夢中問答集 / 『夢中問答集』多聞より悟を求めよ
問本分の大智は人々具足すといへども、無始よりこのかたいまだ現前せざることは愚癡にさへられたる故なり。今又智慧を捨て愚癡にかへらば、大智の現前せざること亦もとのごとくなるべし。 答世間の吉凶を自らわきまへざる人は、陰陽師なんどに尋ね問ふて、其の語を信ずれば、今は其のいろめも見へね共、時節到來して、つひには吉凶の效をみるがごとし。甚深の法門を聞て、やがて自ら悟ることかなはぬ人は、しばらく佛語を信ずるを仰信となづけ、聖敎量ともいへり。學解を道の障といへる事は禪門に始めて申すにあらず。諸經の中に明文あり。法華經云く我れと阿難と、空王佛の所において同時に菩提心を發しき阿難は、常に多聞をねがふ故にいまだ菩提を成せず。我れは常に勤行せし故に、すでに菩提を成ぜり。楞嚴經に云く、阿難は一向に多聞にして、いまだ道力を成せず。圓覺經に云く、末世の衆生道を成ずる事をねがへども、悟をばもとめずして、たゞ多聞をのみこのみて、我見を增長すと云云。有る人の云く、多聞をきらふ事は、たゞ文字語句のみを記持して、義理をしらざる人のことなりと云云。かやうに申す人は、いまだ義理語句のわけめをしらざるなり。楞伽經に云く、菩提を成ぜんと思はゞ多聞の人に親近すべし。多聞とは語に達するをばいはず、義に達するをいふなり。義とは心緣の相をはなれ、言說の相をはなれたりと云云。つねさまの人の義理と思へる事は亦是れ言句なり。
新字:問本分の大智は人々具足すといへども、無始よりこのかたいまだ現前せざることは愚痴にさへられたる故なり。今又智慧を捨て愚痴にかへらば、大智の現前せざること亦もとのごとくなるべし。 答世間の吉凶を自らわきまへざる人は、陰陽師なんどに尋ね問ふて、其の語を信ずれば、今は其のいろめも見へね共、時節到来して、つひには吉凶の効をみるがごとし。甚深の法門を聞て、やがて自ら悟ることかなはぬ人は、しばらく仏語を信ずるを仰信となづけ、聖教量ともいへり。学解を道の障といへる事は禅門に始めて申すにあらず。諸経の中に明文あり。法華経云く我れと阿難と、空王仏の所において同時に菩提心を発しき阿難は、常に多聞をねがふ故にいまだ菩提を成せず。我れは常に勤行せし故に、すでに菩提を成ぜり。楞厳経に云く、阿難は一向に多聞にして、いまだ道力を成せず。円覚経に云く、末世の衆生道を成ずる事をねがへども、悟をばもとめずして、たゞ多聞をのみこのみて、我見を增長すと云云。有る人の云く、多聞をきらふ事は、たゞ文字語句のみを記持して、義理をしらざる人のことなりと云云。かやうに申す人は、いまだ義理語句のわけめをしらざるなり。楞伽経に云く、菩提を成ぜんと思はゞ多聞の人に親近すべし。多聞とは語に達するをばいはず、義に達するをいふなり。義とは心縁の相をはなれ、言説の相をはなれたりと云云。つねさまの人の義理と思へる事は亦是れ言句なり。
書き下し
問本分の大智は人々具足すといへども、無始よりこのかたいまだ現前せざることは愚癡にさへられたる故なり。今又智慧を捨て愚癡にかへらば、大智の現前せざること亦もとのごとくなるべし。 答世間の吉凶を自らわきまへざる人は、陰陽師なんどに尋ね問ふて、其の語を信ずれば、今は其のいろめも見へね共、時節到來して、つひには吉凶の效をみるがごとし。甚深の法門を聞て、やがて自ら悟ることかなはぬ人は、しばらく佛語を信ずるを仰信となづけ、聖敎量ともいへり。學解を道の障といへる事は禪門に始めて申すにあらず。諸經の中に明文あり。法華經云く我れと阿難と、空王佛の所において同時に菩提心を發しき阿難は、常に多聞をねがふ故にいまだ菩提を成せず。我れは常に勤行せし故に、すでに菩提を成ぜり。楞嚴經に云く、阿難は一向に多聞にして、いまだ道力を成せず。圓覺經に云く、末世の衆生道を成ずる事をねがへども、悟をばもとめずして、たゞ多聞をのみこのみて、我見を增長すと云云。有る人の云く、多聞をきらふ事は、たゞ文字語句のみを記持して、義理をしらざる人のことなりと云云。かやうに申す人は、いまだ義理語句のわけめをしらざるなり。楞伽經に云く、菩提を成ぜんと思はゞ多聞の人に親近すべし。多聞とは語に達するをばいはず、義に達するをいふなり。義とは心緣の相をはなれ、言說の相をはなれたりと云云。つねさまの人の義理と思へる事は亦是れ言句なり。
現代語訳
問:本分の大智は人それぞれに具わっているが、始めのない昔からまだ現れないのは、愚癡に妨げられているからである。今また智慧を捨てて愚癡に帰るなら、大智が現れないことは元のとおりであろう。 答:世間の吉凶を自分で見分けられない人が、陰陽師などに尋ねてその言葉を信じていると、今はその兆しも見えなくても、時節が到来して、ついに吉凶の験を見るようなものである。甚だ深い法門を聞いて、すぐには自分で悟ることができない人は、しばらく仏の言葉を信じる。これを仰信と名づけ、また聖教量ともいう。学解を道の妨げとすることは、禅門が始めて言うのではない。諸経の中に明文がある。法華経に言う。私と阿難は、空王仏のもとで同時に菩提心を起こした。阿難は常に多聞を願ったためにまだ菩提を成就せず、私は常に勤行したためにすでに菩提を成就した、と。楞厳経に言う。阿難はひたすら多聞であるが、まだ道力を成就していない、と。円覚経に言う。末世の衆生は道を成就することを願うが、悟りを求めず、ただ多聞ばかりを好んで我見を増長させる、と。ある人は言う。多聞を嫌うのは、ただ文字語句だけを記憶して、義理を知らない人のことである、と。このように言う人は、まだ義理と語句の区別を知らないのである。楞伽経に言う。菩提を成就しようと思うなら、多聞の人に親しみ近づけ、と。多聞とは、語に通じることをいうのではなく、義に通じることをいう。義とは、心で縁じる相を離れ、言説の相を離れたものである、と。ふつうの人が義理と思っているものも、また言句である。
解説

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