夢中問答集 / 『夢中問答集』褒め貶しも手段のひとつ
問古人の機緣問答の中にも、たがひに褒貶の語あり、何ぞ學者のひはんをきらふや。 答宗師のたがひに褒貶する事は亦是れ小玉をよぶ手段なり、これは抑揚褒貶となづく人情我執の上において論量するには同じからず、永嘉大師の云く、或は是、或は非人しらず逆行順行天もはかりがたし。
新字:問古人の機縁問答の中にも、たがひに褒貶の語あり、何ぞ学者のひはんをきらふや。 答宗師のたがひに褒貶する事は亦是れ小玉をよぶ手段なり、これは抑揚褒貶となづく人情我執の上において論量するには同じからず、永嘉大師の云く、或は是、或は非人しらず逆行順行天もはかりがたし。
書き下し
問古人の機緣問答の中にも、たがひに褒貶の語あり、何ぞ學者のひはんをきらふや。 答宗師のたがひに褒貶する事は亦是れ小玉をよぶ手段なり、これは抑揚褒貶となづく人情我執の上において論量するには同じからず、永嘉大師の云く、或は是、或は非人しらず逆行順行天もはかりがたし。
現代語訳
問:古人の機縁問答の中にも、互いに褒めたり貶したりする言葉がある。それなのに、なぜ学ぶ者が人を批評することを嫌うのか。 答:宗師が互いに褒めたり貶したりすることも、また小玉を呼ぶ手段である。これは抑揚褒貶と呼ぶもので、人情や我執の上で論じ量るのとは同じではない。永嘉大師はいう。あるいは是であり、あるいは非である。人は知らない。逆に行き、順に行くことは、天もはかりがたい、と。
解説
弟子が、昔の祖師たちも互いに褒めたり貶したりしているではないかと問い、それなら学ぶ者が批評するのも許されるはずだ、と迫る場面です。夢窓の答えは短く、宗師の褒貶は人情や我執からの評価とは次元が違い、相手を悟らせる手段だというものです。永嘉大師の言葉は、その働きを人のはかりでは測れないと言っています。職場で誰かの叱責や称賛を見るとき、表面の言葉だけで是非を決めず、何のために出された言葉かを考えてみる、という態度を促す一節です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
抑揚褒貶小玉をよぶ機縁問答永嘉大師逆行順行
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夢中問答集・『夢中問答集』如来の説法も小玉をよぶ問如來一代の說法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禪門の眼にて見る時は一代の所說も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と說き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虛妄と明かし、或は諸法實相と演ぶ、或は一切の文字は佛法にあらずとしめし、或は言說皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如來の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを佛意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて佛の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如來は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所說なし有る時は無相と說き給ふことは、實際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歷然たりと說き給ふことは、隨緣の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、佛の一法門を信じて偏執に墮ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦佛の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ處について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは氣のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定說なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世經に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禪の眼にて見れば敎法も亦禪の宗旨なり、敎の眼にて見れば禪の宗旨も、又敎法とことならず、敎禪の差別のみにあらず佛法世法の差別も、又かくのごとし。佛法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆佛法なり世間の情を出脫せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。