翁問答 / 上卷之本
此寳は天に在ては天の道となり、地に在ては地の道となるは、元來名はなき物なれ共、衆生に敎へ示さん爲めに、昔しの聖人其光景をかたどりて、孝と名付け玉ふ、夫よりこの方愚痴不肖の賤男賤女に至る迄も、其名をば知ると云共、其眞實の道理は、老師宿儒知見拔群の人さへ悟り得る事稀なり、然る故に世俗孝は親に事ふる一事となして、淺近の道理なりと思へり、孔子嘆かはしく思召して、萬世の盲聾を開かん爲めに、孝德神妙不測廣大深遠にして、無始無終の神道を孝經に發明し玉ふ、孝德の感通を手近く名付け言へば、愛敬の二字に極まれり、愛は懇に親しむ心なり、敬は上をうやまひ下を輕しめ侮らざる義なり、孝は譬へば明なる鏡の如し、向ふ物の形と色とに因て、鏡の中の影は品々かはれ共、明らかに寫す鏡の體は同じ者なり、其如く父子君臣の人倫に相交ることは、千々萬々品變れ共、愛敬の至德は通せざる所なし、
新字:此宝は天に在ては天の道となり、地に在ては地の道となるは、元来名はなき物なれ共、衆生に教へ示さん為めに、昔しの聖人其光景をかたどりて、孝と名付け玉ふ、夫よりこの方愚痴不肖の賤男賤女に至る迄も、其名をば知ると云共、其真実の道理は、老師宿儒知見抜群の人さへ悟り得る事稀なり、然る故に世俗孝は親に事ふる一事となして、浅近の道理なりと思へり、孔子嘆かはしく思召して、万世の盲聾を開かん為めに、孝徳神妙不測広大深遠にして、無始無終の神道を孝経に発明し玉ふ、孝徳の感通を手近く名付け言へば、愛敬の二字に極まれり、愛は懇に親しむ心なり、敬は上をうやまひ下を軽しめ侮らざる義なり、孝は譬へば明なる鏡の如し、向ふ物の形と色とに因て、鏡の中の影は品々かはれ共、明らかに写す鏡の体は同じ者なり、其如く父子君臣の人倫に相交ることは、千々万々品変れ共、愛敬の至徳は通せざる所なし、
書き下し
此宝は天に在ては天の道となり、地に在ては地の道となるは、元来名はなき物なれ共、衆生に教へ示さん為めに、昔しの聖人其光景をかたどりて、孝と名付け玉ふ、夫よりこの方愚痴不肖の賤男賤女に至る迄も、其名をば知ると云共、其真実の道理は、老師宿儒知見抜群の人さへ悟り得る事稀なり、然る故に世俗孝は親に事ふる一事となして、浅近の道理なりと思へり、孔子嘆かはしく思召して、万世の盲聾を開かん為めに、孝徳神妙不測広大深遠にして、無始無終の神道を孝経に発明し玉ふ、孝徳の感通を手近く名付け言へば、愛敬の二字に極まれり、愛は懇に親しむ心なり、敬は上をうやまひ下を軽しめ侮らざる義なり、孝は譬へば明なる鏡の如し、向ふ物の形と色とに因て、鏡の中の影は品々かはれ共、明らかに写す鏡の体は同じ者なり、其如く父子君臣の人倫に相交ることは、千々万々品変れ共、愛敬の至徳は通せざる所なし、
現代語訳
この宝は天にあっては天の道となり、地にあっては地の道となるもので、もともと名はないものであるが、衆生に教え示すために、昔の聖人がその様子をかたどって孝と名づけたのである。それ以来、愚かな者や賤しい男女に至るまで、その名は知っているけれども、その真実の道理は、老練な師や学識ある儒者、見識の抜きん出た人でさえ悟る者はまれである。それゆえ世間では、孝は親に仕える一事だけだとして、浅く手近な道理だと思っている。孔子はこれを嘆かわしく思われて、万世の盲目や耳の聞こえない者の目と耳を開くために、孝の徳が神妙で測り知れず、広大深遠で始めも終わりもない神道であることを『孝経』に明らかにされた。孝の徳の感応を手近に名づけて言えば、愛敬の二字に尽きる。愛とはねんごろに親しむ心であり、敬とは上を敬い下を軽んじ侮らない義である。孝はたとえば明るい鏡のようなものである。向かう物の形と色によって、鏡の中の影は品々に変わるけれども、明らかに映す鏡の本体は同じものである。そのように、父子・君臣などの人倫に交わることは千差万別に変わるけれども、愛敬の至徳が通じない所はない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
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言志四録・言志耋録 第二百八十六条 敬は終身の孝人道は敬に在り。敬は固より終身の孝為り。我が躯を以て親の遺と為せばなり。一息尚ほ存せば、自ら敬するを忘る可けんや。
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『関聖帝君覚世真経』第二段・天地を敬し、神明を礼す天地を敬し、神明を礼し、祖先を奉じ、双親に孝に、王法を守り、師尊を重んじ、兄弟を愛し、朋友に信あり、宗族に睦まじく、郷隣に和し、夫婦を敬し、子孫を教ふ。
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『論語と算盤』教育と情誼・孝は強ふべきものに非ず論語の為政篇中に、「孟武伯孝を問う。子曰く、父母はただその疾をこれ憂う」、また「子游孝を問う。子曰く、今の孝はこれよく養うを謂う。犬馬に至るまで、皆よく養うあり。敬せずんば何をもって別たんや」、なおこの外にもあるごとく、孔夫子は孝道の事についてしばしば説かれている。しかし親から子に対して孝を励めよと強いるのは、かえって子をして不孝の子たらしむるものである。私にも不肖の子女が数人あるが、それがはたして将来いかなるものか、私には解らぬ。私とても子女等に対して、時折「父母はただその疾をこれ憂う」というような事を説き聞かせもする。それでも決して孝を要求し孝を強いるような事は致さぬ事にしている。親は自分の思い方一つで、子を孝行の子にしてもしまえるが、また不孝の子にもしてしまうものである。自分の思う通りにならぬ子を、すべて不孝の子だと思わば、それは大なる間違いで、皆よく親を養うというだけならば、犬や馬のごとき獣類といえども、なおかつこれをよくする。人の子としての孝道は、かく簡単なるものであるまい。親の思う通りにならず、絶えず親の膝下にいて親をよく養うようなことをせぬ子だからとて、それは必ずしも不孝の子でない。
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『慎思録』巻之二親に事ふるは愛敬を以て本と為す。愛敬を施す所は、其の実は只だ能く之を養ふに在り。之を養ふの道に二つ有り。志を養ふと体を養ふとに在るのみ。二者は一を闕くべからず。而して志を養ふを重しと為すべし。其の志を養ふとは、其の心を楽しましめて憂へしめざるに在るのみ。然り而して能く養ひて敬せざる者は、夫子の戒むる所なり。
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『和俗童子訓』巻之三・随年教法一かしづきて従ふ人より、まづ孝弟の道を教ふべし。能く父母に事ふるを孝とし、よく兄長に事ふるを弟とす。是人たる者の第一に勤め行ふべき道なる事、かしづきて師となる人、早く教ふべし。次に兄長を敬ひ従ひて、侮るべからざる事を教ふべし。兄長とは、兄姊をぢをば、また、いとこの内、其外にも、年たけて敬ふべき人を云ふ。凡孝弟の二は、人間の道を行ふ本なり。万事の善は、皆是よりはじまれる事を教ふべし。父母兄長におそれつつしみて、其教いましめを能く聞きて背かざる事を教ふべし。教を背きては、無下の事なり。父母を恐れず、兄長を侮らば、戒めてゆるすべからず。もし人を侮る事をゆるし、かへりて笑ひ悦べば、小児は善悪を弁へずして、悪しからざる事とおもひ、長じて後、此くせやまず。
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