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夢中問答集 / 『夢中問答集』臨終の相と舎利(下)

其の時二人の菩薩あり。一人をば賢天となづく無生忍を得て、少欲少事にして獨住をこのみき。一人をば饒財となづく。頭陀の行をこのみて賢天菩薩に親近して、給使をばすれどもつねに在家へゆきて世にはしる心あり。賢天これを敎誨す。饒財これを聞て忿念をおこして瞋り罵つていはく、御邊の根本は捨子にて父母もしらざる人なりと云云。口の過によりて九十一劫の間生れかはる度ごとに、婬女の腹にやどりて捨子となれり。今其の惡業すでにむくひつくして、昔の善根あらはれたりと云云。かやうなるさま〱の因緣ある故に、一旦臨終はあしけれども、つひには殊勝なる人もあり、或は臨終の相もあしくして、つひには惡趣にしづむ人もあり、これは平生佛法をも行ぜず。たゞ罪をのみつくれる者なり。或は臨終の時坐ながら脫し、立ながら亡して自在を得たる人あり。此は是れ內外相應して生死の關を透り得たる人なり。古人の云く、坐脫立亡は定力によるべしと云云。たとひ得法の人なれども、定力いまだ純熟せざる人は解脫自在の分なし。さはあれども臨終に惡相を現ずるまではあるべからず。たとひ解脫自在の分はなくとも、生死の相を心に存せずば大乘の行人と申すべし。羅漢果を證せる人は臨終の時、十八變を現じて解脫自在なれども得法の人とは名けず。敎禪の宗師の中にも難にあふて滅し給へる人あり。前業によりて一旦臨終に惡相はあれども、是を以て化導の方便とする故に、臨終の相あしき人とはそしるべからず。小乘を學する人に二類あり。聲聞と緣覺となり。これを二乘と名く。緣覺をば梵語には辟支佛といへり。此の辟支佛も滅後には舍利を現ずといへり。然れどもこれは小乘の人なるが故に得法の人とは申すべからず。よのつねの凡夫の中にも一三昧を成じぬれば、滅後に舍利を現ずといへり。三世の如來とて番々に出世し給ふ佛は、皆かならず滅後に舍利をとゞめて人天の福業を成ずる方便とす。佛滅後敎禪の宗師として佛法を流通し給へる人の中には、滅後に舍利を現ぜる人もあり。臨終の相は殊勝なれども、滅後に舍利とはならぬ人もあり。其の因緣はかりがたし。寳種經に云く、如來の舍利は無相般若の中より流出す。般若は是れ舍利の體利舍は是れ般若の用なり。愚人は有相の舍利を信じて無相の般若をば信せずと云云。佛光禪師の頌に云く、諸佛凡夫同じく是れ幻なり。もし實の相をもとめば眼中の埃なり。老僧が舍利は天地をつゝめり。空山に向つて冷灰をはらふことなかれ。然らば卽ち滅後に舍利を現するをば善相とは申すべし。これを以てかならずしも得法の人とは申すべからず。

新字:其の時二人の菩薩あり。一人をば賢天となづく無生忍を得て、少欲少事にして独住をこのみき。一人をば饒財となづく。頭陀の行をこのみて賢天菩薩に親近して、給使をばすれどもつねに在家へゆきて世にはしる心あり。賢天これを教誨す。饒財これを聞て忿念をおこして瞋り罵つていはく、御辺の根本は捨子にて父母もしらざる人なりと云云。口の過によりて九十一劫の間生れかはる度ごとに、婬女の腹にやどりて捨子となれり。今其の悪業すでにむくひつくして、昔の善根あらはれたりと云云。かやうなるさま〱の因縁ある故に、一旦臨終はあしけれども、つひには殊勝なる人もあり、或は臨終の相もあしくして、つひには悪趣にしづむ人もあり、これは平生仏法をも行ぜず。たゞ罪をのみつくれる者なり。或は臨終の時坐ながら脱し、立ながら亡して自在を得たる人あり。此は是れ内外相応して生死の関を透り得たる人なり。古人の云く、坐脱立亡は定力によるべしと云云。たとひ得法の人なれども、定力いまだ純熟せざる人は解脱自在の分なし。さはあれども臨終に悪相を現ずるまではあるべからず。たとひ解脱自在の分はなくとも、生死の相を心に存せずば大乗の行人と申すべし。羅漢果を証せる人は臨終の時、十八変を現じて解脱自在なれども得法の人とは名けず。教禅の宗師の中にも難にあふて滅し給へる人あり。前業によりて一旦臨終に悪相はあれども、是を以て化導の方便とする故に、臨終の相あしき人とはそしるべからず。小乗を学する人に二類あり。声聞と縁覚となり。これを二乗と名く。縁覚をば梵語には辟支仏といへり。此の辟支仏も滅後には舎利を現ずといへり。然れどもこれは小乗の人なるが故に得法の人とは申すべからず。よのつねの凡夫の中にも一三昧を成じぬれば、滅後に舎利を現ずといへり。三世の如来とて番々に出世し給ふ仏は、皆かならず滅後に舎利をとゞめて人天の福業を成ずる方便とす。仏滅後教禅の宗師として仏法を流通し給へる人の中には、滅後に舎利を現ぜる人もあり。臨終の相は殊勝なれども、滅後に舎利とはならぬ人もあり。其の因縁はかりがたし。宝種経に云く、如来の舎利は無相般若の中より流出す。般若は是れ舎利の体利舎は是れ般若の用なり。愚人は有相の舎利を信じて無相の般若をば信せずと云云。仏光禅師の頌に云く、諸仏凡夫同じく是れ幻なり。もし実の相をもとめば眼中の埃なり。老僧が舎利は天地をつゝめり。空山に向つて冷灰をはらふことなかれ。然らば即ち滅後に舎利を現するをば善相とは申すべし。これを以てかならずしも得法の人とは申すべからず。

書き下し

其の時二人の菩薩あり。一人をば賢天となづく無生忍を得て、少欲少事にして獨住をこのみき。一人をば饒財となづく。頭陀の行をこのみて賢天菩薩に親近して、給使をばすれどもつねに在家へゆきて世にはしる心あり。賢天これを敎誨す。饒財これを聞て忿念をおこして瞋り罵つていはく、御邊の根本は捨子にて父母もしらざる人なりと云云。口の過によりて九十一劫の間生れかはる度ごとに、婬女の腹にやどりて捨子となれり。今其の惡業すでにむくひつくして、昔の善根あらはれたりと云云。かやうなるさま〱の因緣ある故に、一旦臨終はあしけれども、つひには殊勝なる人もあり、或は臨終の相もあしくして、つひには惡趣にしづむ人もあり、これは平生佛法をも行ぜず。たゞ罪をのみつくれる者なり。或は臨終の時坐ながら脫し、立ながら亡して自在を得たる人あり。此は是れ內外相應して生死の關を透り得たる人なり。古人の云く、坐脫立亡は定力によるべしと云云。たとひ得法の人なれども、定力いまだ純熟せざる人は解脫自在の分なし。さはあれども臨終に惡相を現ずるまではあるべからず。たとひ解脫自在の分はなくとも、生死の相を心に存せずば大乘の行人と申すべし。羅漢果を證せる人は臨終の時、十八變を現じて解脫自在なれども得法の人とは名けず。敎禪の宗師の中にも難にあふて滅し給へる人あり。前業によりて一旦臨終に惡相はあれども、是を以て化導の方便とする故に、臨終の相あしき人とはそしるべからず。小乘を學する人に二類あり。聲聞と緣覺となり。これを二乘と名く。緣覺をば梵語には辟支佛といへり。此の辟支佛も滅後には舍利を現ずといへり。然れどもこれは小乘の人なるが故に得法の人とは申すべからず。よのつねの凡夫の中にも一三昧を成じぬれば、滅後に舍利を現ずといへり。三世の如來とて番々に出世し給ふ佛は、皆かならず滅後に舍利をとゞめて人天の福業を成ずる方便とす。佛滅後敎禪の宗師として佛法を流通し給へる人の中には、滅後に舍利を現ぜる人もあり。臨終の相は殊勝なれども、滅後に舍利とはならぬ人もあり。其の因緣はかりがたし。寳種經に云く、如來の舍利は無相般若の中より流出す。般若は是れ舍利の體利舍は是れ般若の用なり。愚人は有相の舍利を信じて無相の般若をば信せずと云云。佛光禪師の頌に云く、諸佛凡夫同じく是れ幻なり。もし實の相をもとめば眼中の埃なり。老僧が舍利は天地をつゝめり。空山に向つて冷灰をはらふことなかれ。然らば卽ち滅後に舍利を現するをば善相とは申すべし。これを以てかならずしも得法の人とは申すべからず。

現代語訳

(前段の続き)そのとき二人の菩薩がいた。一人を賢天といい、無生法忍を得て、欲が少なく事も少なく、独りで住むことを好んだ。もう一人を饒財といい、頭陀の行を好んで賢天菩薩に親しく従い、世話をしていたが、いつも在家に行って世間に名を知られたい心があった。賢天はこれを教え諭した。饒財はこれを聞いて怒りの念を起こし、罵って言った。「あなたの根本は捨て子で、父母も知らない人だ」と。この口の過ちのために、九十一劫のあいだ、生まれ変わるたびに、淫女の腹に宿って捨て子となった。今その悪業は報い尽くされ、昔の善根が現れたのだと。このようなさまざまな因縁があるので、いっときは臨終が悪くても結局は立派になる人もいる。また臨終の相も悪く、結局は悪趣に沈む人もいる。これは平生仏法を行じず、ただ罪ばかり作った者である。あるいは臨終のとき、坐ったまま脱し、立ったまま亡くなって自在を得る人もいる。これは内と外が相応して、生死の関門を透り抜けた人である。古人は「坐脱立亡は定力による」と言った。法を得た人でも、定力がまだ熟していない人は、解脱自在の力がない。そうではあっても、臨終に悪相を現すほどにはならないはずである。たとえ解脱自在の力はなくても、生死の相を心にとどめなければ、大乗の行者と言える。阿羅漢果を証した人は臨終のとき、十八変を現して解脱自在だが、法を得た人とは呼ばない。教宗・禅宗の師のなかにも、難にあって亡くなられた人がいる。前世の業によっていっとき臨終に悪相があっても、それを教化の方便とするのだから、臨終の相が悪い人だと謗ってはならない。小乗を学ぶ人に二種ある。声聞と縁覚である。これを二乗と呼ぶ。縁覚は梵語で辟支仏という。この辟支仏も死後に舎利を現すという。しかしこれは小乗の人なので、法を得た人とは言えない。普通の凡夫でも、一つの三昧を成就すれば、死後に舎利を現すという。三世の如来として次々に世に出られる仏は、みな必ず死後に舎利をとどめて、人間界・天上界の福業を成す方便とする。仏滅後、教宗・禅宗の師として仏法を伝えた人のなかには、死後に舎利を現した人もいる。臨終の相はすばらしくても、死後に舎利とならない人もいる。その因縁ははかり知れない。『宝種経』には「如来の舎利は無相の般若の中から流れ出る。般若は舎利の体、舎利は般若の用である。愚かな人は有相の舎利を信じて、無相の般若を信じない」とある。仏光禅師の頌には「諸仏も凡夫も同じく幻である。もし実の相を求めれば眼の中の塵である。老僧の舎利は天地を包んでいる。人気のない山に向かって冷えた灰を払ってはならない」とある。だから死後に舎利を現すのはよい相とは言えるが、それだけで必ずしも法を得た人とは言えない。

解説

饒財の話は、口にした悪言が九十一劫の報いになったという因果の例ですが、夢窓疎石が示したいのは、臨終の姿や舎利の有無で人の悟りを判定してはならないということです。坐ったまま亡くなる人も阿羅漢も凡夫も舎利を残しうる。舎利は無相の般若の働きにすぎず、見える遺骨に執着するなと『宝種経』や仏光禅師の頌を引いて言います。現代に置き換えれば、実績や記念碑のような目に見える形ではなく、その人が何を通したかで評価せよという話になります。形に惑わされない目を養う問いです。
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この章句が説くこと

賢天と饒財坐脱立亡定力辟支仏舎利無相の般若

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