翁問答 / 上卷之本
其內にてよく、似たる贋は俗儒、墨家、楊氏、老氏、佛氏などにて候、俗儒は儒道の書物をよみ訓詁をおぼへ、記誦詞章を專らとし、耳にきゝ口に說ばかりにて德を知り道を行はざるものなり、墨家は儒道の至公博愛の仁を學び損ひて、本末先後の序をみだるもの也楊氏は爲己愼獨の密を學び損ひて一貫の眞を失ふものなり、老氏佛氏は無方無體の神易の皮膚をみて中和の骨髓をうしなふもの也、このうちにて日本へ流傳して擴まりたるは、俗儒と佛氏の二いろなり、二つの中にて世俗の專ら學問といへるは、俗儒の記誦詞章なり、俗儒の學問は正眞の學問に殊の外近く候へども、志しの立やうと學問の仕樣にて、千萬里のあやまりとなれり、謹み選ぶべきことにて候。
新字:其内にてよく、似たる贋は俗儒、墨家、楊氏、老氏、仏氏などにて候、俗儒は儒道の書物をよみ訓詁をおぼへ、記誦詞章を専らとし、耳にきゝ口に説ばかりにて徳を知り道を行はざるものなり、墨家は儒道の至公博愛の仁を学び損ひて、本末先後の序をみだるもの也楊氏は為己慎独の密を学び損ひて一貫の真を失ふものなり、老氏仏氏は無方無体の神易の皮膚をみて中和の骨髄をうしなふもの也、このうちにて日本へ流伝して擴まりたるは、俗儒と仏氏の二いろなり、二つの中にて世俗の専ら学問といへるは、俗儒の記誦詞章なり、俗儒の学問は正真の学問に殊の外近く候へども、志しの立やうと学問の仕様にて、千万里のあやまりとなれり、謹み選ぶべきことにて候。
書き下し
其内にてよく、似たる贋は俗儒、墨家、楊氏、老氏、仏氏などにて候、俗儒は儒道の書物をよみ訓詁をおぼへ、記誦詞章を専らとし、耳にきゝ口に説ばかりにて徳を知り道を行はざるものなり、墨家は儒道の至公博愛の仁を学び損ひて、本末先後の序をみだるもの也楊氏は為己慎独の密を学び損ひて一貫の真を失ふものなり、老氏仏氏は無方無体の神易の皮膚をみて中和の骨髄をうしなふもの也、このうちにて日本へ流伝して擴まりたるは、俗儒と仏氏の二いろなり、二つの中にて世俗の専ら学問といへるは、俗儒の記誦詞章なり、俗儒の学問は正真の学問に殊の外近く候へども、志しの立やうと学問の仕様にて、千万里のあやまりとなれり、謹み選ぶべきことにて候。
現代語訳
「その中で、よく似た偽物は俗儒・墨家・楊氏・老氏・仏氏などである。俗儒は儒道の書物を読み、字句の解釈を覚え、暗誦と詩文を専らにして、耳で聞き口で説くばかりで、徳を知り道を行うことのない者である。墨家は儒道の至公博愛の仁を学びそこなって、本末先後の順序を乱す者である。楊氏は己のためにし独りを慎む密かな工夫を学びそこなって、一貫の真を失う者である。老氏・仏氏は形も方角もない神妙な易の皮膚を見て、中和の骨髄を失う者である。このうち日本へ伝わって広まったのは俗儒と仏氏の二つである。二つのうち世間で専ら学問と言っているのは、俗儒の暗誦と詩文である。俗儒の学問は正真の学問にことのほか近いけれども、志の立て方と学問のしかたによって千万里の誤りとなる。慎んで選ぶべきことである。」
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『大和俗訓』巻之二・為学下一博学にして経書に通じ、義理を説く人も、其心術行迹あしくして、俗人におとれるもあり。是道に志なくして、道を我が心に得ざればなり。口に読みならひ、目に見おぼえても、其理を心に得ざれば益なし。たとへば美食芳樽前に多くつらなれども、これを飲みくらはざれば、食にもあく事なく、酒にゑふ事もなきが如し。書を読んで行あしき人あるをうたがふ人あり。これを以て疑をはらすべし。書をよみても道に志なくば、文字を知れるのみにて、心において益なし。是無用の学なり。ここを以て、学をするにはまづ志を本とすべし。
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『童子問』卷下問ふ、今時の学者、何ぞ聖学に志す者の少なくして、雑学を好む者の多きや、と。曰く、豪傑なる者は少なくして、庸材なる者は多し。古今皆然り。予養鷹者の説を聞く。鷹の捷き者は、必ず先づ鶴の最も大なる者を撃つ。其の捷からざる者は、必ず鶴の小なる者を見て之を撃つ。鷹の最も神俊なる者を、海東青と号す。建酋に産し、海内には得べからず、と。韓欧の古文を好む者既に少なく、伊洛の学に志す者益々少なし。況んや孔孟の正学に志す者は、千万人中の一人のみ。其の韓欧の古文を好む者は、鶴の稍小なる者を撃つの類なり。伊洛の学に志す者は、鷹の捷き者なり。孔孟の正学に志す者は、建酋の海東青なり。其の雑学・詞章・記誦の類を好む者は、亦小隼の麻雀鶉鷃を撃つの類のみ。貴ぶに足らず。子其れ自ら励む所を知らざるべけんや。
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孟子・盡心章句上孟子曰く、「孔子東山に登りて魯を小とし、泰山に登りて天下を小とす。故に海を観る者には水と為し難く、聖人の門に游ぶ者には言と為し難し。水を観るに術有り、必ず其の瀾を観る。日月明有り、光を容るるところ必ず照らす。流水の物為るや、科に盈たざれば行かず。君子の道に志すや、章を成さざれば達せず。」
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『大和俗訓』巻之一・為学上一学問はまづ志を立つるを以て本とす。志とは心のゆく所なり。道を知り行ひて、君子に至らんと思ふ心常におこたりなく、念々やまざるを、志を立つると云ふ。志たたざれば学ぶこと成就せず。故に古人も、志ある者は其事つひになるといひ、又志たつは学の半なりといへり。たとへば弓いる者の、的に志し、道ゆく者の、宿に志すが如し。よろづの事、まづ本をつとむべし。志を立つるは学問の本なり。志を立つるには勇猛なるべし。柔弱にして怠るべからず。おこたれば験なくしてはかゆかず。道を求むるにせちなる志は、たとへば飢ゑて食を求め、渇きて湯水を求むるが如くなるべしわづかに悠々としておこたれば、志すたる。唯此道に心を一すぢにすべし。
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うひ山ぶみ・注[ロ]かのしなじなある学びのすぢすぢ外の国の事に用ひんよりは、わがみづからの国の事に用ひまほしく思ふ也、その勝劣のさだなどは、姑くさしおきて、まづよその事にのみかゝづらひて、わが内の国の事をしらざらんは、くちをしきわざならざらんや、志を高く大きにたてて云々、すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立テて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よわくては、学問すゝみがたく、倦怠るもの也、主としてよるべきすぢは云々、道を学ぶを主とすべき子細は、今さらいふにも及ばぬことなれども、いさゝかいはば、まづ人として、人の道はいかなるものぞといふことを、しらで有べきにあらず、学問の志なきものは、論のかぎりにはあらず、かりそめにもその心ざしあらむ者は、同じくは道のために、力を用ふべきこと也、然るに道の事をば、なほざりにさしおきて、たゞ末の事にのみ、かゝづらひをらむは、学問の本意にあらず、さて道を学ぶにつきては、天地の間にわたりて、殊にすぐれたる、まことの道の伝はれる、御国に生れ来つるは、
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『慎思録』巻之四善く学ぶ者は、志倦まず、心盈たず。一善の聞かず、一理の知らざること、歉然として飲食の飽かざるが如し。此れ何に繇りて然るや。誠に道は限り無くして、事は尽くること無きを以てなり。君子の平居無事の時に当たりては、大率衆人と異なること無し。艱難多事に遇ひて、而る後に其の才器の蘊蓄する所、優れて且つ長ずることを見る。所謂盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つに足ること無きなり。
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