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直毘霊 / 大御心を心として

いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として。天皇の所思看御心のまにまに奉仕て、己が私心はつゆなかりき。ひたぶるに大命をかしこみゐやひまつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもおのも祖神を齋祭つゝ天皇の大御皇祖神の御前を拜祭坐がごとく、臣連八十伴緖、天下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天下のために、天神國神諸をも祭坐が如く、下なる人どもゝ、事にふれては、福を求むと、善神にこひねぎ、禍をのがれむと、惡神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢もあれば、祓淸むるなど、みな人の情にして、かならず有べきわざなり、然るを心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、佛の敎へ儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚くそむけり、又異國には、神を祭るにも、たゞ理を先にして、さまざま議論あり、淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり、凡て神は、佛などいふなる物の趣とは異にして、善神のみにはあらず、惡きも有て、心も所行も、

新字:いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として。天皇の所思看御心のまにまに奉仕て、己が私心はつゆなかりき。ひたぶるに大命をかしこみゐやひまつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもおのも祖神を斎祭つゝ天皇の大御皇祖神の御前を拝祭坐がごとく、臣連八十伴緒、天下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天下のために、天神国神諸をも祭坐が如く、下なる人どもゝ、事にふれては、福を求むと、善神にこひねぎ、禍をのがれむと、悪神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢もあれば、祓清むるなど、みな人の情にして、かならず有べきわざなり、然るを心だにまことの道にかなひなば、など云めるすぢは、仏の教へ儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚くそむけり、又異国には、神を祭るにも、たゞ理を先にして、さまざま議論あり、淫祀など云て、いましむることもある、みなさかしらなり、凡て神は、仏などいふなる物の趣とは異にして、善神のみにはあらず、悪きも有て、心も所行も、

書き下し

古えの大御代には、下が下まで、唯天皇の大御心を心として。天皇の思ほしめす御心のまにまに仕え奉りて、己が私心は露なかりき。ひたぶるに大命を畏み敬い服いて、大御慈しみの御蔭に隠ろいて、おのもおのも祖神を斎き祭りつつ天皇の大御皇祖神の御前を拝み祭り坐すがごとく、臣連八十伴緒、天の下の百姓に至るまで、各祖神を祭るは常にて、又天皇の朝廷のため天の下のために、天つ神国つ神諸をも祭り坐すが如く、下なる人どもも、事に触れては、福を求むと、善き神に請い祈ぎ、禍を逃れんと、悪しき神をも和め祭り、又たまたま身に罪穢れもあれば、祓い清むるなど、皆人の情にして、必ず有るべきわざなり、然るを心だにまことの道に適いなば、など言うめる筋は、仏の教え儒の見にこそ、さることもあらめ、神の道には、甚く背けり、又異国には、神を祭るにも、唯理を先にして、様々議論あり、淫祀など言いて、戒むることもある、皆さかしらなり、凡て神は、仏などいうなる物の趣とは異にして、善き神のみにはあらず、悪しきも有りて、心も所行も、

現代語訳

古代の大御代には、下の下の者まで、ただ天皇の大御心を自分の心として、天皇がお思いになる御心のままにお仕えして、自分の私心は少しもなかった。ひたすら大命を畏み敬い従って、慈しみ深いご庇護の陰に身を寄せ、それぞれが祖先の神を斎き祀りながら、天皇が大御皇祖神(天照大御神)の御前を拝み祀られるのと同じように、臣・連・八十伴緒(やそとものお、朝廷に仕える諸氏)から天下の人民に至るまで、おのおの祖先の神を祀るのは常のことであった。また天皇が朝廷のため天下のために天つ神・国つ神の諸神をも祀られるように、下の人々も、事あるごとに、福を求めようと善い神に祈り願い、禍を逃れようと悪い神をもなだめ祀り、またたまたま身に罪や穢れがあれば祓い清めるなど、みな人の情であって、必ずあるべき行いである。それなのに「心さえまことの道にかなっていれば(祈らずとも神は守る)」などと言うらしい筋は、仏の教えや儒者の見方ならそういうこともあろうが、神の道にはひどく背いている。また異国では、神を祀るにも、ただ理屈を先にして、さまざまに議論があり、淫祀(いんし)などと言って戒めることもあるが、みな小賢しい考えである。すべて神は、仏などというものの趣とは異なって、善い神ばかりではなく、悪い神もあって、心も行いも、

解説

古代の人々は天皇の大御心を自分の心とし、天皇が皇祖神を祀るように、それぞれ祖神を祀った。福を願って善神に祈り、禍を避けて悪神を和め、罪穢れがあれば祓う。宣長はこれを人の情として当然の営みと見る。批判されるのは、菅原道真の作と伝わる「心だにまことの道にかなひなば祈らずとても神や守らむ」の考え方で、心さえ正しければ祭りはいらないという発想は仏儒のものだという。また儒教が「淫祀」として祭祀を理屈で選り分けることも退ける。神は善神ばかりではないからである。心の持ちようだけを重んじて、形ある営みや儀礼を軽く見てはいないだろうか。

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