日本伝守行矩 / 守行矩跋・文の弊と武の弊を並べて論じる
吾日本上古以武維持國家可知也已、其號曰健、曰武、曰猛、曰速、曰雄、共贊其武之美稱也、是道也亡論遂古、其原起、天照皇傳之忍穗耳、未有墳典之前、既已有焉、蓋神武不殺之道也云、以此治國、則庶民安富、蠻夷率服、苟弗繇是道、則群黎悖亂、荒服不順、創造舟楫、海路漸通、西土歲貢文籍、而後人始知有聖人之道、逮桓武天皇遷都平安、憲章神武之道、文之以禮樂、律令格式之書成、當此之時、薦紳先生佩玉挾策、濟々平廟堂上、邊陲無虞、遐邇貢獻、洋々乎丹墀下、於是、日狃宴安、詠歌弄絃、朝野成俗、淫風熾行、公卿大夫以閥閲相夸耀、幾遺先王講武愛民之道、韜鈴之士、干城之將、亦志溺於紈袴、而業荒於嬉遊、會有東奥告變、朝議不訣、不過令緇徒修行降伏之法而已、不知所以振長策而銷亂萌、是故朝政歲廢、紀綱月衰、威權移下、犯陵帝命者、往々而然矣、此文之弊也、壽永已來、天下擾々喪亂不已、英雄割據、干戈相尋、爭疆奪國、唯利是競、君臣猜疑、親戚離叛、以攻伐爲賢、以殺傷爲勇、此武之弊也、人謂能嫻騎射劍槍、攻城野戰、搴旗斬將、武莫大焉、武則武矣、
新字:吾日本上古以武維持国家可知也已、其号曰健、曰武、曰猛、曰速、曰雄、共賛其武之美称也、是道也亡論遂古、其原起、天照皇伝之忍穂耳、未有墳典之前、既已有焉、蓋神武不殺之道也云、以此治国、則庶民安富、蠻夷率服、苟弗繇是道、則群黎悖乱、荒服不順、創造舟楫、海路漸通、西土歳貢文籍、而後人始知有聖人之道、逮桓武天皇遷都平安、憲章神武之道、文之以礼楽、律令格式之書成、当此之時、薦紳先生佩玉挟策、済々平廟堂上、辺陲無虞、遐邇貢献、洋々乎丹墀下、於是、日狃宴安、詠歌弄絃、朝野成俗、淫風熾行、公卿大夫以閥閲相夸耀、幾遺先王講武愛民之道、韜鈴之士、干城之将、亦志溺於紈袴、而業荒於嬉遊、会有東奥告変、朝議不訣、不過令緇徒修行降伏之法而已、不知所以振長策而銷乱萌、是故朝政歳廃、紀綱月衰、威権移下、犯陵帝命者、往々而然矣、此文之弊也、寿永已来、天下擾々喪乱不已、英雄割拠、干戈相尋、争疆奪国、唯利是競、君臣猜疑、親戚離叛、以攻伐為賢、以殺傷為勇、此武之弊也、人謂能嫻騎射剣槍、攻城野戦、搴旗斬将、武莫大焉、武則武矣、
書き下し
吾が日本は上古より武を以て國家を維持せしこと知るべきのみ、其の號に曰く健、曰く武、曰く猛、曰く速、曰く雄、共に其の武の美稱を贊ふるなり、是の道や、遂古の其の原起を論ずる亡く、天照皇之を忍穗耳に傳へ、未だ墳典有らざるの前、既已に焉に有り、蓋し神武不殺の道と云ふ、此を以て國を治むれば、則ち庶民安富にして、蠻夷率ひ服す、苟くも是の道に繇らざれば、則ち群黎悖亂し、荒服順はず、舟楫を創造し、海路漸く通じ、西土より歲ごとに文籍を貢し、而る後、人始めて聖人の道有るを知る、桓武天皇の遷都平安に逮び、神武の道を憲章し、之を文るに禮樂を以てし、律令格式の書成る、此の時に當り、薦紳先生は玉を佩び策を挾み、廟堂の上に濟々たり、邊陲に虞れ無く、遐邇貢獻して、丹墀の下に洋々たり、是に於て、日びに宴安に狃れ、詠歌絃を弄し、朝野俗を成し、淫風熾んに行はれ、公卿大夫は閥閲を以て相ひ夸耀し、幾ど先王講武愛民の道を遺る、韜鈐の士、干城の將も、亦た志は紈袴に溺れ、業は嬉遊に荒む、會々東奥に變を告ぐる有るも、朝議訣せず、緇徒をして降伏の法を修行せしむるに過ぎざるのみ、以て長策を振ひて亂萌を銷す所以を知らず、是の故に朝政歲ごとに廢れ、紀綱月ごとに衰へ、威權下に移り、帝命を犯陵する者、往々にして然り、此れ文の弊なり、壽永已來、天下擾々として喪亂已まず、英雄割據し、干戈相ひ尋ぎ、疆を爭ひ國を奪ひ、唯だ利をのみ是れ競ふ、君臣猜疑し、親戚離叛し、攻伐を以て賢と爲し、殺傷を以て勇と爲す、此れ武の弊なり、人謂へらく、能く騎射劍槍に嫻ひ、城を攻め野に戰ひ、旗を搴り將を斬るは、武は大なるは莫しと、武は則ち武なり、
現代語訳
わが日本は上古から武によって国家を維持してきたことが知られます。その号に、健、武、猛、速、雄といい、いずれも武の美称を称えたものです。この道は、はるかな昔のその起こりを論じるまでもなく、天照皇がこれを忍穗耳に伝え、書物ができる前に、すでにあったのです。思うに神武不殺の道というものです。これによって国を治めれば、庶民は安らかに富み、蛮夷も従い服します。もしこの道によらなければ、人々は道理に背いて乱れ、辺境も従いません。舟や楫が創られ、海の道がしだいに通じ、西の国から年ごとに書物が献上され、その後、人々は初めて聖人の道があることを知りました。桓武天皇が平安に都を移すに及び、神武の道を手本として、これを礼楽で飾り、律令格式の書が成りました。このころ、高官や学者は玉を帯び策を携えて、朝廷の上に居並び、辺境に憂いはなく、遠近から貢物が届き、宮殿の庭の下に満ちあふれていました。こうして、日ごとに宴や安楽に慣れ、歌を詠み弦楽器をもてあそび、朝廷も民間もそれが習わしとなり、乱れた風潮が盛んに行われ、公卿や大夫は家柄を誇り合い、先王の武を講じ民を愛する道をほとんど忘れました。兵法に通じた者や国を守る将も、志は華やかな遊びに溺れ、務めは遊興で荒れました。たまたま東北から変事の知らせがあっても、朝廷の議論は決まらず、僧侶に降伏の法を修行させるだけでした。長い策を振るって乱れの芽を消す方法を知りませんでした。このため朝廷の政治は年ごとに廃れ、綱紀は月ごとに衰え、権威は下に移り、天子の命を犯す者がしばしば現れました。これが文の弊害です。寿永以来、天下は騒がしく、乱れが止まず、英雄が各地に割拠し、戦いが続き、境を争い国を奪い、ただ利益だけを競いました。君臣は疑い合い、親戚は離れ背き、攻め討つことを賢いとし、殺傷を勇ましいとしました。これが武の弊害です。人は言います。騎射や剣や槍に熟達し、城を攻め野に戦い、旗を奪い将を斬ることこそ、武として最も大きいと。それは武ではあります。
解説

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