直毘霊 / 道を作りて正すは
かく道といふことを作りて正すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそ痴なれ。そも後の人、此の道のまゝに行なはばこそあらめ。さる人は、よゝに一人だに有りがたきことは、かの國の世々の史どもを見ても、しるき物をや。
新字:かく道といふことを作りて正すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かへりてたけきことに思ひいふこそ痴なれ。そも後の人、此の道のまゝに行なはばこそあらめ。さる人は、よゝに一人だに有りがたきことは、かの国の世々の史どもを見ても、しるき物をや。
書き下し
かく道ということを作りて正すは、もと道の正しからぬが故のわざなるを、かえりてたけきことに思い言うこそ痴なれ。そも後の人、此の道のままに行わばこそあらめ。さる人は、よよに一人だに有りがたきことは、かの国の世々の史どもを見ても、しるき物をや。
現代語訳
このように、道というものを作って正すのは、もともと道が正しくないからこそのわざである。それをかえって立派なことのように思って言うのは、愚かなことだ。それに、後の世の人がこの道のとおりに行っているのならまだしも、そういう人は、どの世にも一人としていないことは、あの国の歴代の史書を見ればはっきりしている。
解説
道を掲げること自体が、道が失われている証拠だ——この論法は老子の「大道廃れて仁義あり」に通じる。宣長はさらに実証に踏み込む。掲げた道のとおりに行った人が、歴代の史書を見ても一人としていない、と。理念が立派であることと、その理念で人が動いていることは別だ、という指摘である。ここには宣長の学問の性格がよく出ている。書物に何が書いてあるかではなく、それが実際にどう働いたかを史料で確かめる。同じ手つきを彼は古事記に対しても使い、四十年近くかけて古事記伝を書き上げた。
この章句が説くこと
道を作りて正す道の正しからぬ故のわざ歴代の史理念と実際