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無門関 / 第十八則 洞山三斤

【無門曰】洞山老人參得些蚌蛤禪。纔開兩片。露出肝腸。然雖如是且道。向甚處見洞山。【頌曰】突出麻三斤 言親意更親 來說是非者 便是是非人

新字:【無門曰】洞山老人参得些蚌蛤禅。纔開両片。露出肝腸。然雖如是且道。向甚処見洞山。【頌曰】突出麻三斤 言親意更親 来説是非者 便是是非人

書き下し

無門曰く、洞山老人、些かの蚌蛤禅を参得して、纔かに両片を開いて、肝腸を露出す。然も是の如くなりと雖も、且く道え、甚れの処に向かってか洞山を見ん。頌に曰く、突出す麻三斤、言親しく意更に親し。来たって是非を説く者、便ち是れ是非の人。

現代語訳

無門は言う。洞山老人(宋初の禅僧、洞山守初)は、ちょっとばかりハマグリ禅を身につけていて、殻を二枚ちょっと開いただけで、はらわたを丸出しにしてしまった。そうではあるが、さあ言ってみよ、どこに洞山を見るのか。頌に言う。いきなり突き出した「麻三斤」、言葉も親しく、意味はさらに親しい。やって来て是非をあれこれ言う者こそ、まさに是非にとらわれた人である。

解説

僧に「仏とは何か」と問われ、洞山守初が「麻三斤」と答えた第十八則への評唱である。麻三斤は僧衣一着分の麻の量とされ、ちょうど手元で麻を量っていたとも言われる。無門は洞山の答えを、殻を少し開けただけで中身が全部見えるハマグリに喩え、腹の底まで見せた答えだと評する。それでいて「どこに洞山を見るか」と問い返し、分かったつもりを許さない。頌の「来たって是非を説く者は、便ち是れ是非の人」は、他人の言動の是非をあれこれ論じる者こそが是非に囚われているという意味で、今もよく引かれる句である。職場でも、人の判断を批評するのは容易だ。だが批評する自分がどこに立っているかを忘れると、議論は是非の応酬に終わる。目の前の麻三斤を差し出す率直さが要る。

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