語』内篇・談道・養ふの義、大なる哉虛を以て心を養ひ、德を以て身を養ひ、善を以て人を養ひ、仁を以て天下萬物を養ひ、道を以て萬世を養ふ。養ふの義、大なる哉。
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『弁名』性情才仁斎先生務めて仁義礼智の性に非ざるを言ふ。善く孟子の意を獲と謂ふべきのみ。孟子固より仁義礼智心に根ざすを以て性と為し、仁義礼智を以て性と為すに非ず。然れども其の説、本と内外を争ひ門戸を立つるに出づ。其の告子と之を争ふを観れば、議論泉のごとく湧き、口言を択ばず、務めて人を服して而る後に已む。其の心も亦た安んぞ後世に宋儒の災有るを知らんや。是れ其の褊心の使む所、乃ち其の責を辞する能はざる者有り。夫れ仁智は徳なり。礼義は道なり。皆先王の立つる所なり。孟子も亦た先王人の性に率ひて以て道徳を立つと謂ふのみ。仁斎先生四者を以て徳と為すも、亦た非なり。
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『弁名』道一変して道に至ると曰ふは、先王の道行はるるの世を謂ふなり。与に道に適くべしと曰ふは、身の先王の道に合ふを謂ふなり。至道と曰ひ、大道と曰ふは、先王の道を尊ぶの辞なり。道に志すと曰ひ、朝に道を聞くと曰ひ、天下道有りと曰ひ、国道有りと曰ひ、国道無しと曰ひ、無道の君と曰ひ、有道に就きて正すと曰ふ。凡そ単に道と言ふ者は、皆先王の道を以て之を言ふ。道無しとは先王の道全く亡ぶるなり。道有りとは必ずしも全く有るにあらざるなり。有道の士の如きは、身に道芸有るを以て之を言ふ。先王の道は外に在り、六芸も亦た先王の道なり。故に古は道芸を以て並び称す。大小の分のみ。其の人徳有りと雖も、然れども先王の道を知らざれば、則ち有道の士と称するを得ず。後世道徳の名混ず。学者其れ諸を審らかにせよ。