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翁問答 / 上卷之本

體充曰、贋の學問とやらんは、刀脇差などに贋ある如く、正眞の名をかり模樣をにせて人をたぶらかす事にて御座候や。師の曰、左樣にきたなき心あるにてはなく候、根本は皆正眞を信仰しまなびて、名をかり模樣をにせ利欲を求むる心は露もなけれども生れつきて習ひと志とにさまざま變りあるによつて心ならず得がたへかたむきになりて、その心には我學び得たるところを正眞なりと眞實に思ひぬれども、正眞を學び得たる人の眼より見れば、似てにぬことにて候ゆへに贋とは申候、正眞を學びても志しに少しちがひあれば、覺へずわき道へ行きて贋となり候へは、贋をまなびて千萬里の違ひとなり候事おし明らめらるべし。

新字:体充曰、贋の学問とやらんは、刀脇差などに贋ある如く、正真の名をかり模様をにせて人をたぶらかす事にて御座候や。師の曰、左様にきたなき心あるにてはなく候、根本は皆正真を信仰しまなびて、名をかり模様をにせ利欲を求むる心は露もなけれども生れつきて習ひと志とにさまざま変りあるによつて心ならず得がたへかたむきになりて、その心には我学び得たるところを正真なりと真実に思ひぬれども、正真を学び得たる人の眼より見れば、似てにぬことにて候ゆへに贋とは申候、正真を学びても志しに少しちがひあれば、覚へずわき道へ行きて贋となり候へは、贋をまなびて千万里の違ひとなり候事おし明らめらるべし。

書き下し

体充曰、贋の学問とやらんは、刀脇差などに贋ある如く、正真の名をかり模様をにせて人をたぶらかす事にて御座候や。師の曰、左様にきたなき心あるにてはなく候、根本は皆正真を信仰しまなびて、名をかり模様をにせ利欲を求むる心は露もなけれども生れつきて習ひと志とにさまざま変りあるによつて心ならず得がたへかたむきになりて、その心には我学び得たるところを正真なりと真実に思ひぬれども、正真を学び得たる人の眼より見れば、似てにぬことにて候ゆへに贋とは申候、正真を学びても志しに少しちがひあれば、覚へずわき道へ行きて贋となり候へは、贋をまなびて千万里の違ひとなり候事おし明らめらるべし。

現代語訳

體充が言った。「偽の学問というのは、刀や脇差に偽物があるように、正真の名を借り模様をまねて人をだますことでございますか。」師は言った。「そのような汚い心があるわけではない。根本はみな正真を信じて学び、名を借り模様をまねて利欲を求める心は少しもないのだが、生まれつきと習いと志とにさまざまな違いがあるので、心ならずも得手の方へ傾いてしまう。本人は自分の学び得たところを正真だと本気で思っているが、正真を学び得た人の目から見れば似て非なるものであるから、偽物というのである。正真を学んでも志に少しの違いがあれば、知らず知らず脇道へ入って偽物となるのだから、まして偽物を学べば千万里の違いとなることを、よく明らかに考えるべきである。」

解説

偽の学問は悪意の詐欺ではないという、藤樹の洞察が光る段である。偽物に陥る人も本人は正真だと信じており、生まれつきや習慣、志のわずかなずれによって、気づかぬうちに得手な方向へ傾いていくのだという。だからこそ偽学は見分けにくく、恐ろしい。出発点での小さな違いが千万里の差になるという表現は、志の立て方を何より重んじる藤樹の姿勢をよく示している。仕事でも、自分では正しいと思い込んだまま方向がずれていくことは珍しくない。時々、信頼できる人の目で自分の歩みを確かめてもらうことが大切である。

この章句が説くこと

偽学志正真心学問思い込み

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