無門関 / 第三十五則 倩女離魂
五祖問僧云。倩女離魂。那箇是真底。
書き下し
五祖、僧に問ひて云く、「倩女(せんにょ)離魂す。那箇(なこ)か是れ真底(しんてい)」。
現代語訳
五祖法演が僧に問うた。「倩女は魂が身体から離れたという。どちらが本物か」。
解説
唐の物語で、倩女は病の床にありながら、その魂が恋人と駆け落ちして子まで儲け、後に二人が一つに戻る。身体の側か、魂の側か。無門は「若し者裏に向かって真底を悟り得ば、便ち殻を出で殻に入るは、旅舍に宿するが如しと知る」と言う。どちらか一方が本物だという前提そのものを外す。頌は「雲月は是れ同じく、溪山は各々異なる。萬福萬福、是れ一か是れ二か」。会社での顔と家での顔、経営者としての判断と個人としての感情。どちらが本当の自分かと問う人は多いが、問い方が既に的を外しているのかもしれない。
この章句が説くこと
倩女離魂どちらが本物か雲月是同渓山各異出殻入殻
関連する章句
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『無門関』第三十五則 倩女離魂無門曰く、若し者裏(しゃり)に向かって真底を悟得せば、便ち知らん、殻を出でて殻に入ること、旅舎に宿るが如くなることを。其れ或いは未だ然らずんば、切に乱走すること莫れ。驀然(まくねん)として地水火風一散せば、湯に落つる螃蟹(ぼうかい)の七手八脚するが如し。那時(なじ)、言ふこと莫れ、道(い)はずと。頌に曰く、雲月是れ同じ、渓山各々異なり。万福万福、是れ一か是れ二か。
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