日本伝守行矩 / 守行矩跋・守行矩跋の前半と天照皇の勅
側聞健貞高山先生當世善談兵、武辨之徒、莫不喈々稱之也、矢田部侯弱冠好學、銳志治術、因延先生而聽其誨、有年于茲矣、於是、先生著守行矩一篇以進之、侯嘉尙叙之、且使外臣長章更授簡、纘其後而稱述之、恭觀侯之所叙、審陳其義、無復餘蘊、不俟長章何能贊一辭、固辭不得命、遂跋其書、曰、竊惟守行矩所說、不啻談兵、兼辨振王綱明治術之道、而廣大悉備矣、與他兵家者流之說、亦徑庭、固不可同日而譚也、其言當世善談兵者、言之謬也、越若稽古、天照皇勅忍穗耳尊、曰、吾禪汝位、王於吾大八洲、既令大已貴命與少彦名命、戮力一心、經營天下、又俾天兒屋命太玉命從、汝東征、寧靖區夏、尙爾二人輔導勿惰、欽哉、忍穗耳尊以聖神叙武之德、恢闢邦畿、傳至神武天皇、四海乂安、制度略備、終爲大日本人皇始祖、前是、健速素戔雄尊與天照皇、交爭化生男女、曰正哉吾勝、故奉神號、曰正哉吾勝々速日天忍穗耳尊也、又其孫子有經津主武甕槌英武絶倫、手力雄五十猛、膂力拔羣、此皆衆所畏服也、從是厥後、上之雄略、神功、下之倭武武內蹶速之智謀驍勇、不一而足、
新字:側聞健貞高山先生当世善談兵、武弁之徒、莫不喈々称之也、矢田部侯弱冠好学、鋭志治術、因延先生而聴其誨、有年于茲矣、於是、先生著守行矩一篇以進之、侯嘉尚叙之、且使外臣長章更授簡、纘其後而称述之、恭観侯之所叙、審陳其義、無復余蘊、不俟長章何能賛一辞、固辞不得命、遂跋其書、曰、窃惟守行矩所説、不啻談兵、兼弁振王綱明治術之道、而広大悉備矣、与他兵家者流之説、亦径庭、固不可同日而譚也、其言当世善談兵者、言之謬也、越若稽古、天照皇勅忍穂耳尊、曰、吾禅汝位、王於吾大八洲、既令大已貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下、又俾天児屋命太玉命従、汝東征、寧靖区夏、尚爾二人輔導勿惰、欽哉、忍穂耳尊以聖神叙武之徳、恢闢邦畿、伝至神武天皇、四海乂安、制度略備、終為大日本人皇始祖、前是、健速素戔雄尊与天照皇、交争化生男女、曰正哉吾勝、故奉神号、曰正哉吾勝々速日天忍穂耳尊也、又其孫子有経津主武甕槌英武絶倫、手力雄五十猛、膂力抜羣、此皆衆所畏服也、従是厥後、上之雄略、神功、下之倭武武内蹶速之智謀驍勇、不一而足、
書き下し
側かに聞く、健貞高山先生は當世善く兵を談じ、武辨の徒、喈々として之を稱せざる莫きなり、矢田部侯は弱冠にして學を好み、治術に銳志あり、因つて先生を延きて其の誨へを聽くこと、年有り茲に矣、是に於て、先生守行矩一篇を著はして以て之を進む、侯嘉尙して之に叙し、且つ外臣長章をして更に簡を授けしめ、其の後を纘ぎて之を稱述せしむ、恭しく侯の叙する所を觀るに、審らかに其の義を陳べ、復た餘蘊無し、長章を俟たずして何ぞ能く一辭を贊けん、固く辭すれども命を得ず、遂に其の書に跋して、曰く、竊かに惟ふに守行矩の說く所は、啻に兵を談ずるのみならず、兼ねて王綱を振ひ治術を明らかにするの道を辨じ、而して廣大悉く備はれり、他の兵家者流の說と、亦た徑庭あり、固より日を同じうして譚ずべからざるなり、其の言ふこと當世善く兵を談ずる者の、言の謬れるなり、越に古を稽ふるに、天照皇、忍穗耳尊に勅して、曰く、吾れ汝に位を禪る、吾が大八洲に王たれ、と、既に大已貴命と少彦名命とをして、力を戮せ心を一にして、天下を經營せしめ、又た天兒屋命・太玉命をして從はしめ、汝の東征に、區夏を寧靖せしむ、尙くは爾二人輔導して惰る勿れ、欽めよや、と、忍穗耳尊は聖神にして武の德を叙べ、邦畿を恢闢し、傳へて神武天皇に至り、四海乂安にして、制度略ぼ備はり、終に大日本人皇の始祖と爲る、前に是れ、健速素戔雄尊、天照皇と交ごも爭ひ男女を化生す、曰く、正哉吾勝つ、と、故に神號を奉る、曰く、正哉吾勝々速日天忍穗耳尊なり、又た其の孫子に經津主・武甕槌の英武絶倫なる有り、手力雄・五十猛は、膂力羣を拔く、此れ皆衆の畏服する所なり、是より厥の後、上は雄略・神功、下は倭武・武內・蹶速の智謀驍勇、一にして足らず、
現代語訳
ひそかに聞くところでは、健貞高山先生は当世でよく兵を談じ、武辯の徒は、口々にこれを称えない者はないということです。矢田部侯は若いころから学を好み、治術に鋭い志があり、そこで先生を招いてその教えを聴いて、すでに年月がたっています。ここにおいて、先生は『守行矩』一篇を著してこれを進呈されました。侯はこれを喜び尊んで序を書かれ、さらに外臣の長章に書簡を授けて、その後を継いで称え述べさせました。恭しく侯が序に記されたところを拝見すると、詳しくその意義を述べ、もう言い残すところがありません。長章の言葉を待たずとも、どうして一言を添えることができましょうか。固く辞退しても命を得られず、ついにその書に跋を記して言います。ひそかに思うに、『守行矩』の説くところは、単に兵を談じるだけでなく、あわせて王の綱紀を振るい治術を明らかにする道を論じ、広大にしてことごとく備わっています。他の兵家の流派の説とも大いに隔たりがあり、もとより同日に論じることはできません。その言うところは、当世でよく兵を談じる者の言葉の誤りです。さて古い事を考えるに、天照皇が忍穗耳尊に命じて言いました。私はあなたに位を譲る、私の大八洲に王となりなさい、と。すでに大已貴命と少彦名命に、力を合わせ心を一つにして天下を経営させ、さらに天兒屋命と太玉命を従わせ、あなたの東征で、天下を安らかにさせました。願わくはあなたたち二人は補い導いて怠ってはなりません、慎みなさい、と。忍穗耳尊は聖神として武の徳を述べ、国土を開き広げ、伝わって神武天皇に至り、四海は治まって安らかになり、制度もほぼ備わり、ついに大日本の人皇の始祖となりました。これより前、健速素戔雄尊が天照皇と互いに争って男女を化生させ、正に私が勝った、と言いました。それでこの神号を奉り、正哉吾勝々速日天忍穗耳尊というのです。またその子孫に経津主と武甕槌という、勇武が比類のない者があり、手力雄と五十猛は、腕力が群を抜いていました。これらはみな人々が畏れ服した者たちです。これより後、上は雄略・神功、下は倭武・武内・蹶速に至る智謀と勇猛は、一つや二つではありません。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『日本伝守行矩』・守行矩跋・文の弊と武の弊を並べて論じる吾が日本は上古より武を以て國家を維持せしこと知るべきのみ、其の號に曰く健、曰く武、曰く猛、曰く速、曰く雄、共に其の武の美稱を贊ふるなり、是の道や、遂古の其の原起を論ずる亡く、天照皇之を忍穗耳に傳へ、未だ墳典有らざるの前、既已に焉に有り、蓋し神武不殺の道と云ふ、此を以て國を治むれば、則ち庶民安富にして、蠻夷率ひ服す、苟くも是の道に繇らざれば、則ち群黎悖亂し、荒服順はず、舟楫を創造し、海路漸く通じ、西土より歲ごとに文籍を貢し、而る後、人始めて聖人の道有るを知る、桓武天皇の遷都平安に逮び、神武の道を憲章し、之を文るに禮樂を以てし、律令格式の書成る、此の時に當り、薦紳先生は玉を佩び策を挾み、廟堂の上に濟々たり、邊陲に虞れ無く、遐邇貢獻して、丹墀の下に洋々たり、是に於て、日びに宴安に狃れ、詠歌絃を弄し、朝野俗を成し、淫風熾んに行はれ、公卿大夫は閥閲を以て相ひ夸耀し、幾ど先王講武愛民の道を遺る、韜鈐の士、干城の將も、亦た志は紈袴に溺れ、業は嬉遊に荒む、會々東奥に變を告ぐる有るも、朝議訣せず、緇徒をして降伏の法を修行せしむるに過ぎざるのみ、以て長策を振ひて亂萌を銷す所以を知らず、是の故に朝政歲ごとに廢れ、紀綱月ごとに衰へ、威權下に移り、帝命を犯陵する者、往々にして然り、此れ文の弊なり、壽永已來、天下擾々として喪亂已まず、英雄割據し、干戈相ひ尋ぎ、疆を爭ひ國を奪ひ、唯だ利をのみ是れ競ふ、君臣猜疑し、親戚離叛し、攻伐を以て賢と爲し、殺傷を以て勇と爲す、此れ武の弊なり、人謂へらく、能く騎射劍槍に嫻ひ、城を攻め野に戰ひ、旗を搴り將を斬るは、武は大なるは莫しと、武は則ち武なり、
-
『日本伝守行矩』・守行矩跋・文武を経緯とする治と跋の結び然れども未だ以て神武不殺の道と爲すべからず、歌詩彈奏、藻を擒り毫を揮ひ、便辟足恭、退朝委蛇するは、文は之に若く莫しと、文は則ち文なり、然れども未だ以て禮樂刑政の道と爲すべからず、且つ夫れ天下の常に治まりて亂れざる所以の者は、文を之が經と爲し、武を之が緯と爲せばなり、全く之を用ふれば、則ち優に錦繡を織るべく、偏に之を用ふれば、則ち僅かに補綴を助くべきのみ、經緯整はずして、能く女紅を終ふるは、之れ有ること末し、何を以て爲さんや、亂は治の貧なるか、戰國の季、越後謙信公の家に、上古聖神の受授せし所の大典を藏し、每に老臣を集め、講習討論し、之を治亂に施して、適として徵あらざる莫し、先生之を獲て、侯に傳ふ、侯愼み守りて篤く行はんと欲し、夙夜孳々として、八矩を踰えず、生平の擘畫する所は、其の肯綮を批き其の潭奧を探り、揚搉して之を論叙す、侯の志、偉なりと謂ふべきかな、奇鈴祕牒、余未だ嘗て其の一斑をも窺はずと雖も、試みに一たび之を目するに、瞠胎として錯く能はず、謹んで侯の述ぶる所の大旨に次ぎ、其の厓略を撮りて之を識す、方今昇平日に隮り、諸侯大夫は褒衣博帶し、動もすれば輒ち性命の理を口にし、或いは文藝に遊びて以て願を解く、脫し一旦羽檄交ごも馳せば、材官・蹶張・劍客・狡俠の輩に非ざる自りは、緩急將に安くにか賴らんや、顧みるに夫の烈士宿將、侯の風を聞き、鞬櫜を奉じて侯の麾下に北面せんことを願はざる莫し、侯の志す所、唯だ寶符を握りて黃石を祀るが如きのみならず、固より將に廟謨を毗贊し、鴻業を緝□し、以て文明の治を未だ衰へざるに佐けんとす、異日緩急の用に當たるべき者、其れ期有るか、其れ期有るか、寶曆十二年壬午春正月、東都稻垣長章謹みて識す、
-
『日本伝守行矩』・序・守行矩を著し信疑論を添えた序の結び大功によれるのみ、其門に遊ぶもの、三尺の童子といへども、能經濟を論じ、よく虛實に達す、その敎を信ずるもの、其性によつて各其才德をなす、於是、其大道たる事彰々たり、惜かな今世に行はれず、徒らに兵書の名目におちいつて、廣く海内に達せず、嗚呼天命のしからしむる歟、いかんともすべからず、美玉の土中に埋るが如く、日月の雲に掩るゝに似たり、豪彌去年守行矩一篇を著はして、同守にしめす、これ道の根元、敎導の死活を辨ず、此書によつて日本傳を守行なす時は、我國治亂の要を會せずといふ事なし、附して信疑論を著して、守者の一助とす、廣く四海におこなわれ、我國の補あらん事を希ふ、余が微意爰にあり、故に序をなして廣く同志に告るのみ、寶曆十二年壬午正月源 興時
-
『日本伝守行矩』・跋・門人が記す跋と日本伝の規矩我國に自然の大道あり、人の道を得るや敎による、おしへに眞妄あり、敎の眞をうるや、其規矩のたゞしきによる、日本傳は則其眞敎なり、其規矩は則我師の著はす所其正也、世に日本傳を唱ふるもの多しといへども、いまだ其眞を得るものなき歟、かつて其道をとくものをきかず、我 健貞豪彌、末世に出て、能傳意を考究し、古にさかのぼりて、その粹を得る事、古今に卓絶す、於是、我國の大道、炳然としてあきらかなる事、猶雲霧を拂て山嶽に對するがごとし、近ごろ、師、此矩言を著はして、これを指さす、苟も目あるものは、みなよくこれを見る、門に從ふものゝ幸ひのみならんや、我國の人いづちへかゆかむ、實に天下萬人の幸ひなる哉、今歳、矢田部侯、師にこふて、是を剞劂氏に命じ、梓に行はしむ、僕等もとより希ふこと久し、聊かその事を記して、書の後に附す、寶曆壬午春正月門人 三上景德謹識
-
『弘道館記述義』・國體以之尊嚴・勇武は忠愛の誠から発する実に此に胚胎す。(案ずるに本なる者は末に対するの称なり。当時、夷蛮の朝貢する者猶ほ少なし。故に未だ国号を建てず。三韓を撫し西土に通ずるに及び、或いは東天皇と称し、或いは日出づる処の天子と称し、遂に日本の号を建てて以て内外本末の分を弁ず。亦た唯だ往時の胚胎する者を挙げて之を発するのみ。)夫れ日出づるの郷は、陽気の発する所、地霊人傑、食饒かに兵足る。上の人は好生愛民を以て徳と為し、下の人は一意奉上を以て心と為す。其の勇武に至りては、則ち皆天性に根ざす。此れ国体の尊厳なる所以なり。抑も所謂勇武とは、惟だ勁悍猛烈にして以て其の威を逞しうするのみに非ず。蓋し亦た必ず忠愛の誠より発す。請ふ其の略を論ぜん。素戔嗚尊は蛇を斬りて剣を獲、以為らく是れ神剣なり、敢へて私せず、と。大巳貴神は其の平国の矛を献じて曰く、天孫若し此を以て国を治めば、必ず当に平安なるべし、と。是の時に方り、素戔嗚尊は罪を天祖に獲、大巳貴神は将に国を天孫に避らんとす。而して啻に朝廷を怨みざるのみならず、乃ち其の宝器を献じて以て奉上の誠を輸す。其の忠愛の厚きこと何如ぞや。五瀬命の薨ぜんとするに臨みて慷慨し、剣を撫して逆虜未だ滅びざるを以て憾みと為し、日本武尊の疾篤きや、懐ひを雄刀に寓し、情を歌詞に発するが若きは、其の感憤悲壮、従容嫻雅、又た復た何如ぞや。後世に至るに及びても、士は猶ほ廉恥を重んじ、卑怯懦弱を賤しみ、汚名先を辱むるを以て戒めと為し、忠義孝烈の人乏しからず。丹心血誠、天日に誓ひ金石を貫き、其の跡追はずして、流風は馨るが如く、余情は掬すべき者、皆上世の遺俗の然らしむる所なり。之を要するに自ら一種の藹然たる気象有り、海外異邦の企及する所に非ず。蓋し国体は独り尊厳なるを得ず、必ず天地正大の気に資る有り。天地の気は独り正大なるを得ず、亦た必ず仁厚義勇の風に参る有り。然らば則ち風俗の淳漓は、国体の汚隆の繋かる所なり。在上の君子、豈に心を留めざるべけんや。
-
『日本国風抄録』・兵道・日本を武勇の国と見る神話の根拠それ日本は東方にて陽氣始て發する地にして、其氣極めて盛也、其盛なる氣を稟て生れ來る故に衆庶生質武勇なり、是水土然らしむる所なり、此國最初に出來ぬるは磤馭盧島なり、磤馭盧島は大丈夫島なり、自然と武勇を生つく國故、此號ありといふは牽强、神代卷に八千戈神、纂疏に、或兵器備足蓋軍神也、又經津主神、武甕槌神の二神有、天照大神の勅を承て葦原中國に降り、悉平定し給ふ、是軍將の權輿にて此二神始て武を唱へ給へり、且神功皇后勅に、我軍神の最上として此日本の天地と久くさかへ守らん、應神天皇勅に、吾日の本武き心あらむもの必我まへに至りてすべらみことの世々の守りとならん事を思ひねがはんものは、吾神明の直き心に清き心をうけてよこしまならんとをしりぞけて、もろ〱の人をいざなへと和論語に載、又松浦物語に和國はつはものゝ國として、ちいさけれども神のまもりつよく人の心かしこかんなりといひ、八幡愚童訓に異國の人十人に御方の共は一人ぞむかふべきと云、一書に二神天之瓊矛を以て生給ふ所の州國なれば萬國に勝れて金氣の盛なるも亦見つべしと云、如此此國元より勇武の國ゆへ兵の道不絶世々に傳り、今天下太平に卒士濱迄治れるも武氣の鎭る所なり、