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直毘霊 / 惟神

神ながら安國と、平けく所知看しける大御國になもありければ、書紀の難波の長柄の朝廷の御卷に、惟神者謂隨神道亦自有神道也とあるを、よく思ふべし。神の道に隨ふとは、天の下治め賜ふ御しわざは、たゞ神代より有りこしまにまに物し賜ひて、いさゝかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ。さてしか神代のまにまに、大らかに所知看せば、おのづから神の道はたらひて、他にもとむべきことなきを、自有神道とはいふなりけり。

新字:神ながら安国と、平けく所知看しける大御国になもありければ、書紀の難波の長柄の朝廷の御巻に、惟神者謂随神道亦自有神道也とあるを、よく思ふべし。神の道に随ふとは、天の下治め賜ふ御しわざは、たゞ神代より有りこしまにまに物し賜ひて、いさゝかもさかしらを加へ給ふことなきをいふ。さてしか神代のまにまに、大らかに所知看せば、おのづから神の道はたらひて、他にもとむべきことなきを、自有神道とはいふなりけり。

書き下し

神ながら安国と、平けく知ろしめしける大御国になもありければ、書紀の難波の長柄の朝廷の御巻に、惟神とは神道に随い給いて、自ずから神道有るを謂う也とあるを、よく思うべし。神の道に随うとは、天の下治め賜う御しわざは、ただ神代より有り来しまにまに物し賜いて、いささかもさかしらを加え給うことなきをいう。さてしか神代のまにまに、大らかに知ろしめせば、おのずから神の道はたらいて、他に求むべきことなきを、自ずから神道有りとはいうなりけり。

現代語訳

神のまにまに安らかな国として、平らかに治められた大御国であったから、日本書紀の孝徳天皇の巻に「惟神とは、神の道に随われて、おのずから神の道があることをいう」とあるのを、よく考えてみるがよい。神の道に随うとは、天下をお治めになる御しわざが、ただ神代から伝わってきたそのままになされて、少しも小賢しい工夫を加えないことをいう。そのように神代のままに、大らかに治められれば、おのずから神の道が働いて、ほかに求めるべきことがない。それを、おのずから神の道がある、というのである。

解説

宣長の言う「神の道」の定義がここにある。何かを足すことではなく、足さないことだ、と。「いささかもさかしらを加え給うことなき」——小賢しい工夫を加えない。それが随神ということであり、そうしていれば道はおのずから働くので、ほかに求める必要がない。だから彼にとって、道を体系として作り上げること自体が本末転倒になる。日本書紀の一句を根拠に据えているのも彼らしい。後段の中国批判は、この定義の裏返しとして出てくる。作らなければ道がある国と、作らなければ道がない国。宣長の議論の骨格は、この対比一つで組み上がっている。

この章句が説くこと

惟神自ずから神道有りさかしらを加えず神代のまにまに

この一句を、あなたの毎日に。

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