夢中問答集 / 『夢中問答集』如来の説法も小玉をよぶ
問如來一代の說法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禪門の眼にて見る時は一代の所說も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と說き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虛妄と明かし、或は諸法實相と演ぶ、或は一切の文字は佛法にあらずとしめし、或は言說皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如來の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを佛意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて佛の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如來は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所說なし有る時は無相と說き給ふことは、實際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歷然たりと說き給ふことは、隨緣の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、佛の一法門を信じて偏執に墮ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦佛の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ處について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは氣のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定說なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世經に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禪の眼にて見れば敎法も亦禪の宗旨なり、敎の眼にて見れば禪の宗旨も、又敎法とことならず、敎禪の差別のみにあらず佛法世法の差別も、又かくのごとし。佛法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆佛法なり世間の情を出脫せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。
新字:問如来一代の説法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禅門の眼にて見る時は一代の所説も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と説き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虚妄と明かし、或は諸法実相と演ぶ、或は一切の文字は仏法にあらずとしめし、或は言説皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如来の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを仏意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて仏の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如来は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所説なし有る時は無相と説き給ふことは、実際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歴然たりと説き給ふことは、随縁の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、仏の一法門を信じて偏執に堕ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦仏の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ処について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは気のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定説なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世経に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禅の眼にて見れば教法も亦禅の宗旨なり、教の眼にて見れば禅の宗旨も、又教法とことならず、教禅の差別のみにあらず仏法世法の差別も、又かくのごとし。仏法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆仏法なり世間の情を出脱せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。
書き下し
問如來一代の說法の時も、かやうの手段をほどこし給ふことありや。 答禪門の眼にて見る時は一代の所說も、皆是れ小玉をよぶ手段なり、有る時は諸法無常と說き、有る時は諸法常住と談ず、或は諸法皆是虛妄と明かし、或は諸法實相と演ぶ、或は一切の文字は佛法にあらずとしめし、或は言說皆是れ法身なりと言へり、かやうの種々の法門は、皆是れ小玉をよびて有る時は障子をあけよといひ、有る時はたてよといへるがごとし。如來の本意はかやうの言句の上にあるにあらず、しかるを佛意をしらざる人其の言句の義理をとりて我が妄情にかなへる言を信じて佛の本意なりと思へり、小玉をよぶ言について障子をたてよといふこそ、此の女人の本意よあけよといふこそ本意よと、論せんがごとし。或は云く、如來は法に定相なきことを悟り給へる故に、一定の所說なし有る時は無相と說き給ふことは、實際の理地に一塵も立せざる謂れなり、有る時は諸相歷然たりと說き給ふことは、隨緣の事門に十界の依正ある事を示し給ふ故なり云云。かやうに心をやる人は、佛の一法門を信じて偏執に墮ちたる人よりも勝れたりといへども、是も亦佛の本意を知らざる人なり、小玉をよぶ處について推量をめぐらして、障子をたてよといふは風をおそるゝ故なり、あけよといふは氣のこもりたるを散ぜんためなり。是故に定說なし一槪を信ずべからずといはんがごとしかやうに料簡するも女人の本意をばしらぬ故なり、起世經に云く火神の水に入る時は水も火となり、水神の火に入る時は火も水となると云云。法門も又かくのごとし禪の眼にて見れば敎法も亦禪の宗旨なり、敎の眼にて見れば禪の宗旨も、又敎法とことならず、敎禪の差別のみにあらず佛法世法の差別も、又かくのごとし。佛法の慧解ひらけぬれば、世間の相も皆佛法なり世間の情を出脫せぬ時は甚深の妙理と心得たるも皆是れ世法なり。
現代語訳
問:如来が一代にわたって法を説かれたときにも、このような手段を用いられたことがあるか。 答:禅門の眼で見るとき、一代の説法もみな、小玉を呼ぶ手段である。ある時は諸法は無常と説き、ある時は諸法は常住と述べる。あるいは諸法はみな虚妄だと明かし、あるいは諸法は実相だと述べる。あるいは一切の文字は仏法ではないと示し、あるいは言葉による説はみな法身だと言う。こうした種々の法門は、小玉を呼んで、ある時は障子を開けよと言い、ある時は閉めよと言うのと同じである。如来の本意はこうした言葉の上にあるのではない。それなのに仏意を知らない人は、その言葉の道理を取って、自分の妄想に合う言葉を信じ、それが仏の本意だと思っている。小玉を呼ぶ言葉について、障子を閉めよと言うのがこの女の本意だ、いや開けよと言うのが本意だ、と論じるようなものである。 あるいはこういう者もいる。如来は法に定まった相がないことを悟られたので、決まった説がない。ある時は無相と説かれたのは、真実の理の地に塵ひとつ立たない道理であり、ある時は諸相がはっきりしていると説かれたのは、縁に随う事の門に十界の依正があることを示すためである、と。このように考える人は、仏の一つの法門だけを信じて偏った執着に落ちた人よりは優れているが、これもまた仏の本意を知らない人である。小玉を呼ぶことについて推量をめぐらし、障子を閉めよと言うのは風を恐れるからで、開けよと言うのは籠もった気を散らすためだ、だから定まった説はなく、一概に信じてはならない、と言うようなものだ。こう考えるのも、女の本意を知らないからである。 起世経にいう。火の神が水に入るとき、水も火になる。水の神が火に入るとき、火も水になる、と。法門もこれと同じである。禅の眼で見れば、教えの法も禅の宗旨である。教えの眼で見れば、禅の宗旨も教えの法と異ならない。教えと禅の差別だけでなく、仏法と世間の法の差別もこれと同じである。仏法の智慧が開ければ、世間の相もみな仏法である。世間の情を脱していないうちは、深い妙理と心得ているものも、みな世間の法である。
解説

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