無門関 / 第十三則 德山托缽
【無門曰】若是末後句。巖頭德山俱未夢見在。撿點將來好。似一棚傀儡。【頌曰】識得最初句 便會末後句 末後與最初 不是者一句
新字:【無門曰】若是末後句。巖頭徳山倶未夢見在。撿点将来好。似一棚傀儡。【頌曰】識得最初句 便会末後句 末後与最初 不是者一句
書き下し
無門曰く、若し是れ末後の句ならば、巌頭も徳山も倶に未だ夢にも見ざること在り。撿点し将ち来たれば、好し一棚の傀儡に似たり。頌に曰く、最初の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。末後と最初と、是れ者の一句にあらず。
現代語訳
無門は言う。もし末後の句(究極の一句)ということなら、巌頭(唐の禅僧、巌頭全奯)も徳山(唐の禅僧、徳山宣鑑)も、夢にさえ見ていない。よく調べてみれば、まるで一つの棚に並んだ操り人形のようなものだ。頌に言う。最初の句が分かれば、末後の句も分かる。しかし末後の句も最初の句も、この一句ではない。
解説
老いた徳山が鐘も鳴らぬうちに鉢を持って食堂に下り、弟子の雪峰に咎められて黙って引き返した。巌頭が「徳山は末後の句を知らない」と言い、のちに「老人も末後の句を会得した」と手を打った第十三則への評唱である。師弟の間で交わされた「末後の句」という究極の言葉をめぐる話だが、無門はそれを、巌頭も徳山も夢にも見ていない、一棚の操り人形だと片づける。徳山も巌頭も雪峰も、それぞれ役を演じたにすぎないという見立てである。頌は、最初の一句と最後の一句は別物ではないと言い、さらにそれは「この一句」でもないと打ち消す。究極の答えを言葉に固定しようとすれば取り逃がす。組織で「最後の結論」を急ぐ会議ほど、最初の問いを見失っていることが多い。
関連する章句
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『無門関』第十三則 德山托缽德山一日缽を托して堂を下る。雪峰の問ふを見る、「者(こ)の老漢、鐘未だ鳴らず鼓未だ響かざるに、缽を托して甚(いづ)れの處に向かひてか去る」。山便ち方丈に回る。峰、巖頭に舉似(こじ)す。頭云く、「大小の德山、未だ末後の句を會せず」。山聞きて、侍者をして巖頭を喚び來らしめ、問ひて曰く、「汝老僧を肯(うべな)はざるか」。巖頭密かに其の意を啟(もう)す。山乃ち休し去る。明日陞座するに、果たして尋常と同じからず。巖頭僧堂前に至り、掌を拊(う)ち大笑して云く、「且(まさ)に喜ぶ、老漢末後の句を會するを得たり。他後天下の人、伊(かれ)を奈何(いかん)ともせず」。
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『無門関』第二十八則 久響龍潭無門曰く、徳山未だ関を出でざる時、心憤憤(ふんぷん)、口悱悱(ひひ)として、得得として南方に来たり、教外別伝の旨を滅却せんと要す。澧州の路上に到るに及んで、婆子に問うて点心を買はんとす。婆云く、「大徳の車子の内は是れ甚麼(なん)の文字ぞ」。山云く、「金剛経の抄疏」。婆云く、「只だ経中に道ふが如きんば、過去心不可得、見在心不可得、未来心不可得と。大徳、那箇(いずれ)の心にか点ぜんと要す」。徳山、者(こ)の一問を被りて、直に口、匾檐(へんたん)に似たることを得たり。是の如くなりと然雖(いえど)も、未だ肯(あ)へて婆子の句下に向かって死却せず。遂に婆子に問ふ、「近処に甚麼の宗師か有る」。婆云く、「五里の外に龍潭和尚有り」。龍潭に到るに及んで敗闕(はいけつ)を納れ尽くす。謂つべし、是れ前言、後語に応ぜずと。龍潭、大いに児を憐れんで醜きことを覚えざるに似たり。他の些子(しゃし)の火種有るを見て、郎忙(ろうぼう)として悪水を将(も)って、驀頭(まくとう)に一澆(いちぎょう)に澆殺す。冷地に看来たれば一場の好笑なり。頌に曰く、名を聞かんよりは面を見んに如かず。面を見んよりは名を聞かんに如かず。鼻孔を救ひ得たりと雖然(いえど)も、争奈(いかん)せん眼睛を瞎却(かっきゃく)することを。
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『無門関』第二十八則 久響龍潭龍潭、德山の請益して夜に抵(いた)るに因る。潭云く、「夜深けたり、子(し)何ぞ下り去らざる」。山遂に珍重して簾を揭げて出づ。外面の黑きを見て卻回して云く、「外面黑し」。潭乃ち紙燭を點じて度與(どよ)す。山接せんと擬す。潭便ち吹き滅す。山此に於て忽然として省有り。便ち禮を作す。潭云く、「子箇の甚麼(なん)の道理をか見る」。山云く、「某甲今日より去(のち)、天下の老和尚の舌頭を疑はず」。明日に至りて龍潭陞堂して云く、「可中(かちゅう)に箇の漢有り、牙は劍樹の如く、口は血盆に似たり。一棒に打てども頭を回らさず。他時異日、孤峰頂上に向かって吾が道を立てん」。山遂に疏抄を取り、法堂の前に於て一炬の火を將(も)って、提起して云く、「諸の玄辨を窮むるも、一毫を太虛に致(お)くが若し。世の樞機を竭(つ)くすも、一滴を巨壑(きょがく)に投ずるに似たり」。疏抄を將って便ち燒く。是に於て禮辭す。
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