夢中問答集 / 『夢中問答集』禅と教えは同じか(下)
しかるを今時の學者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸敎の法門と勝劣を批判す、西來の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の邊り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感歎するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと來り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ傳へんと、いはゞなにとか彼に敎ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる處にありといはゞ、此の翁さては、我が年來見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、敎外別傳の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所爲にかはれるにもあらず、內典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は敎外別傳といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩惱をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒敎道敎を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は敎門の諸宗を解了して、敎外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禪門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日來の所見の處にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて內外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所爲は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ內外典の外に別傳をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に敎へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到來してかやうの清興の心に相應する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば卽ち人々具足すといへども相應せざる時は、所作所爲皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを內外典の言句を禪宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。
新字:しかるを今時の学者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸教の法門と勝劣を批判す、西来の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の辺り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感嘆するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと来り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ伝へんと、いはゞなにとか彼に教ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる処にありといはゞ、此の翁さては、我が年来見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、教外別伝の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所為にかはれるにもあらず、内典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は教外別伝といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩悩をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒教道教を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は教門の諸宗を解了して、教外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禅門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日来の所見の処にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて内外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所為は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ内外典の外に別伝をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に教へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到来してかやうの清興の心に相応する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば即ち人々具足すといへども相応せざる時は、所作所為皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを内外典の言句を禅宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。
書き下し
しかるを今時の學者此の玄旨をば悟らずして宗師の差別の言句を記持して五家の宗旨について得失を商量し、諸敎の法門と勝劣を批判す、西來の祖意を失へるにあらず、予昔遊山の次でに同伴の僧七八人つれて富士山の邊り西の湖といふ所に到れり、神仙の境に入れるがごとし、物ごとに目をおどろかさずといふ事なし。其の浦の漁人をやとふて舟をこがせて入江入江にこぎ入れて見ればいやめづらしき勝地なり、僧達感にたへず一同舷をたゝきてどよみあへり、舟をこぐ老翁は幼少の時より此の浦にすみて、朝夕に此の景を見たれども・其中の清興をしれる情なし、僧達の感歎するを見て問ていはく何事を見てかやうにをめき給ふぞ、僧達答ていはく、此の山のけしき湖のありさまの面白き事を感ずるなり。此の翁いよ〱心得ずげなるけしきにて、これを見給はんとてわざと來り給へるかといふて不思議の思をなせり。予僧達にかたりて申すやう、此の翁若し我れ等が入興のところを習ひ傳へんと、いはゞなにとか彼に敎ふべきや。若し此の山水のけしきを指して、我れ等がおもしろきことは、かゝる處にありといはゞ、此の翁さては、我が年來見つくせる境界なり、めづらしからずといふべし。若し又此僻案をあらためんために我等がおもしろき事は、汝が所見にかはれりと、いはゞさては此西湖の外に別に勝れたる名所のある故に、我が所見をばきらふと思ぬべし、敎外別傳の宗旨も亦かくのごとし、一切衆生の所作所爲にかはれるにもあらず、內典外典の言句義理にことなるにもあらず、しかれ共此の中に玄旨ある事をしらざる人は敎外別傳といふを聞きて種々の疑あり。或は三毒煩惱をほしいまゝにして此の外に玄旨なしといふ者のあり、或は儒敎道敎を習ひ得て祖旨の玄旨にかはらずと思へる人あり。或は敎門の諸宗を解了して、敎外の玄旨とて別にある事なしといふ人もあり。或は禪門の五家の宗風を度量して、これを祖師の玄旨といふ人もあり。かやうの見解は皆な是れ彼の漁翁が僧達の清興は、我が日來の所見の處にありと心得たるがごとし、かやうの見解を捨てしめんために宗師手段をあらためて內外の法門も玄旨にあらず、一切の所作所爲は皆妄想なりとしめす時・愚人これを聞きて凡夫の日用のほかに玄旨をもとめ內外典の外に別傳をたづぬ。是れ彼の漁翁が西湖のほかに別の名所を求めんがごとし。僧達の漁翁にかはれる事は、其所見の山林水石の勝劣にはあらず、其の中に清興のある事を知ると知らざるとの差別なり、此の清興をば人に敎へ習はしむる者にもあらず、拈出して人に見せしむる者にもあらず、時節到來してかやうの清興の心に相應する時始めて自らしるべし。本分の一段も亦かくのごとし、自らしたしく此の田地に到つて始めて知るべし。自ら知ること分明なりといへども拈出して人に示すことあたはず。然らば卽ち人々具足すといへども相應せざる時は、所作所爲皆な是れ輪廻の業となれり。古人の全是全不是といへるは此の意なり、しかるを內外典の言句を禪宗の言句にとり合せて同異勝劣を批判するはいまだ祖師の玄旨をさとらざる故なり。
現代語訳
ところが今の学者は、この玄旨を悟らずに、宗師の差別の言葉を記憶して、五家の宗旨の得失をあれこれ論じ、諸教の法門との勝劣を批評している。それは祖師の心を見失うことである。私は昔、遊山のついでに、同行の僧七、八人を連れて、富士山のあたり、西の湖というところに行ったことがある。仙人の住む境に入ったようで、見るものすべてが目を驚かせた。その浦の漁師を雇って舟をこがせ、入江ごとにこぎ入れて見ると、まことに珍しい景勝の地であった。僧たちは感に堪えず、みな舷を叩いて声を上げて喜んだ。舟をこぐ老人は、幼い時からこの浦に住み、朝夕この景色を見てきたが、その中の清らかな興趣を知る心がない。僧たちが感嘆するのを見て、「何を見てそんなに騒いでおられるのか」と尋ねた。僧たちが「この山の景色、湖のありさまの面白さに感じ入っているのだ」と答えると、老人はますます腑に落ちない様子で、「これを見ようとしてわざわざ来られたのか」と言って、不思議がった。 私は僧たちに語った。この老人がもし、われわれが興を催すところを習い伝えたいと言ったら、何と教えたらよかろうか。もしこの山水の景色を指して、われわれが面白がるのはこういうところだと言えば、老人は「それは私が長年見尽くしてきたものだ、珍しくもない」と言うだろう。ではその思い違いを改めさせようとして、われわれの面白がるのはお前の見ているものとは違うのだ、と言えば、この西湖のほかに別に優れた名所があるから、自分の見方は嫌われたのだ、と思うだろう。教外別伝の宗旨もこれと同じである。一切衆生のすることと違うのでもなく、内典・外典の言葉や道理と異なるのでもない。それでもこの中に玄旨があることを知らない人は、教外別伝と聞いて種々の疑いを抱く。ある者は、三毒や煩悩をほしいままにして、このほかに玄旨はないと言う。ある者は、儒教や道教を習得して、祖師の玄旨と変わらないと思う。ある者は、教門の諸宗を理解して、教外の玄旨といって別にあるわけではないと言う。ある者は、禅門の五家の宗風を推し量って、これこそ祖師の玄旨だと言う。このような見解はみな、あの漁師が、僧たちの清興は自分が日ごろ見ているところにあるのだと心得たのと同じである。 こうした見解を捨てさせるために、宗師は手段を改めて、内典も外典の法門も玄旨ではなく、一切の所作はみな妄想だと示す。すると愚かな者はこれを聞いて、凡夫の日常のほかに玄旨を求め、内典・外典のほかに別伝を尋ねる。これはあの漁師が、西湖のほかに別の名所を求めるようなものである。僧たちが漁師と違っていたのは、見ている山林水石の優劣ではない。その中に清らかな興趣のあることを知っているか知らないかの違いである。この興趣は、人に教えて習わせられるものでも、取り出して人に見せられるものでもない。時節が到来して、そうした興趣に心が応じたとき、初めて自分で知るのである。本分の一段もまたこのとおり、自分で親しくこの境地に至って初めて知るものである。自分で知ることははっきりしていても、取り出して人に示すことはできない。人々にそなわっているといっても、それに応じないうちは、すべてのふるまいが輪廻の業となる。古人が全部是であり全部非であるというのは、この意味である。それなのに、内典・外典の言葉を禅宗の言葉と照らし合わせて同異や勝劣を批評するのは、まだ祖師の玄旨を悟っていないからである。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
夢中問答集・『夢中問答集』禅と教えは同じか(上)問敎の中にも佛の相もなく、衆生の相もなしと談ぜり、禪宗に生佛いまだわかれざる處といふに同じからずや。 答敎の中に凡聖の相なしと申すは、凡聖わかれたる處について、其の體性の無相なることを談ぜり。禪宗に生佛已前と申すは此の義にあらず、其の語の似たるを以て禪敎同とは申すべからず、たとへば人の面のやうをそらに語る時額の中に眉あり眉の下に眼あり眼の下に鼻あり鼻の下に口ありと申せば、貴賤男女みな同じ面なるやうに聞ゆれ共、若し實に其の面をみる時は、各ことなるがごとし、敎門には言句義理を以て法門とする故に、義理の分劑について大小權實を判せり、敎外別傳不立文字といへる題目を見ながら宗師の言句について敎禪の同意を論せばあたるべからず、今時の禪者の中に宗師の人に示さる言句の中に敎家の法門にかはりたる事のあるを見て、これを禪の勝れたる證據とす。若し敎の法門にかはりたる故に禪は勝れたりといはゞ禪にかはりたる故に敎をも勝れたりといふべし。然らば卽ち敎外別傳の宗旨何ぞ言句義理の同異にあづからんや、或は云く敎は皆な言句義理の上に談せり、言句義理にあづからざる處禪門の宗旨なりと云云。若ししからば敎の中に言句義理を立ざる法門あり、これを禪宗といはんや、或は敎者の中に敎外別傳不立文字といへども禪師の人にしめす言句多し不立文字といはんやと難する人あり、禪師の言句多しといへ共此の言句の義理を人に習學せしめんためにはあらず、ただ佛法の正理は言句の上にあらざる事をしめさんためなり、言句の上にあらずと申せばとて言語道斷の處を宗旨とするにもあらず、寂默沈空の所を指示するにもあらず、古人の云く達磨西來の別に一法の人のために傳授するなしたゞ人々具足し、箇々圓成する底を指出するのみなりと云云、旣に人々具足といへり、何ぞひとり禪者のみ具足して敎者にはかけたりといはんや、たゞ敎者禪者のみ圓成するにあらず。田夫野人の農業をはげむ所にもあり、鍛冶番匠の工巧をいとなむ所にもあり、要を取ていはゞ、一切衆生の所作所爲見聞覺知行住坐臥遊戯談論の所皆な悉く西來の玄旨にあらずといふ事なし、何にいはん佛の敎へに隨つて種々の善行を修する人をや。しかれども、此の玄旨あることを知らざる故に、世間の幻相はばかされて妄りに輪廻を受くる者多し。佛此の妄想をやめんために種々の法門を說き玉へば、又此の法門を執著して玄旨をくらませる人あり。是の故に祖師西來して、本分の一段を指出す、この心を以て心に傳ふる、敎外の玄旨となづく。敎外の玄旨とて諸敎にかはりたる一段の法門を相承するにはあらず、若し言句にて相承すべき法門ならばたゞ是れめづらしき敎法なるべし、敎外別傳とはいふべからず、六祖よりこのかた五家わかれて各の宗風を立つといへ共、亦同じく人々具足することを悟らしめんためなり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』教外別伝は思い込みか(一)問敎者の中に禪宗を難じて云く、佛說にもよらず、義理をもたゞさず、敎外別傳と號して、胸臆の說をほしいまゝにす信じ用ふるにたらずと云云、其の謂れあることやらん。 答かやうに申すことは、たゞ敎の文字を學して、敎の本意をしらざる人なり、若し佛の敎門を設け玉へる本意をしらばかならず、敎外別傳を信ずべし。これを眞實の敎者とは申すなり。楞伽經に云く、始め鹿野苑より終り、跋提河に至るまで、其の二中間においていまだかつて一字をもとかずと云云、若し此の經文によらば、一代の敎法とて實に有と執著すべしや、像法決疑經に云く、文のごとく義をとる者は、三世の諸佛のあだなりと云云。經論の文にまかせて義理を論ずる事、何ぞ佛意にかなはんや。圓覺經に云く、修多羅の敎は月をさすゆびの如しと云云。指を以て月をさす事は人をして、直に月を見せしめんためなりもし其の指に目をつけたる人は月をみる事あたはず、贍さへ其の指の長短を論じ大小を諍ふ、實に是れ迷ひ中の迷ひなり、古の敎家の先德は皆佛の本意を悟り玉へる故に、敎の指にかゝはらず、しかれ共中下の機根の直に月を見る事あたはざる者のために假りに敎の指を用ひ玉へり。然らば卽ち其本意をあらはさんために、法相の廢詮三論の聖默天台の妙旨花嚴の果分とて、諸宗に皆言說も及ばず、思慮も到らざる法門を立られたり、密宗には顯敎の無言無說と談ずるをば、猶是れ遮情の法門なりときらふて、其の上に如義言說を談ず。如義言說といへるは、有言無言の域を超出して、三世常恒に談ずる所の祕密不思議の言說なり、妄執言說等のごとく心得べきにあらず、是故に至極深祕の處には我れ本と言ある事なし、たゞ利益のために說くといへる經文あり、大日經の疏に云く、如來自證の境は觀る者も見ることなく、說く者も言なし、言語を以て人に授くべからず、傳敎大師の弘法大師の御もとへ、理趣釋を借り申させ玉ひける御返事に云、祕藏の奥旨は文字の傳ふるところにあらず、只是れ心を以て心に傳ふるのみなり、文字は是糟粕、文字は是れ瓦礫と云云。敎文の本意も文字語言の上にあらざること分明なり、敎外別傳といへること、何ぞ胸臆の說ならんや。傳敎大師內證佛法相承血脈の譜に云く、達磨大師付法相承師々の血脈一首天台法花宗の相承、師々の血脈一首天台圓頓菩薩戒の相承、師々の血脈一首胎藏金剛兩曼茶羅の相承、師々の血脈一首と云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』邪正を見分けるには問眞實に大悟せる人は、邪正に迷ふべからず、然ば天魔外道來りて種々の法門を說く共、誑惑せらるべからず、いまだ正悟を得ざる人は、いかでか邪正をもわかつべき、しかるに古の先達所談の法門も一致ならず、今時の知識のしめさるゝ修行用心も亦まち〱なり、初心の學者いかにしてか、其の邪正を辨すべきや。 答末代は邪說さかりにして、正法を亂る事多し、世間の相撲、競馬、圍碁、雙六なんとは、其の勝負のすがたをかねてより定め置きたる故に、これをたゞす事まぎれなし、所領の相論罪科の輕重ごときは、其の理非まことに決斷しがたき事ありといへ共、上裁を仰ぐ故についに落居せずといふ事なし、佛法にはかねてより定め置きたる勝負の體もなし、面々たゞ我が心得たるを本として、我が法門勝れたりと思へども、別人はこれをゆるさず、世間の沙汰のごとくならねば上裁とて仰ぐべき人もなし、面々の引くところの證文は、佛祖の言語なれども文は執見によりてかはることなれば、證據とするにたらず。各我が信ずる所の知識の印可を以て證明とす、それも緣者の證人なれば、信用にたらず、しかるを愚人、我が妄想の信を本として何に宗にても、先づ一法門を信じぬれば、餘宗をば皆これをきらふ、我が知識とて信じそめぬれば、餘人の法門は皆劣なりと思ふて、耳にも觸れんとする者あり、此れは是れ愚人の中の愚人なり、或は諸宗の法門もかはり、知識の示すことも同じからざる處に、自ら決斷することあたはず、茫然として浪にもつかず、磯にもつかぬ人あり。かやうの人はいづれも、いまだ敎外別傳の題目を信ぜざる者なり、たとひ悟りを開かず共、若しよく敎外の題目を信ずる人は、眞實の正法は言語の上にあらざる事を知れる故に、一師の言語を堅執してこれをのみ貴ぶこともあるべからず、諸師の言語のかはれるによりて、迷惑することもあるべからず、世間の食物其の味ひ一種にあらず、其の中に何をか本と定むべきや、人の天性まち〱なる故に甘き物をこのむ人もあり、辛き物を愛する人もあり、若し我がこのむ味を本として餘の味ひは、皆いたづらなりと言はゞ愚人なるべし、法門も亦かくのごとし、衆生の性欲同からざる故に我が心には、此の法門を貴しと思ふと、いはゞさもありぬべし、若し我が思ひの本として此の法門は正理なり、餘の法門は皆眞實にあらずと執せば是れ邪說なり、法花經に云く、有を破する法王、世に出て衆生の性欲に隨つて種々に說法すと云云。しるべし如來種々の法門は衆生迷倒の性欲に隨つてかりに說かれたる事なり。若し直に衆生と佛といまだわかれざる本分に向ふ人は、種々の法門を聞くとも、其の勝劣是非の中に心を勞せんや、古人の云く、佛一切の法を說くことは、一切の心を度せんがためなり。我れに一切の心なし何ぞ一切法を用やと云云。
-
夢中問答集・『夢中問答集』本分の題を忘れぬ修行問禪門には生佛以前を擧揚する故に、一心三密の觀行をも論ぜずと申すに、古來の禪宗の學者皆坐禪工夫をたしなみ、知識も亦修行用心の邪正をしめす事は何ぞや。 答詩をつくり歌をよむ人は、先づ其の題をよく心得べし。月の題をとりて花の事を案ぜばよろしからず。佛法も亦かくのごとし。禪宗に本分の事といへるは何の事ぞや。凡にありても減ぜず。聖にありても增せず。人々具足し、箇々圓成すといへり。此の本分の題をとりながら、我れは迷人なりと思ふて悟りをひらくべき修行を習はんとする人は本分の題にそむける人なり。たとひ詩歌の風情は心にうかばざれ共、月の題をとりたる人は花のことをば案せぬがごとく、本分の題を信ずる人、我れは迷人なりと執著して別に悟りを求むる事はあるべからず。しかれども、いまだ箇々圓成せる處を分明にうけがふことのなき程は、日來の迷悟を存し、凡聖をへだてつる妄情を放下して、或は自ら直下に參究し、或は知識に參ずさはあれども念佛を申して往生の行にあて、陀羅尼を誦して悉地をもとめ、乃至敎門の中にあかせる觀念をこらして、證理をまつには同じからず。かやうの人は本分の題をわすれぬ學者なり。古人悟道の機緣を見れば上代なりし故にや、直下に大悟することはなかりし人も、本分の題をば信ぜし故に本分にかなふべきため、工夫用心とて、人にたづね問へることはなし。たゞ直に問て云く、如何なるか是れ佛、如何なるか是れ禪、如何なるか是れ佛法的々の大意、如何なるか是れ祖師西來の意、如何なるか是れ諸佛出身の處と云云。學者の問もかやうに直問なり。知識の答も亦直答にして、或は卽信卽佛とこたへ、或は庭前柏樹子としめし。或は東山水上に行くといふ。宗師かやうに答ふる事、皆な是れ本分の直示なり。此の語を以て修行の資糧となさしめんためにはあらず。然れども學者若し鈍にして、知識の直示をあきらめざれば、彼のしめすところの話頭に額をついて、或は一兩日、或は一兩月、乃至五年十年も此の直示を參決せり其の間をば修行とも申しぬべし。されども敎家に解行證をたてゝ、諸の觀を修する用心には同じからず。敎外別傳といへる題目は此の謂れなり。今時の人多くは是れ此の題をわすれて、善知識にあふて修行用心をたづね問ふ知識たる人の中にも、學者のために修行用心をおしへらる。或は公案を人にあたふるも往生のために念佛を申し、悉地のために陀羅尼をみつるがごとく、此の公案を提撕して本分に到らしめんと思へり。この故に學者も各用心の體をかたりて勝劣をたくらへ、知識の言のかはれる處について是非を批判す。皆な是れ世俗の戯論なり。
-
夢中問答集・『夢中問答集』学解は優れど行いは凡夫問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。
-
夢中問答集・『夢中問答集』随他意と随自意の区別問如來の說法に二種あり、一には隨他意語佛の機に隨つてしめし玉へる方便の語なり、二には隨自意語佛の本意のごとく說き給へる語なり、禪門に小玉をよぶ手段といへるは、隨他意語にあたるにあらずや。 答如來の說敎については、是は隨他意是は隨自意と決定して談ずるは、敎門の施說なり、禪門の宗師の佛說を擧揚する時、或は是を隨他意說としめし、或は是を隨自意語といふ。皆是小玉をよぶ手段なり決定の說にあらず。然らば卽ち今日隨自意語といへる、佛說を明日は隨他意語といふこともあるべし。唯此兩語のみにあらず、淺略深祕乃至妄執言說如義言說等の法門も又かくのごとし。古人の云く禪門の宗旨は敎家の法門の一尺はつひに一尺、二尺はつひに二尺なるには同じからずと云云。釋迦如來我は敎者とも仰られず、禪者ともなのり給はず所說の法門においても是は敎の分なり、是は禪の分なりともわけられず、如來の內證は敎にもあらず、禪にもあらざる故なり、此內證不思議の應用機に隨つて敎禪の差異をなせり。經に云く、佛は一音を以て法を說き給へば衆生其の類に隨つて、各解することを得と云云。佛在世の時は其の解了ことなりといへ共禪僧敎僧とてわかれたる事はなかりき、佛滅後に始めて禪敎二門わかれて敎に顯密の諸宗あり、禪に五家の差別あり、其故は先づ各解の性欲に隨つて方便をたれて、如來の本分の宗旨をしらしめんために、如來の化儀を紹隆し玉ふ、大智高德の人、或は敎家の宗師となり、或は禪門の祖師となりて各一雙の手を出だして迷倒の偏執を破り、敎禪の兩岐を越えて本分の田地に到らしめんとす。然らば卽ち眞實の敎師の其の本意敎の內にあるにあらず、明眼の禪師其の本意禪の中にあるにあらず、しかれども面々所談のかはれることは皆是れ小玉をよぶ手段なるが故なり、末代に至りて禪けうの學者の中に偏執を先とする人は是非海の裏にしづみて佛祖の本意をくらませり、像法決疑經に云く文のごとく義をとるは三世諸佛のあだなりと云云、明眼の宗師は胸の中にかねてよりたくはへたる法門なし、只是れ機に當りて提持し口に信せて道著す、すべて定まれる窠窟なし若し人禪を問ふ時、或は孔孟老莊の言を以て答ふる事もあり、或は敎家所談の法門を以て答ふる時もあり、或は世俗の諺を以て答ふる事もあり、或は目前の境界をしめす時もあり、或は棒を行じ喝を下し指を擧げ拳をさゝぐ、皆是宗師の手段なり、これを禪門の活弄となづく、いまだ此の田地に到らざる者の情識を以て計度すべき事にあらず。