無門関 / 第三十四則 智不是道
【無門曰】南泉可謂。老不識羞。纔開臭口。家醜外揚。然雖如是。知恩者少。【頌曰】天晴日頭出 雨下地上濕 盡情都說了 只恐信不及
新字:【無門曰】南泉可謂。老不識羞。纔開臭口。家醜外揚。然雖如是。知恩者少。【頌曰】天晴日頭出 雨下地上湿 尽情都説了 只恐信不及
書き下し
無門曰く、南泉謂つべし、老いて羞(はじ)を識らずと。纔(わず)かに臭口を開けば、家醜外に揚ぐ。是の如くなりと然雖も、恩を知る者は少なし。頌に曰く、天晴れて日頭出で、雨下って地上湿ふ。情を尽くして都(すべ)て説き了る。只だ恐る、信不及(しんふぎゅう)なることを。
現代語訳
無門は言う。南泉は、年を取って恥を知らない、というべきだ。その臭い口を開いたとたん、家の恥を外にさらしてしまった。とはいえ、その恩を知る者は少ない。頌に言う。空が晴れれば日が出る。雨が降れば地面が湿る。心を尽くして、すべてを説き終えた。ただ恐れるのは、人が信じきれないことだけだ。
解説
本則で南泉普願は「心は仏ではない、智は道ではない」と言った。師の馬祖の「即心是仏」を正面から崩す言葉である。無門は、年寄りが恥知らずにも臭い口を開いて家の恥を外にさらした、とこき下ろす。禅では真実を言葉にすること自体が「家醜」、身内の恥なのだ。しかしすぐに、その恩を知る者は少ないと付け加える。けなす言葉で最大の賛辞を送るのが無門の流儀である。頌は、晴れれば日が出る、雨なら地が湿る、と当たり前のことを並べ、すべて説き尽くしたが信じきれないのが心配だと結ぶ。答えは目の前に出ているのに、もっと奥があるはずだと探し続けるのが、人の癖なのである。
関連する章句
-
『無門関』第三十四則 智不是道南泉云く、「心は是れ佛にあらず、智は是れ道にあらず」。
-
『無門関』第二十七則 不是心佛無門曰く、南泉、者(こ)の一問を被(こうむ)りて、直に家私を揣(はか)り尽くすことを得たり。郎当(ろうとう)少なからず。頌に曰く、叮嚀(ていねい)は君が徳を損ず。無言、真に功有り。任従(さもあらばあれ)滄海は変ずとも、終に君が為に通ぜじ。
-
『無門関』第二十七則 不是心佛南泉和尚、僧の問ひて云ふに因る、「還って人の與(ため)に說かざる底の法有りや」。泉云く、「有り」。僧云く、「如何なるか是れ人の與に說かざる底の法」。泉云く、「是れ心にあらず、是れ佛にあらず、是れ物にあらず」。
-
『無門関』第三十則 即心即佛無門曰く、若し能く直下(じきげ)に領略し得去らば、仏衣を著(き)、仏飯を喫し、仏話を説き、仏行を行ず、即ち是れ仏なり。是の如くなりと然雖も、大梅、多少の人を引いて、錯って定盤星(じょうばんじょう)を認めしむ。争(いか)でか知らん、箇の仏の字を説けば三日口を漱ぐことを。若し是れ箇の漢ならば、「即心是仏」と説くを見て、耳を掩(おお)うて便ち走らん。頌に曰く、青天白日、切に忌む尋覓(じんみゃく)することを。更に如何と問はば、贓(ぞう)を抱いて屈と叫ぶ。
-
『無門関』第十九則 平常是道無門曰く、南泉、趙州に発問せられて、直に瓦解氷消して分疏不下なることを得たり。趙州縦饒い悟り去るも、更に参ずること三十年にして始めて得ん。頌に曰く、春に百花有り秋に月有り、夏に涼風有り冬に雪有り。若し閑事の心頭に挂くる無くんば、便ち是れ人間の好時節。
-
『無門関』第三十三則 非心非佛馬祖、僧の問ふに因る、「如何なるか是れ佛」。祖曰く、「非心非佛」。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る