日本伝守行矩 / 守行矩跋・文武を経緯とする治と跋の結び
然未可以爲神武不殺之道也、歌詩彈奏擒藻揮毫、便辟足恭、退朝委蛇、文莫之若、文則文矣、然未可以爲禮樂刑政之道也、且夫天下之所以常治而不亂者、文爲之經、而武爲之緯也、全用之則可優織錦繡、偏用之則可僅助補綴、經緯不整、而能終女紅、末之有也、何以爲哉、亂敷治之貧邪、戰國之季、越後謙信公家、藏上古聖神所受授之大典、每集老臣、講習討論、施之治亂、莫適不徵矣、先生獲之、傳之於侯、侯欲愼守而篤行之、夙夜孳々、不踰八矩、生平之所擘畫者、批其肯綮而探其潭奧、揚搉而論叙之、侯之志可謂偉矣哉、奇鈴祕牒、余雖未嘗窺其一斑、試一目之、瞠胎而不能錯、謹次侯所述之大旨、撮其厓略識之、方今昇平日隮、諸侯大夫褒衣博帶、動輒口性命之理、或遊文藝以解願、脫有一旦羽檄交馳、自非材官蹶張劍客狡俠輩、緩急將安賴焉、顧夫烈士宿將聞侯之風、莫不願奉鞬櫜而北面于侯之麾下、侯所志不唯如握寶符而祀黃石、固將毗贊廟謨、緝□鴻業、以佐文明之治於未衰、異日可當緩急之用者、其有期焉乎、其有期焉乎、寶曆十二年壬午春正月東都 稻垣長章謹識
新字:然未可以為神武不殺之道也、歌詩弾奏擒藻揮毫、便辟足恭、退朝委蛇、文莫之若、文則文矣、然未可以為礼楽刑政之道也、且夫天下之所以常治而不乱者、文為之経、而武為之緯也、全用之則可優織錦繍、偏用之則可僅助補綴、経緯不整、而能終女紅、末之有也、何以為哉、乱敷治之貧邪、戦国之季、越後謙信公家、蔵上古聖神所受授之大典、毎集老臣、講習討論、施之治乱、莫適不徴矣、先生獲之、伝之於侯、侯欲慎守而篤行之、夙夜孳々、不踰八矩、生平之所擘画者、批其肯綮而探其潭奥、揚搉而論叙之、侯之志可謂偉矣哉、奇鈴秘牒、余雖未嘗窺其一斑、試一目之、瞠胎而不能錯、謹次侯所述之大旨、撮其厓略識之、方今昇平日隮、諸侯大夫褒衣博帯、動輒口性命之理、或遊文芸以解願、脱有一旦羽檄交馳、自非材官蹶張剣客狡侠輩、緩急将安頼焉、顧夫烈士宿将聞侯之風、莫不願奉鞬櫜而北面于侯之麾下、侯所志不唯如握宝符而祀黄石、固将毗賛廟謨、緝□鴻業、以佐文明之治於未衰、異日可当緩急之用者、其有期焉乎、其有期焉乎、宝暦十二年壬午春正月東都 稲垣長章謹識
書き下し
然れども未だ以て神武不殺の道と爲すべからず、歌詩彈奏、藻を擒り毫を揮ひ、便辟足恭、退朝委蛇するは、文は之に若く莫しと、文は則ち文なり、然れども未だ以て禮樂刑政の道と爲すべからず、且つ夫れ天下の常に治まりて亂れざる所以の者は、文を之が經と爲し、武を之が緯と爲せばなり、全く之を用ふれば、則ち優に錦繡を織るべく、偏に之を用ふれば、則ち僅かに補綴を助くべきのみ、經緯整はずして、能く女紅を終ふるは、之れ有ること末し、何を以て爲さんや、亂は治の貧なるか、戰國の季、越後謙信公の家に、上古聖神の受授せし所の大典を藏し、每に老臣を集め、講習討論し、之を治亂に施して、適として徵あらざる莫し、先生之を獲て、侯に傳ふ、侯愼み守りて篤く行はんと欲し、夙夜孳々として、八矩を踰えず、生平の擘畫する所は、其の肯綮を批き其の潭奧を探り、揚搉して之を論叙す、侯の志、偉なりと謂ふべきかな、奇鈴祕牒、余未だ嘗て其の一斑をも窺はずと雖も、試みに一たび之を目するに、瞠胎として錯く能はず、謹んで侯の述ぶる所の大旨に次ぎ、其の厓略を撮りて之を識す、方今昇平日に隮り、諸侯大夫は褒衣博帶し、動もすれば輒ち性命の理を口にし、或いは文藝に遊びて以て願を解く、脫し一旦羽檄交ごも馳せば、材官・蹶張・劍客・狡俠の輩に非ざる自りは、緩急將に安くにか賴らんや、顧みるに夫の烈士宿將、侯の風を聞き、鞬櫜を奉じて侯の麾下に北面せんことを願はざる莫し、侯の志す所、唯だ寶符を握りて黃石を祀るが如きのみならず、固より將に廟謨を毗贊し、鴻業を緝□し、以て文明の治を未だ衰へざるに佐けんとす、異日緩急の用に當たるべき者、其れ期有るか、其れ期有るか、寶曆十二年壬午春正月、東都稻垣長章謹みて識す、
現代語訳
しかし、それをまだ神武不殺の道とすることはできません。詩歌や演奏をたしなみ、文章の彩りを集め筆を揮い、へつらい恭しく振る舞い、朝廷から退くときも悠々としている、文こそこれに及ぶものはない、と人は言います。それは文ではあります。しかし、それをまだ礼楽刑政の道とすることはできません。そもそも天下が常に治まって乱れない理由は、文を縦糸とし、武を横糸とするからです。全部を用いれば、立派な錦の織物を織ることができ、片方に偏って用いれば、わずかに継ぎ当ての助けとなるだけです。縦糸と横糸が整わないのに、機織りの仕事をやり遂げることは、あまりないことです。どうして成し遂げられましょうか。乱は治の乏しさなのでしょうか。戦国の末、越後の謙信公の家には、上古の聖神が授け受けた大典が蔵されており、いつも老臣を集めて、講習し討論し、これを治乱に施して、証明されないことはありませんでした。先生はこれを得て、侯に伝えました。侯は慎んで守り、篤く行おうとし、朝夕努め励んで、八矩を越えることはありませんでした。日ごろに企て図られたことは、急所を突き奥深いところを探り、検討してこれを論じ述べておられます。侯の志は偉大と言うべきです。珍しい兵法の秘伝書については、私は一端さえもうかがったことがありませんが、試みに一度これを見てみると、目を見張って手の施しようもありません。謹んで侯が述べられたところの大旨に従って、その概略をまとめてこれを記します。いま太平の世が日ごとに進み、諸侯や大夫はゆったりとした衣服をまとい、ともすれば性命の理を口にし、あるいは文芸に遊んで憂さを晴らしています。もし一朝、急を告げる檄文が飛び交うことになれば、武芸の士や剣客や俠客の者たちでなければ、急の時に何に頼るのでしょうか。顧みれば、あの烈士や老練の将たちは、侯の風を聞いて、武具を携えて侯の旗下に臣として仕えることを願わない者はありません。侯の志すところは、ただ宝符を握り黄石を祀るようなことだけではなく、もとより朝廷の謀を助け、大きな事業を(底本で判読できない字)め、文明の治がまだ衰えないうちにこれを助けようとしています。いつの日か急の時の役に立つ者が現れる時が、来るでしょうか、来るでしょうか。宝暦十二年壬午春正月、東都、稲垣長章が謹んで記しました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
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