夢中問答集 / 『夢中問答集』五家の分かれと得法
問禪門に五家とて、宗派のわかれたることは、得法にあまたの階のあるやらん。 答得法に階のあまたある故に、五家のわかれたるにはあらず。學者をして本分にいらしめんとす手段のかはれる故なり、敎家の法門の面々の所解のかはれる故に所談の宗旨も、又ことなるには同じからず、禪門には直下に本分の田地に契當するを得法となづく。佛祖の法門を解了するを得法と申すにはあらず。是の故に人にしめす言句も解了の上の法門にはあらず、學者をして直下に悟らしめんとする手段なり、有る時は理致をとき、有る時は機關をしめす、皆な是れ情識の所解にあらず、これを祖師の關と名けたり、大慧禪師の云くたとひ實悟實證あれ共、若しいまだ大法をあきらめざる人は、自證自悟の處を說きて人にしめす故に人の眼をくらますと云云。これを以て知るべし、明眼の宗師のしめす所は自證自悟の處にあらざることを、昔官人ありて、五祖の演和尙に參じて禪門の宗風を問ひたてまつる、五祖の云く、吾が家の宗風は情識の解了すべきことにはあらず。然れ共小艶の詩に云く、一段の風光は畫くとも成せず洞房深處に愁情をのぶ頻りに小玉をよぶ、元より事なし、たゞ檀郎が聲を認得せんことを要す、此の詩の意によせて大槪をしるべしと云云。此の詩は是れ女人の作なり、檀郎とは此の女人の忍びて申しかよはせる男なり、有る時彼の男此の女人のすみける洞房の邊に來りてあそびけり、此の時女人は此の洞房の內にありとしらせたく思へども、外聞もつゝましく覺ゆる程にめしつかふ小玉をしきりによびて障子あけよ、簾おろせなんどいへども、其の意すべてかやうの用事にはあらず、たゞ偏に彼の男の此の聲を聞きつけて、此の女房は此の內にありけりと、しらんことを要するなり、五家の宗風も亦かくのごとし。皆な是れ小玉をよぶ手段の其の言句體裁のかはれるについて勝劣得失を批判するは、宗師の本意を知らざる人なり。
新字:問禅門に五家とて、宗派のわかれたることは、得法にあまたの階のあるやらん。 答得法に階のあまたある故に、五家のわかれたるにはあらず。学者をして本分にいらしめんとす手段のかはれる故なり、教家の法門の面々の所解のかはれる故に所談の宗旨も、又ことなるには同じからず、禅門には直下に本分の田地に契当するを得法となづく。仏祖の法門を解了するを得法と申すにはあらず。是の故に人にしめす言句も解了の上の法門にはあらず、学者をして直下に悟らしめんとする手段なり、有る時は理致をとき、有る時は機関をしめす、皆な是れ情識の所解にあらず、これを祖師の関と名けたり、大慧禅師の云くたとひ実悟実証あれ共、若しいまだ大法をあきらめざる人は、自証自悟の処を説きて人にしめす故に人の眼をくらますと云云。これを以て知るべし、明眼の宗師のしめす所は自証自悟の処にあらざることを、昔官人ありて、五祖の演和尚に参じて禅門の宗風を問ひたてまつる、五祖の云く、吾が家の宗風は情識の解了すべきことにはあらず。然れ共小艶の詩に云く、一段の風光は画くとも成せず洞房深処に愁情をのぶ頻りに小玉をよぶ、元より事なし、たゞ檀郎が声を認得せんことを要す、此の詩の意によせて大槪をしるべしと云云。此の詩は是れ女人の作なり、檀郎とは此の女人の忍びて申しかよはせる男なり、有る時彼の男此の女人のすみける洞房の辺に来りてあそびけり、此の時女人は此の洞房の内にありとしらせたく思へども、外聞もつゝましく覚ゆる程にめしつかふ小玉をしきりによびて障子あけよ、簾おろせなんどいへども、其の意すべてかやうの用事にはあらず、たゞ偏に彼の男の此の声を聞きつけて、此の女房は此の内にありけりと、しらんことを要するなり、五家の宗風も亦かくのごとし。皆な是れ小玉をよぶ手段の其の言句体裁のかはれるについて勝劣得失を批判するは、宗師の本意を知らざる人なり。
書き下し
問禪門に五家とて、宗派のわかれたることは、得法にあまたの階のあるやらん。 答得法に階のあまたある故に、五家のわかれたるにはあらず。學者をして本分にいらしめんとす手段のかはれる故なり、敎家の法門の面々の所解のかはれる故に所談の宗旨も、又ことなるには同じからず、禪門には直下に本分の田地に契當するを得法となづく。佛祖の法門を解了するを得法と申すにはあらず。是の故に人にしめす言句も解了の上の法門にはあらず、學者をして直下に悟らしめんとする手段なり、有る時は理致をとき、有る時は機關をしめす、皆な是れ情識の所解にあらず、これを祖師の關と名けたり、大慧禪師の云くたとひ實悟實證あれ共、若しいまだ大法をあきらめざる人は、自證自悟の處を說きて人にしめす故に人の眼をくらますと云云。これを以て知るべし、明眼の宗師のしめす所は自證自悟の處にあらざることを、昔官人ありて、五祖の演和尙に參じて禪門の宗風を問ひたてまつる、五祖の云く、吾が家の宗風は情識の解了すべきことにはあらず。然れ共小艶の詩に云く、一段の風光は畫くとも成せず洞房深處に愁情をのぶ頻りに小玉をよぶ、元より事なし、たゞ檀郎が聲を認得せんことを要す、此の詩の意によせて大槪をしるべしと云云。此の詩は是れ女人の作なり、檀郎とは此の女人の忍びて申しかよはせる男なり、有る時彼の男此の女人のすみける洞房の邊に來りてあそびけり、此の時女人は此の洞房の內にありとしらせたく思へども、外聞もつゝましく覺ゆる程にめしつかふ小玉をしきりによびて障子あけよ、簾おろせなんどいへども、其の意すべてかやうの用事にはあらず、たゞ偏に彼の男の此の聲を聞きつけて、此の女房は此の內にありけりと、しらんことを要するなり、五家の宗風も亦かくのごとし。皆な是れ小玉をよぶ手段の其の言句體裁のかはれるについて勝劣得失を批判するは、宗師の本意を知らざる人なり。
現代語訳
問:禅門に五家といって宗派が分かれているのは、悟りを得ることに多くの段階があるからか。 答:悟りを得ることに多くの段階があるから五家が分かれたのではない。学ぶ者を本分に入らせようとする手段が違うからである。教家で、人それぞれの理解が違うので説く宗旨も違うのとは同じでない。禅門では、直ちに本分の境地にぴたりと合うことを得法と呼ぶ。仏祖の法門を理解することを得法と言うのではない。だから人に示す言葉も、理解し終えた上での法門ではなく、学ぶ者に直ちに悟らせようとする手段である。ある時は道理を説き、ある時ははたらきの仕掛けを示す。みな分別の心で理解できるものではない。これを祖師の関門と名づけた。 大慧禅師はいう。たとえ本当に悟り、本当に証したことがあっても、まだ大法を明らかにしていない人は、自分が証し悟ったところを説いて人に示すので、かえって人の眼をくらます、と。これによって、眼の明らかな宗師が示すものは、自分が証し悟ったところではないと知るべきである。昔、ある役人が五祖法演和尚に参じて、禅門の宗風を尋ねた。五祖はいった。わが家の宗風は分別の心で理解できるものではない。けれども小艶の詩にいう。「一段の風光は描いても描ききれない。奥の間の深いところで愁いの情をのべ、しきりに小玉を呼ぶ。もとより用事はない。ただ檀郎の声を聞き分けてほしいだけだ」。この詩の心にあやかって、おおよそを知りなさい、と。この詩は女の作である。檀郎とは、この女がひそかに通じている男のことである。ある時その男が、女の住む奥の間のあたりに来て遊んでいた。女は、自分がこの奥の間にいることを知らせたいと思ったが、人聞きも気になるので、召し使う小玉をしきりに呼んで、障子を開けよ、簾を下ろせなどと言う。しかしその意図はこうした用事にはまったくなく、ひとえに男がこの声を聞きつけ、この女はこの中にいたのだと知ってくれることを求めているのである。五家の宗風もこれと同じである。みな小玉を呼ぶ手段であって、その言葉や様式の違いについて勝劣や得失を批評するのは、宗師の本意を知らない人である。
解説

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