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夢中問答集 / 『夢中問答集』禅と教えは同じか(下)

しかるを今時の學者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸敎の法門と勝劣を批判す、西來の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の邊り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感歎するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと來り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ傳へんと、いはゞなにとか彼に敎ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる處にありといはゞ、此の翁さては、我が年來見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、敎外別傳の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所爲にかはれるにもあらず、內典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は敎外別傳といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩惱をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒敎道敎を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は敎門の諸宗を解了して、敎外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禪門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日來の所見の處にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて內外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所爲は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ內外典の外に別傳をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に敎へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到來してかやうの清興の心に相應する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば卽ち人々具足すといへども相應せざる時は、所作所爲皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを內外典の言句を禪宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。

新字:しかるを今時の学者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸教の法門と勝劣を批判す、西来の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の辺り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感嘆するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと来り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ伝へんと、いはゞなにとか彼に教ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる処にありといはゞ、此の翁さては、我が年来見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、教外別伝の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所為にかはれるにもあらず、内典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は教外別伝といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩悩をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒教道教を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は教門の諸宗を解了して、教外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禅門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日来の所見の処にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて内外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所為は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ内外典の外に別伝をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に教へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到来してかやうの清興の心に相応する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば即ち人々具足すといへども相応せざる時は、所作所為皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを内外典の言句を禅宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。

書き下し

しかるを今時の學者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸敎の法門と勝劣を批判す、西來の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の邊り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感歎するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと來り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ傳へんと、いはゞなにとか彼に敎ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる處にありといはゞ、此の翁さては、我が年來見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、敎外別傳の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所爲にかはれるにもあらず、內典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は敎外別傳といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩惱をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒敎道敎を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は敎門の諸宗を解了して、敎外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禪門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日來の所見の處にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて內外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所爲は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ內外典の外に別傳をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に敎へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到來してかやうの清興の心に相應する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば卽ち人々具足すといへども相應せざる時は、所作所爲皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを內外典の言句を禪宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。

現代語訳

ところが今の学者は、この玄旨を悟らずに、宗師の差別の言葉を記憶して、五家の宗旨の得失をあれこれ論じ、諸教の法門との勝劣を批評している。それは祖師の心を見失うことである。私は昔、遊山のついでに、同行の僧七、八人を連れて、富士山のあたり、西の湖というところに行ったことがある。仙人の住む境に入ったようで、見るものすべてが目を驚かせた。その浦の漁師を雇って舟をこがせ、入江ごとにこぎ入れて見ると、まことに珍しい景勝の地であった。僧たちは感に堪えず、みな舷を叩いて声を上げて喜んだ。舟をこぐ老人は、幼い時からこの浦に住み、朝夕この景色を見てきたが、その中の清らかな興趣を知る心がない。僧たちが感嘆するのを見て、「何を見てそんなに騒いでおられるのか」と尋ねた。僧たちが「この山の景色、湖のありさまの面白さに感じ入っているのだ」と答えると、老人はますます腑に落ちない様子で、「これを見ようとしてわざわざ来られたのか」と言って、不思議がった。 私は僧たちに語った。この老人がもし、われわれが興を催すところを習い伝えたいと言ったら、何と教えたらよかろうか。もしこの山水の景色を指して、われわれが面白がるのはこういうところだと言えば、老人は「それは私が長年見尽くしてきたものだ、珍しくもない」と言うだろう。ではその思い違いを改めさせようとして、われわれの面白がるのはお前の見ているものとは違うのだ、と言えば、この西湖のほかに別に優れた名所があるから、自分の見方は嫌われたのだ、と思うだろう。教外別伝の宗旨もこれと同じである。一切衆生のすることと違うのでもなく、内典・外典の言葉や道理と異なるのでもない。それでもこの中に玄旨があることを知らない人は、教外別伝と聞いて種々の疑いを抱く。ある者は、三毒や煩悩をほしいままにして、このほかに玄旨はないと言う。ある者は、儒教や道教を習得して、祖師の玄旨と変わらないと思う。ある者は、教門の諸宗を理解して、教外の玄旨といって別にあるわけではないと言う。ある者は、禅門の五家の宗風を推し量って、これこそ祖師の玄旨だと言う。このような見解はみな、あの漁師が、僧たちの清興は自分が日ごろ見ているところにあるのだと心得たのと同じである。 こうした見解を捨てさせるために、宗師は手段を改めて、内典も外典の法門も玄旨ではなく、一切の所作はみな妄想だと示す。すると愚かな者はこれを聞いて、凡夫の日常のほかに玄旨を求め、内典・外典のほかに別伝を尋ねる。これはあの漁師が、西湖のほかに別の名所を求めるようなものである。僧たちが漁師と違っていたのは、見ている山林水石の優劣ではない。その中に清らかな興趣のあることを知っているか知らないかの違いである。この興趣は、人に教えて習わせられるものでも、取り出して人に見せられるものでもない。時節が到来して、そうした興趣に心が応じたとき、初めて自分で知るのである。本分の一段もまたこのとおり、自分で親しくこの境地に至って初めて知るものである。自分で知ることははっきりしていても、取り出して人に示すことはできない。人々にそなわっているといっても、それに応じないうちは、すべてのふるまいが輪廻の業となる。古人が全部是であり全部非であるというのは、この意味である。それなのに、内典・外典の言葉を禅宗の言葉と照らし合わせて同異や勝劣を批評するのは、まだ祖師の玄旨を悟っていないからである。

解説

富士の西の湖の舟遊びの話が、この問答の中心です。景色を見慣れた老いた漁師は、その美しさに気づけません。僧たちとの差は景色の優劣ではなく、そこに興趣を感じ取れるかどうかでした。夢窓は、玄旨は教えて習わせるものではなく、自ら親しくその境地に至って初めて知るものだと言います。さらに、日常の中にあると言っても、日常の外にあると言っても、どちらも的を外すという二重の注意が働いています。仕事でも、毎日見慣れた現場の価値に気づけるかどうかは、知識の量より、見る目の深さで決まるのかもしれません。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

西の湖漁翁清興玄旨本分自ら知る

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