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翁問答 / 上卷之本

體充問曰、今生はかりの住居にて、五倫のまじはり夢幻のごとくなれば、五典をよくおこなふもゆめのうちのいとなみにて候へば、さして至德要道と云べきにもあらず、五典のほかに別に向上の道あるべしとそんじ候はいかが。師の曰、それは狂者の議論をきゝならひておこるうたがひにて候、狂者は道の皮膚をみて、いまだ骨髓をよくさとらざるゆへに、生死幽明有無の差別をわけてよくさとらざるゆへに、おしへを立たり、その破裂の見を聖人異端と名づけたまひて是に似たる非と云ものあり、ぼんふの見所にくらべぬれば、ことの外たかく候へども、聖人のみちよりみれば淺きことにて候、妄念の起滅をゆめの如しまぼろしの如しなどいはんは尤にて候五倫のみちは至誠無息の孝德なるを妄念とおなじく、夢幻の如しといはんはあさましきあやまり物體なき事なり、

新字:体充問曰、今生はかりの住居にて、五倫のまじはり夢幻のごとくなれば、五典をよくおこなふもゆめのうちのいとなみにて候へば、さして至徳要道と云べきにもあらず、五典のほかに別に向上の道あるべしとそんじ候はいかが。師の曰、それは狂者の議論をきゝならひておこるうたがひにて候、狂者は道の皮膚をみて、いまだ骨髄をよくさとらざるゆへに、生死幽明有無の差別をわけてよくさとらざるゆへに、おしへを立たり、その破裂の見を聖人異端と名づけたまひて是に似たる非と云ものあり、ぼんふの見所にくらべぬれば、ことの外たかく候へども、聖人のみちよりみれば浅きことにて候、妄念の起滅をゆめの如しまぼろしの如しなどいはんは尤にて候五倫のみちは至誠無息の孝徳なるを妄念とおなじく、夢幻の如しといはんはあさましきあやまり物体なき事なり、

書き下し

体充問曰、今生はかりの住居にて、五倫のまじはり夢幻のごとくなれば、五典をよくおこなふもゆめのうちのいとなみにて候へば、さして至徳要道と云べきにもあらず、五典のほかに別に向上の道あるべしとそんじ候はいかが。師の曰、それは狂者の議論をきゝならひておこるうたがひにて候、狂者は道の皮膚をみて、いまだ骨髄をよくさとらざるゆへに、生死幽明有無の差別をわけてよくさとらざるゆへに、おしへを立たり、その破裂の見を聖人異端と名づけたまひて是に似たる非と云ものあり、ぼんふの見所にくらべぬれば、ことの外たかく候へども、聖人のみちよりみれば浅きことにて候、妄念の起滅をゆめの如しまぼろしの如しなどいはんは尤にて候五倫のみちは至誠無息の孝徳なるを妄念とおなじく、夢幻の如しといはんはあさましきあやまり物体なき事なり、

現代語訳

體充が問うた。「この世は仮の住まいであって、五倫の交わりも夢幻のようなものですから、五典をよく行うのも夢の中の営みにすぎず、とりたてて至徳要道と言うほどのものではありますまい。五典のほかに、別にもっと高い道があるのではないかと存じますが、いかがでしょうか。」師は言った。「それは狂者の議論を聞き覚えて起こった疑いである。狂者は道の皮膚を見ただけで、まだ骨髄をよく悟っていないので、生死・幽明・有無の区別を分けたまま悟りきれず、それで教えを立てた。その破れ裂けた見方を、聖人は異端と名づけ、正しいものに似て非なるものと言われた。凡夫の見方に比べればことのほか高いけれども、聖人の道から見れば浅いものである。妄念の起こり消えるさまを夢のようだ、幻のようだと言うのはもっともである。しかし五倫の道は誠が絶えることのない孝徳であるのに、それを妄念と同じく夢幻のようだと言うのは、嘆かわしい誤りであり、もったいないことである。」

解説

現世を仮の宿とみる無常観に対して、藤樹が儒者の立場から反論する場面である。序文でも、禅や仏教を学んだのちに儒門に入ったと語られており、その高さを認めつつも、人倫を夢幻とする見方は「似て非なるもの」として退けられる。妄念が夢のようにはかないことは認めるが、親子や君臣の道は絶えず働く孝徳であって幻ではないという区別が要点である。仕事や家庭の人間関係をむなしく感じる時期は誰にでもある。それでも日々の務めの中にこそ道があるという藤樹の確信は、現実から逃げずに足元を大切にする姿勢を教えてくれる。

この章句が説くこと

五倫孝徳異端狂者夢幻至徳要道

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