夢中問答集 / 『夢中問答集』仏祖をそしり、ほめる意味
問或人の云く、明眼の宗師有る時は佛をそしり、祖をそしる、有時は佛をほめ、祖をうやまふこれを抑揚褒貶となづく、是は禪門の手段なり、學者の惡見をそしり、正見をほむるは、是れ則實にそしり實にほむるなり、佛祖を罵賛するには同じからずと、其の義あたれりや。 答明眼の宗師の佛祖をそしり、佛祖をほむるも、佛祖のためにはあらず、學者のためにほどこす手段なり。古人云く、汝等佛祖と一絲毫もかはらずと云云。明眼の人の前には佛祖とて崇むべく、凡夫とて輕しむべき事あらんや、たゞ此の凡聖のへだてなき、本分の處に到らしめんために、種々の手段をほどこして有る時はほめ、有る時はそしる、其の意すべて褒貶の處にあらず、愚癡の學者これをしらず、其の言句に隨つて褒る時はよろこび、貶る時はいかるたとひいかるまではなけれども、何なる過のあれば、我をそしるやと思ふて、又これを改めんことをもとむ、今時は知識をたつる人も凡聖の隔てなきことをば言語にはさやつれども、いまだ此の田地に到れる事のなき人は、學者に對する時、實に是非の相を見て或はそしり或はほむ。圓覺經に云く、末世に菩提を習ふ者すこしきの證を得て、いまだ我相の根本をつくさぬ故に、おのれが法門を信ずる人あれば、これをよろこびそしる者あればこれをいかると云云。
新字:問或人の云く、明眼の宗師有る時は仏をそしり、祖をそしる、有時は仏をほめ、祖をうやまふこれを抑揚褒貶となづく、是は禅門の手段なり、学者の悪見をそしり、正見をほむるは、是れ則実にそしり実にほむるなり、仏祖を罵賛するには同じからずと、其の義あたれりや。 答明眼の宗師の仏祖をそしり、仏祖をほむるも、仏祖のためにはあらず、学者のためにほどこす手段なり。古人云く、汝等仏祖と一糸毫もかはらずと云云。明眼の人の前には仏祖とて崇むべく、凡夫とて軽しむべき事あらんや、たゞ此の凡聖のへだてなき、本分の処に到らしめんために、種々の手段をほどこして有る時はほめ、有る時はそしる、其の意すべて褒貶の処にあらず、愚痴の学者これをしらず、其の言句に随つて褒る時はよろこび、貶る時はいかるたとひいかるまではなけれども、何なる過のあれば、我をそしるやと思ふて、又これを改めんことをもとむ、今時は知識をたつる人も凡聖の隔てなきことをば言語にはさやつれども、いまだ此の田地に到れる事のなき人は、学者に対する時、実に是非の相を見て或はそしり或はほむ。円覚経に云く、末世に菩提を習ふ者すこしきの証を得て、いまだ我相の根本をつくさぬ故に、おのれが法門を信ずる人あれば、これをよろこびそしる者あればこれをいかると云云。
書き下し
問或人の云く、明眼の宗師有る時は佛をそしり、祖をそしる、有時は佛をほめ、祖をうやまふこれを抑揚褒貶となづく、是は禪門の手段なり、學者の惡見をそしり、正見をほむるは、是れ則實にそしり實にほむるなり、佛祖を罵賛するには同じからずと、其の義あたれりや。 答明眼の宗師の佛祖をそしり、佛祖をほむるも、佛祖のためにはあらず、學者のためにほどこす手段なり。古人云く、汝等佛祖と一絲毫もかはらずと云云。明眼の人の前には佛祖とて崇むべく、凡夫とて輕しむべき事あらんや、たゞ此の凡聖のへだてなき、本分の處に到らしめんために、種々の手段をほどこして有る時はほめ、有る時はそしる、其の意すべて褒貶の處にあらず、愚癡の學者これをしらず、其の言句に隨つて褒る時はよろこび、貶る時はいかるたとひいかるまではなけれども、何なる過のあれば、我をそしるやと思ふて、又これを改めんことをもとむ、今時は知識をたつる人も凡聖の隔てなきことをば言語にはさやつれども、いまだ此の田地に到れる事のなき人は、學者に對する時、實に是非の相を見て或はそしり或はほむ。圓覺經に云く、末世に菩提を習ふ者すこしきの證を得て、いまだ我相の根本をつくさぬ故に、おのれが法門を信ずる人あれば、これをよろこびそしる者あればこれをいかると云云。
現代語訳
問:ある人は言う。眼の明らかな宗師が、ある時は仏をそしり祖師をそしり、ある時は仏をほめ祖師を敬う。これを抑揚褒貶と名づけ、禅門の手段である。学ぶ者の悪い見解をそしり、正しい見解をほめるのは、本当にそしり本当にほめているのであって、仏祖を罵り賛えるのとは同じでない、と。この意味は当たっているか。 答:眼の明らかな宗師が仏祖をそしり、仏祖をほめるのも、仏祖のためではない。学ぶ者のために施す手段である。古人はいう。あなたがたは仏祖と一毫も違わない、と。眼の明らかな人の前に、仏祖だからといって崇めるべき、凡夫だからといって軽んじるべきということがあろうか。ただこの凡夫と聖者の隔てのない本分のところに至らせるために、種々の手段を施して、ある時はほめ、ある時はそしるのである。その意図は、すべて褒貶のところにはない。愚かな学者はこれを知らず、その言葉に従って、ほめられるときは喜び、そしられるときは怒る。たとえ怒るまではしなくても、どんな過ちがあるから私をそしるのかと思って、またそれを改めようと求める。 今の世、師匠の立場を立てる人も、凡夫と聖者の隔てのないことを言葉の上では語るけれども、まだこの境地に至ったことのない人は、学ぶ者に対するとき、実際に是非の相を見て、そしったりほめたりする。円覚経にいう。末世に菩提を学ぶ者は、少しばかりの証を得て、まだ我相の根本を尽くしていないので、自分の法門を信じる人があればこれを喜び、そしる者があればこれに怒る、と。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』褒め貶しも手段のひとつ問古人の機緣問答の中にも、たがひに褒貶の語あり、何ぞ學者のひはんをきらふや。 答宗師のたがひに褒貶する事は亦是れ小玉をよぶ手段なり、これは抑揚褒貶となづく人情我執の上において論量するには同じからず、永嘉大師の云く、或は是、或は非人しらず逆行順行天もはかりがたし。
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夢中問答集・『夢中問答集』念仏をそのままにしておくか問若し爾らば念佛を信ずる人をも、祖師の宗旨とかはらず、とてそのまゝにておくべきやらん。 答祖師の宗旨を信ずる人は、一切の所作所爲こと〱く別事にあらずと知る故に有る時は念佛を申し經呪をよむ、この故に此の人の念佛するをばきらはず、よのつね念佛を信ずる人の中に名號を唱ふるばかりこそ正行なれ餘法餘事は皆いたづら事と思へり、此の所解は大乘の正理にそむけりかゝる人を祖師の宗旨と同じとは申すべからず、たとひ禪宗を信ずとも坐禪するこそ正行なれ餘事餘行は皆いたづら事と思はゞあやまりなり。但し無取捨の中の取捨とて初心の學者しばらく餘行餘事を抛つて、一向に坐禪するをばきらふべからず、淨土宗を立て玉へる、先德の餘行をきらひ玉へるも、先づ此の一行三昧を成就せしめんためなり、餘行をそしり玉へるにはあらず、明眼の宗師の念佛宗をそしる事は其の趣きつねの諍論には同じからず、たゞ念佛宗のみにあらず、諸宗をそしることも亦同じ、乃至外道天魔の來て對論する時も明眼の人これを見て、彼れは賤しく我れは貴しと思ふべからず、しかれ共彼等が聖凡一絲毫の差別なきことを知らざる故におのれが見解は勝れたり、佛の敎法は劣れりと思へる、僻見を破らんために彼をそしるなり。圓覺經に云く、菩薩外道の成就するところの法同く是れ菩提なりと云云。不輕菩薩は一切の天魔外道惡人善人をも論ぜず、皆悉禮拜して言はく、我れふかく汝等をうやまふあへてかろしめす。其ゆへは、汝等はみな菩薩の道を行ずと云云。諸の大乘の學者先づ此の田地に到りて、後方便門を開く時無是非の中にかりに、是非をたてゝ人をそしり法をきらふことあるべし。若し人我法我をたくましくして、是非を論ぜば佛弟子にあらず何ぞ眞理にかなはんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』竺仙梵僊の跋と仮名の方便一日、等持の古先禪師、此の帙を携へて以て余に示して曰く、此れ乃ち左武衛將軍古山大居士の、久しく夢窓國師に參ぜし問答の語なり。茲に一切の在家出家、或いは女流等の道に志す者、或いは有學無學をして、其の觀覽に便ならしめんと欲す。故に乃ち日本の字書の所謂假字を以て之を繕し、目して夢中問答と曰ふ。國師の參學の在家の弟子、大高伊與太守は、以て鏤版せんとす。爾、宜しく語を著けて證明すべきか、と。 余曰く、吁、世に至人の出興して、智方便を以て千變萬化、逆順縱橫、之を導く有らずんば、世の人、之れ若何なる其の狀と爲らんかを知らず。抑も佛は一切智人たり。然れども其れ唯だ能く彼の有緣を度して、無緣を化する能はざるなり。又た能く一切の譬喩を以て種種の事を說くも、譬喩の能く此の法を說く有ること無し。心智の路絕え、言語の道斷え、不思議なるを以ての故なり。然れども其の有する所、經敎を盡くさず、方便ならざるは無し。假名假字を以て聊か之を誘引するのみ。佛云はずや、佛の方便の說を除き、但だ假名字を以て衆生を引導す、と。此れを之れ謂ふなり。然れども此の方便の說は、佛の去りてより謾なり、其の聲を繼ぐ者有ること無し。今、其れ是れを作る、佛の再來に非ずんば孰か能く爲さん。惜しむらくは余、其の假字を誦して以て其の眞義を觀、其の眞味を節角の處に玩び、之が爲に掌を撫し節を擊つこと能はざるを。恨みと爲すのみ。 或ひと曰く、未だ之を誦する能はず、然り而して何を以て其の然るを知りて輒ち之を褒め、直ちに以て佛の再來と謂ふや、と。余曰く、天、何をか言はんや。四時行はれ、百物生ず。是れ天の道なり。聾瞽といへども之を知らざる莫きなり。唯だ其の道の所以を能く知る者の鮮きのみ。國師の道も亦た猶ほ是くのごときか。吾れ既に知ること且つ久し。此の書無しと雖も亦た之を知らざる莫し、況んや之れ有るをや。唯だ其の道の所以を知る能はざるのみ。又た且つ佛とは覺なり。其の能く斯の道を覺するを以てなり。既に能く自ら覺すれば、乃ち能く人を覺せしむ。即ち前に所謂專ら引くの說是れなり。所謂先覺を以て後覺を覺し、斯の道を以て斯の民を覺す、其の揆一なるのみ。而して斯の道や亦た大なるかな。十方に橫亘し三際を竪窮す。森森たる萬有、何れか斯の道に由らざらん。所謂人人本具し各各圓成す、物物皆な然り。豈に唯だ國師のみ獨り然らんや。其の然らざる者は、唯だ覺と未覺との一間のみ。然り而して、孰れか有せざらん。且つ夫れ爾の未だ始めより覺せざるや、余は則ち爾を指して之を謂ひて曰く、爾は即ち是れ佛なり、と。是の時に當りて、爾の不覺を除き、即ち之を覺せしむ、則ち何ぞ怪しまんや。其れ或いは怪しむ者は、是れ未だ覺せずして未だ之を知らざるなり。茲れ亦た復た何ぞ怪しまんや。 曰く、是れ則ち信に然り。夫れ然るに又、所謂至人の出興とは、嘗て聞く、至人は夢無し、と。而るに此の至人の書、乃ち夢中問答と曰ふ。亦た何の謂ぞや、と。曰く、爾は固より嘗て之を聞けども亦た固より未だ嘗て之を知らざるなり。其の所謂無とは、豈に所謂有無の無ならんや。夢を以て夢に非ざるなり。然らば則ち爾、其れ復た我に誥ぐること無かれ。我れ爾が爲に重ねて言はず。何となれば則ち、爾、古の謬語を聞かずや。正に所謂、癡人の面前に夢を說くべからず、と。然れども又た、舍利弗の須菩提に問ひて云ふが如し、夢中に六波羅蜜を說くは覺時と同じか別なるか、と。須菩提云く、此の義幽深にして吾れ說く能はず。此の會に彌勒大士有り、汝れ彼に往きて問へ、と。若し復た茲に或いは夢中問答を以て舍利弗の問ふ所の如くする有らば、余は則ち曰く、此の義幽深にして吾れ說く能はず、汝れ往きて國師に作禮せよ、と。時に康永改元、歲は壬午に在り、重陽後十日、中華の沙門梵僊、南禪の方丈に書す。
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夢中問答集・『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。