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夢中問答集 / 『夢中問答集』念仏は末代の唯一の道か

問淨土宗を信ずる人のいはく、末代の人は大乘を修行すとも、悟證あるべからず、しかれば先づ念佛の行を修して、淨土に生れて後大乘に入るべし、或はいはく上代末世を論ぜず、諸宗の中には念佛の法門最上なり、其の故は罪惡の衆生をもきらはず、愚癡の凡夫をもすてずたゞ名號を唱ふれば淨土に往生して、やがて正覺を成すこの故に、これを易行門となづけたり、超世の願ともいへり、しかれば難行門を修する人はいたづらごとなりと云云。かやうの法門其の謂れありや。 答念佛の法門を立らるゝ人も釋尊の說をうけ玉へり、諸の大乘經は釋尊の說にあらずや、諸の大乘經の中には未來末世に大乘を修せん者のためと說かれたり、末代の衆生は大乘を行ずべからず、たゞ念佛の行を修すべしと說かれたる大乘經はすべてなし、但し人の根性まち〱なれば、大乘の宿熏なき故に念佛の法門を信ずる事をばそしるべからず、かゝる機根のために如來此の一行を說き玉へり、たま〱前世の宿習によりて、大乘を學する人の中に大乘の法門にまかせて行ずれ共、たゞ妄念のみ起りて眞心は發せず、かくて一期をすごしなば當來の惡報のがれがたし。然れば他力本願をたのみて西方淨土を願ふべしといふ人あり、かやうの人は大乘の法門を學しながら、いまだ大乘の題目をだにしらざる人なり。惡趣の外に淨土をねがひ自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆な是了義大乘の題目にあらず、若し此の題目を信ずる人はいまだ分明に悟りて、開くことなくとも妄念の起るによりて退屈すべからず。いはんや惡趣淨土を論じ、自力他力をわかたんや、惡趣淨土の差別は一念の上にうかべる假相なり、圓覺經に云く、一切の佛世界も空花のごとしと云云。たゞ大乘の題目を信じて行住坐臥わすれずば、やがて悟りを開くことなくとも惡趣に墮する事あるべからず、たとひ前業は重く行力はよはき人、一旦惡趣に入れども大乘の信解くちせぬ故に、やがて其の中より解脫を得べし、龍女は畜生道に墮ちしかとも八歲の時、卽身成佛しきこれ其の證據なり、阿闍世王今生に父を殺して逆罪をつくりしかとも涅槃會上に到りて果を證せり、佛阿闍世に告て言はく汝と我れと毘婆尸佛の時、同時に大乘心を發しき、然れども汝は懈怠にして修行せず、是の故にいまにいたるまで佛道を成せず、しかれども大乘の信力のくちせぬ故に毘婆尸佛よりこのかたついに惡趣に生ぜず、國王大臣の家に生れたり、其の宿習開發せる故に今生逆罪をつくるといへども、今我れにあふて證果せりと云云。經に云く、大乘をそしりて地獄におちたるは百千の塔婆を造立するにはまされり、たとへば人の地に因つて倒れて地に因つて起るがごとしと云云。此の文の意は大乘を謗ずる罪によりて、一旦地獄に入れども大乘を聞きつる緣によりてついに解脫を得る謂れなり。何かに況んや大乘の題をわすれずして形のごとくも行ぜん、人をや大乘の題目は、凡聖もへだてなしといへることを信ずれども、いまだ分明に此の理をさとらざる人のために、種々の行をあかせり。行相は種々なりといへ共、小乘の修行の生死の外に涅槃をもとめ、權敎の修行の妄心の外に眞心をもとむるには同じからず、無修にして修し無證にして證すといへるは、此の意なり、大乘の題をばわすれずして、其の中に經をよみ呪を誦し、佛の名號を唱ふる事は妨げあるべからず、無明妄想にばかされて大乘は難行なり、他力をたのむべしといふ、人をば大乘を學したる人と申すべからずしかるを、我れは大乘の法門を學得したれ共、これは難行なれば念佛の行を修すべしといへるは、誹謗大乘の人なり、大乘の法門をしらねばたゞ念佛の行を修すといはればさもありぬべし。或は云念佛の法門は罪惡をもきらはず、愚癡をもすてず、たゞ名號を唱ふれば淨土に生れてやがて成佛す、この故に最上の法門なり、餘宗の法門は皆難行門なるが故に、下劣なりと申す人あり、若まことに罪惡愚癡の人もたゞ彌陀の名號を唱ふれば、やがて正覺を成ずることならば、末代下根の衆生ばかりに相應せる法門にはあるべからず、上代上根の人のためも難行の法門を說くことは枝葉あるべし。しかるに釋尊一代の說法多くはこれ淨土宗よりきらはるゝ難行門の說なり、其中に念佛往生のことを說ける經はすくなし、正しく淨土の行門を說けることは淨土の三部經のみなり、如來は無智にしてかやうに枝葉の法門を多く說き玉へるならんや。

新字:問浄土宗を信ずる人のいはく、末代の人は大乗を修行すとも、悟証あるべからず、しかれば先づ念仏の行を修して、浄土に生れて後大乗に入るべし、或はいはく上代末世を論ぜず、諸宗の中には念仏の法門最上なり、其の故は罪悪の衆生をもきらはず、愚痴の凡夫をもすてずたゞ名号を唱ふれば浄土に往生して、やがて正覚を成すこの故に、これを易行門となづけたり、超世の願ともいへり、しかれば難行門を修する人はいたづらごとなりと云云。かやうの法門其の謂れありや。 答念仏の法門を立らるゝ人も釈尊の説をうけ玉へり、諸の大乗経は釈尊の説にあらずや、諸の大乗経の中には未来末世に大乗を修せん者のためと説かれたり、末代の衆生は大乗を行ずべからず、たゞ念仏の行を修すべしと説かれたる大乗経はすべてなし、但し人の根性まち〱なれば、大乗の宿熏なき故に念仏の法門を信ずる事をばそしるべからず、かゝる機根のために如来此の一行を説き玉へり、たま〱前世の宿習によりて、大乗を学する人の中に大乗の法門にまかせて行ずれ共、たゞ妄念のみ起りて真心は発せず、かくて一期をすごしなば当来の悪報のがれがたし。然れば他力本願をたのみて西方浄土を願ふべしといふ人あり、かやうの人は大乗の法門を学しながら、いまだ大乗の題目をだにしらざる人なり。悪趣の外に浄土をねがひ自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆な是了義大乗の題目にあらず、若し此の題目を信ずる人はいまだ分明に悟りて、開くことなくとも妄念の起るによりて退屈すべからず。いはんや悪趣浄土を論じ、自力他力をわかたんや、悪趣浄土の差別は一念の上にうかべる仮相なり、円覚経に云く、一切の仏世界も空花のごとしと云云。たゞ大乗の題目を信じて行住坐臥わすれずば、やがて悟りを開くことなくとも悪趣に堕する事あるべからず、たとひ前業は重く行力はよはき人、一旦悪趣に入れども大乗の信解くちせぬ故に、やがて其の中より解脱を得べし、竜女は畜生道に堕ちしかとも八歳の時、即身成仏しきこれ其の証拠なり、阿闍世王今生に父を殺して逆罪をつくりしかとも涅槃会上に到りて果を証せり、仏阿闍世に告て言はく汝と我れと毘婆尸仏の時、同時に大乗心を発しき、然れども汝は懈怠にして修行せず、是の故にいまにいたるまで仏道を成せず、しかれども大乗の信力のくちせぬ故に毘婆尸仏よりこのかたついに悪趣に生ぜず、国王大臣の家に生れたり、其の宿習開発せる故に今生逆罪をつくるといへども、今我れにあふて証果せりと云云。経に云く、大乗をそしりて地獄におちたるは百千の塔婆を造立するにはまされり、たとへば人の地に因つて倒れて地に因つて起るがごとしと云云。此の文の意は大乗を謗ずる罪によりて、一旦地獄に入れども大乗を聞きつる縁によりてついに解脱を得る謂れなり。何かに況んや大乗の題をわすれずして形のごとくも行ぜん、人をや大乗の題目は、凡聖もへだてなしといへることを信ずれども、いまだ分明に此の理をさとらざる人のために、種々の行をあかせり。行相は種々なりといへ共、小乗の修行の生死の外に涅槃をもとめ、権教の修行の妄心の外に真心をもとむるには同じからず、無修にして修し無証にして証すといへるは、此の意なり、大乗の題をばわすれずして、其の中に経をよみ呪を誦し、仏の名号を唱ふる事は妨げあるべからず、無明妄想にばかされて大乗は難行なり、他力をたのむべしといふ、人をば大乗を学したる人と申すべからずしかるを、我れは大乗の法門を学得したれ共、これは難行なれば念仏の行を修すべしといへるは、誹謗大乗の人なり、大乗の法門をしらねばたゞ念仏の行を修すといはればさもありぬべし。或は云念仏の法門は罪悪をもきらはず、愚痴をもすてず、たゞ名号を唱ふれば浄土に生れてやがて成仏す、この故に最上の法門なり、余宗の法門は皆難行門なるが故に、下劣なりと申す人あり、若まことに罪悪愚痴の人もたゞ弥陀の名号を唱ふれば、やがて正覚を成ずることならば、末代下根の衆生ばかりに相応せる法門にはあるべからず、上代上根の人のためも難行の法門を説くことは枝葉あるべし。しかるに釈尊一代の説法多くはこれ浄土宗よりきらはるゝ難行門の説なり、其中に念仏往生のことを説ける経はすくなし、正しく浄土の行門を説けることは浄土の三部経のみなり、如来は無智にしてかやうに枝葉の法門を多く説き玉へるならんや。

書き下し

問淨土宗を信ずる人のいはく、末代の人は大乘を修行すとも、悟證あるべからず、しかれば先づ念佛の行を修して、淨土に生れて後大乘に入るべし、或はいはく上代末世を論ぜず、諸宗の中には念佛の法門最上なり、其の故は罪惡の衆生をもきらはず、愚癡の凡夫をもすてずたゞ名號を唱ふれば淨土に往生して、やがて正覺を成すこの故に、これを易行門となづけたり、超世の願ともいへり、しかれば難行門を修する人はいたづらごとなりと云云。かやうの法門其の謂れありや。 答念佛の法門を立らるゝ人も釋尊の說をうけ玉へり、諸の大乘經は釋尊の說にあらずや、諸の大乘經の中には未來末世に大乘を修せん者のためと說かれたり、末代の衆生は大乘を行ずべからず、たゞ念佛の行を修すべしと說かれたる大乘經はすべてなし、但し人の根性まち〱なれば、大乘の宿熏なき故に念佛の法門を信ずる事をばそしるべからず、かゝる機根のために如來此の一行を說き玉へり、たま〱前世の宿習によりて、大乘を學する人の中に大乘の法門にまかせて行ずれ共、たゞ妄念のみ起りて眞心は發せず、かくて一期をすごしなば當來の惡報のがれがたし。然れば他力本願をたのみて西方淨土を願ふべしといふ人あり、かやうの人は大乘の法門を學しながら、いまだ大乘の題目をだにしらざる人なり。惡趣の外に淨土をねがひ自力他力をわかち、難行易行を論ずるは、皆な是了義大乘の題目にあらず、若し此の題目を信ずる人はいまだ分明に悟りて、開くことなくとも妄念の起るによりて退屈すべからず。いはんや惡趣淨土を論じ、自力他力をわかたんや、惡趣淨土の差別は一念の上にうかべる假相なり、圓覺經に云く、一切の佛世界も空花のごとしと云云。たゞ大乘の題目を信じて行住坐臥わすれずば、やがて悟りを開くことなくとも惡趣に墮する事あるべからず、たとひ前業は重く行力はよはき人、一旦惡趣に入れども大乘の信解くちせぬ故に、やがて其の中より解脫を得べし、龍女は畜生道に墮ちしかとも八歲の時、卽身成佛しきこれ其の證據なり、阿闍世王今生に父を殺して逆罪をつくりしかとも涅槃會上に到りて果を證せり、佛阿闍世に告て言はく汝と我れと毘婆尸佛の時、同時に大乘心を發しき、然れども汝は懈怠にして修行せず、是の故にいまにいたるまで佛道を成せず、しかれども大乘の信力のくちせぬ故に毘婆尸佛よりこのかたついに惡趣に生ぜず、國王大臣の家に生れたり、其の宿習開發せる故に今生逆罪をつくるといへども、今我れにあふて證果せりと云云。經に云く、大乘をそしりて地獄におちたるは百千の塔婆を造立するにはまされり、たとへば人の地に因つて倒れて地に因つて起るがごとしと云云。此の文の意は大乘を謗ずる罪によりて、一旦地獄に入れども大乘を聞きつる緣によりてついに解脫を得る謂れなり。何かに況んや大乘の題をわすれずして形のごとくも行ぜん、人をや大乘の題目は、凡聖もへだてなしといへることを信ずれども、いまだ分明に此の理をさとらざる人のために、種々の行をあかせり。行相は種々なりといへ共、小乘の修行の生死の外に涅槃をもとめ、權敎の修行の妄心の外に眞心をもとむるには同じからず、無修にして修し無證にして證すといへるは、此の意なり、大乘の題をばわすれずして、其の中に經をよみ呪を誦し、佛の名號を唱ふる事は妨げあるべからず、無明妄想にばかされて大乘は難行なり、他力をたのむべしといふ、人をば大乘を學したる人と申すべからずしかるを、我れは大乘の法門を學得したれ共、これは難行なれば念佛の行を修すべしといへるは、誹謗大乘の人なり、大乘の法門をしらねばたゞ念佛の行を修すといはればさもありぬべし。或は云念佛の法門は罪惡をもきらはず、愚癡をもすてず、たゞ名號を唱ふれば淨土に生れてやがて成佛す、この故に最上の法門なり、餘宗の法門は皆難行門なるが故に、下劣なりと申す人あり、若まことに罪惡愚癡の人もたゞ彌陀の名號を唱ふれば、やがて正覺を成ずることならば、末代下根の衆生ばかりに相應せる法門にはあるべからず、上代上根の人のためも難行の法門を說くことは枝葉あるべし。しかるに釋尊一代の說法多くはこれ淨土宗よりきらはるゝ難行門の說なり、其中に念佛往生のことを說ける經はすくなし、正しく淨土の行門を說けることは淨土の三部經のみなり、如來は無智にしてかやうに枝葉の法門を多く說き玉へるならんや。

現代語訳

問:浄土宗を信じる人は言う。末代の人は大乗を修行しても悟りを得ることはできない。だからまず念仏の行を修めて、浄土に生まれた後に大乗に入るべきである。あるいは言う。上代・末世を問わず、諸宗の中で念仏の法門が最上である。その理由は、罪や悪を犯した衆生をも嫌わず、愚かな凡夫をも見捨てず、ただ名号を唱えれば浄土に往生して、やがて正覚を成すからである。このため、これを易行門と名づけ、世を超える願とも言う。したがって難行門を修める人は無駄なことをしている、と。このような説には、道理があるのか。 答:念仏の法門を立てる人も、釈尊の説を受けている。諸々の大乗経は釈尊の説ではないか。諸々の大乗経には、未来の末世に大乗を修める者のためにと説かれている。末代の衆生は大乗を行じてはならず、ただ念仏の行を修めよと説かれた大乗経はまったくない。ただし人の素質はさまざまであるから、大乗の宿習のない人が念仏の法門を信じることを謗ってはならない。そうした素質の人のために、如来はこの一行を説かれた。たまたま前世の宿習によって大乗を学ぶ人の中に、大乗の法門のとおりに修行しても、ただ妄念ばかりが起こって真心が発しない。このまま一生を過ごしたら、来世の悪い報いは免れがたい。それなら他力本願を頼んで西方浄土を願うべきだ、と言う人がいる。このような人は、大乗の法門を学びながら、まだ大乗の題目すら知らない人である。悪趣のほかに浄土を願い、自力と他力を分け、難行と易行を論じるのは、すべて了義大乗の題目ではない。もしこの題目を信じる人は、まだはっきり悟って開くことがなくても、妄念が起こるからといって退屈してはならない。まして悪趣と浄土を論じ、自力と他力を分けたりしない。悪趣と浄土の差別は、一念の上に浮かぶ仮の相である。円覚経にいう。一切の仏の世界も空中の花のようである、と。 ただ大乗の題目を信じて、行住坐臥に忘れなければ、悟りを開かないまでも、悪趣に堕ちることはない。たとえ前世の業が重く、行の力が弱い人が一旦悪趣に入っても、大乗を信じ理解する心が朽ちないので、やがてその中から解脱を得る。竜女は畜生道に堕ちたが、八歳の時に即身成仏した。これがその証拠である。阿闍世王は今生で父を殺して逆罪を犯したが、涅槃の会座に至って果を証した。仏は阿闍世に告げられた。あなたと私は毘婆尸仏の時、同じ時に大乗の心を発した。けれどもあなたは怠けて修行しなかった。そのため今に至るまで仏道を成就していない。それでも大乗を信じる力が朽ちなかったので、毘婆尸仏の時以来、ついに悪趣に生まれず、国王や大臣の家に生まれた。その宿習が開発したために、今生で逆罪を犯したが、今私に会って果を証したのだ、と。経にいう。大乗を謗って地獄に堕ちるのは、百千の塔を造り立てるよりも優れている。たとえば、人が地によって倒れ、地によって起き上がるようなものだ、と。この文の意味は、大乗を謗る罪によって一旦地獄に入っても、大乗を聞いた縁によってついに解脱を得る、ということである。まして、大乗の題目を忘れず、形だけでも修行する人はなおさらである。 大乗の題目は、凡夫と聖者に隔てがないということを信じていても、まだこの理をはっきり悟っていない人のために、種々の行を説いたのである。行の相は種々であるが、小乗の修行が生死のほかに涅槃を求め、権教の修行が妄心のほかに真心を求めるのとは同じでない。修することなくして修し、証することなくして証す、というのはこの意味である。大乗の題目を忘れずに、その中で経を読み、呪を誦し、仏の名号を唱えることに、妨げはない。無明妄想にだまされて、大乗は難行だから他力を頼むべきだと言う人を、大乗を学んだ人と言ってはならない。ところが、自分は大乗の法門を学び得たが、これは難行だから念仏の行を修めると言うなら、それは大乗を誹謗する人である。大乗の法門を知らないために、ただ念仏の行を修めると言うのならば、それも道理であろう。 あるいはこう言う。念仏の法門は罪や悪をも嫌わず、愚かさをも見捨てず、ただ名号を唱えれば浄土に生まれてやがて成仏する。だから最上の法門であり、他宗の法門はみな難行門であるから下劣だ、と。もし本当に、罪や悪、愚かな人でも、ただ阿弥陀の名号を唱えればやがて正覚を成じるのなら、それは末代の下根の衆生だけに合った法門ではないはずである。上代の上根の人のためにも、難行の法門を説くのは無駄な枝葉になってしまう。ところが釈尊一代の説法は、多くが浄土宗から嫌われる難行門の説である。その中で念仏往生を説く経は少ない。正面から浄土の行門を説いたのは、浄土の三部経だけである。如来は無智で、このように無駄な枝葉の法門を多く説かれたというのだろうか。

解説

念仏の易行門を最上とする説に対し、夢窓は正面から否定するのではなく、素質の違う人のために如来が説いた一行であると認めます。そのうえで、了義大乗の立場から、悪趣と浄土を分け、自力と他力を分けること自体が仮の相だと説きます。竜女や阿闍世王の例は、大乗を信じる力は朽ちないという主張を支えています。鋭い指摘は、念仏だけが最上なら、釈尊が他の法門を多く説いたのは無駄になるという矛盾です。仕事でも、一つの手法を万能と言い切る人の主張には、同じ矛盾が潜んでいることがあります。
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この章句が説くこと

念仏易行門他力了義大乗竜女阿闍世王

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