夢中問答集 / 『夢中問答集』臨終の相と舎利(上)
問よのつねの道心者とて、佛法を勤行する人も臨終の時、惡相を現ずるもあり。平生の時はさせる道人とも見ゑね共、臨終の相殊勝なるもあり。又平生はさせる貴き相はなけれ共、滅後には舍利となる人もあり。有智高德の人なれども、滅後に舍利も現せざるあり。何なる因緣ぞや。 答一切の事法本より定相なし。善に似て惡なることもあり。惡に似て善なる事もあり。臨終の相も亦かくのごとし。臨終の相はいしげなれども、貴ぶべからざる者あり。其の故は或は天魔の所爲にて其の行者をたぶらかし。よその人をも迷惑せんために、かりに奇特の相を現ずることあり。或は有漏の善根の力にて一旦人中天上に生るべき人は臨終の相殊勝なり。經の中に死後に人天に生をうくべき人の臨終の相を說きて云く、病中人に對して惡念を起さず。世間に執著をとゞめず。病苦も輕く心念も亂れず。或は佛菩薩の名を稱し、或は神仙の號を唱へて終る。其中に若し忉利天なんどに生るべき人は、天人來迎する故に異香室に熏じ、妓樂天にひゞくべしと云云。たとひかやうにいしげなりとも、其の果報つきなば又惡趣にかへるべし。是の故に一旦は殊勝なり。つひには貴ぶべき事ならず。臨終の相はあしけれども、つひには貴ぶべき者あり。其の故は或は天魔の所爲にて行者の臨終の相をあしく見せて、見聞の人の善心をやぶらんために惡相を現ずる事あり。しかれども其の行人は惡相をみず。或は今生には正法を行ずれどもいまだ練磨の功もつもらず。前世の業障はいまだつきざる故に解脫自在の分なし。是れによりて一旦惡趣に入る人もあり。かやうの人は臨終の相はあしけれども、正法の熏力うせざるが中に、つひには解脫の場に到る。娑竭龍女は前業によりて、一旦畜生道に墮せしかども其故において、大乘の熏力發現する故に、八歲にして疾に正覺を成じき。此の龍女の前世を思ふに畜生道におもむきしかば、臨終の相いかでか殊勝ならんや。昔釋迦如來出行の時、路の邊りの草の中に捨子一人あり。其の形うるはしく白くして、よのつねならぬけしきなり。衆人あつまり見る。佛かの小兒の所に到りて法門をとひ給ふ。小兒これを答へ奉る。佛其の手をとりて引きたてゝ言はく、汝過去の善根を憶念して神通を現ずべし。小兒佛の語を聞て忽ちにとびあがり、空中に坐して身より光明をはなつ。其光三千世界をてらす。其の光を見て梵天帝釋天龍八部來り集りて、不思議の善利を得たり。この故に此の小兒を不思議光菩薩と名くべしと佛印證し給へり。如來其の因緣を說きて言はく、過去九十一劫の其の毘婆戸佛出世し給ひき。
新字:問よのつねの道心者とて、仏法を勤行する人も臨終の時、悪相を現ずるもあり。平生の時はさせる道人とも見ゑね共、臨終の相殊勝なるもあり。又平生はさせる貴き相はなけれ共、滅後には舎利となる人もあり。有智高徳の人なれども、滅後に舎利も現せざるあり。何なる因縁ぞや。 答一切の事法本より定相なし。善に似て悪なることもあり。悪に似て善なる事もあり。臨終の相も亦かくのごとし。臨終の相はいしげなれども、貴ぶべからざる者あり。其の故は或は天魔の所為にて其の行者をたぶらかし。よその人をも迷惑せんために、かりに奇特の相を現ずることあり。或は有漏の善根の力にて一旦人中天上に生るべき人は臨終の相殊勝なり。経の中に死後に人天に生をうくべき人の臨終の相を説きて云く、病中人に対して悪念を起さず。世間に執著をとゞめず。病苦も軽く心念も乱れず。或は仏菩薩の名を称し、或は神仙の号を唱へて終る。其中に若し忉利天なんどに生るべき人は、天人来迎する故に異香室に熏じ、妓楽天にひゞくべしと云云。たとひかやうにいしげなりとも、其の果報つきなば又悪趣にかへるべし。是の故に一旦は殊勝なり。つひには貴ぶべき事ならず。臨終の相はあしけれども、つひには貴ぶべき者あり。其の故は或は天魔の所為にて行者の臨終の相をあしく見せて、見聞の人の善心をやぶらんために悪相を現ずる事あり。しかれども其の行人は悪相をみず。或は今生には正法を行ずれどもいまだ練磨の功もつもらず。前世の業障はいまだつきざる故に解脱自在の分なし。是れによりて一旦悪趣に入る人もあり。かやうの人は臨終の相はあしけれども、正法の熏力うせざるが中に、つひには解脱の場に到る。娑竭竜女は前業によりて、一旦畜生道に堕せしかども其故において、大乗の熏力発現する故に、八歳にして疾に正覚を成じき。此の竜女の前世を思ふに畜生道におもむきしかば、臨終の相いかでか殊勝ならんや。昔釈迦如来出行の時、路の辺りの草の中に捨子一人あり。其の形うるはしく白くして、よのつねならぬけしきなり。衆人あつまり見る。仏かの小児の所に到りて法門をとひ給ふ。小児これを答へ奉る。仏其の手をとりて引きたてゝ言はく、汝過去の善根を憶念して神通を現ずべし。小児仏の語を聞て忽ちにとびあがり、空中に坐して身より光明をはなつ。其光三千世界をてらす。其の光を見て梵天帝釈天竜八部来り集りて、不思議の善利を得たり。この故に此の小児を不思議光菩薩と名くべしと仏印証し給へり。如来其の因縁を説きて言はく、過去九十一劫の其の毘婆戸仏出世し給ひき。
書き下し
問よのつねの道心者とて、佛法を勤行する人も臨終の時、惡相を現ずるもあり。平生の時はさせる道人とも見ゑね共、臨終の相殊勝なるもあり。又平生はさせる貴き相はなけれ共、滅後には舍利となる人もあり。有智高德の人なれども、滅後に舍利も現せざるあり。何なる因緣ぞや。 答一切の事法本より定相なし。善に似て惡なることもあり。惡に似て善なる事もあり。臨終の相も亦かくのごとし。臨終の相はいしげなれども、貴ぶべからざる者あり。其の故は或は天魔の所爲にて其の行者をたぶらかし。よその人をも迷惑せんために、かりに奇特の相を現ずることあり。或は有漏の善根の力にて一旦人中天上に生るべき人は臨終の相殊勝なり。經の中に死後に人天に生をうくべき人の臨終の相を說きて云く、病中人に對して惡念を起さず。世間に執著をとゞめず。病苦も輕く心念も亂れず。或は佛菩薩の名を稱し、或は神仙の號を唱へて終る。其中に若し忉利天なんどに生るべき人は、天人來迎する故に異香室に熏じ、妓樂天にひゞくべしと云云。たとひかやうにいしげなりとも、其の果報つきなば又惡趣にかへるべし。是の故に一旦は殊勝なり。つひには貴ぶべき事ならず。臨終の相はあしけれども、つひには貴ぶべき者あり。其の故は或は天魔の所爲にて行者の臨終の相をあしく見せて、見聞の人の善心をやぶらんために惡相を現ずる事あり。しかれども其の行人は惡相をみず。或は今生には正法を行ずれどもいまだ練磨の功もつもらず。前世の業障はいまだつきざる故に解脫自在の分なし。是れによりて一旦惡趣に入る人もあり。かやうの人は臨終の相はあしけれども、正法の熏力うせざるが中に、つひには解脫の場に到る。娑竭龍女は前業によりて、一旦畜生道に墮せしかども其故において、大乘の熏力發現する故に、八歲にして疾に正覺を成じき。此の龍女の前世を思ふに畜生道におもむきしかば、臨終の相いかでか殊勝ならんや。昔釋迦如來出行の時、路の邊りの草の中に捨子一人あり。其の形うるはしく白くして、よのつねならぬけしきなり。衆人あつまり見る。佛かの小兒の所に到りて法門をとひ給ふ。小兒これを答へ奉る。佛其の手をとりて引きたてゝ言はく、汝過去の善根を憶念して神通を現ずべし。小兒佛の語を聞て忽ちにとびあがり、空中に坐して身より光明をはなつ。其光三千世界をてらす。其の光を見て梵天帝釋天龍八部來り集りて、不思議の善利を得たり。この故に此の小兒を不思議光菩薩と名くべしと佛印證し給へり。如來其の因緣を說きて言はく、過去九十一劫の其の毘婆戸佛出世し給ひき。
現代語訳
問:普通の道心者として仏法を勤め行う人でも、臨終に悪い相を現す人がいる。平生はたいした道人とも見えないのに、臨終の相がすばらしい人もいる。また平生はとくに尊い様子がなかったのに、死後に舎利になる人もいる。知恵と徳の高い人なのに、死後に舎利も現れない人もいる。これはどういう因縁か。 答:すべての事柄は本来決まった形がない。善に似て悪であることもあり、悪に似て善であることもある。臨終の相もそうである。臨終の相が立派でも貴ぶべきでない者がいる。その理由は、一つには天魔の仕業で、行者をたぶらかし、ほかの人をも惑わすために、仮に不思議な相を現すことがあるからである。もう一つは、有漏の善根の力でいっとき人間界や天上に生まれる人は、臨終の相が立派だからである。経には、死後に人間界・天上界に生まれる人の臨終の相が説かれている。病中に人に対して悪い念を起こさず、世間に執着をとどめず、病苦も軽く心も乱れず、仏菩薩の名を称え、あるいは神仙の名号を唱えて終わる。そのうちで忉利天などに生まれる人には、天人が迎えに来るので、不思議な香りが室に満ち、音楽が天に響くという。たとえこのように立派でも、その果報が尽きればまた悪趣に戻る。だから、いっときは立派でも、結局は貴ぶべきことではない。一方、臨終の相は悪くても、結局は貴ぶべき者がいる。その理由は、天魔の仕業で、行者の臨終の相を悪く見せ、見聞きする人の善心を破ろうとして悪相を現すことがあるが、その行者自身は悪相を見ない場合がある。また、今生で正法を行じていても、まだ鍛錬の功が積もらず、前世の業障が尽きていないので、自在に解脱する力がなく、いっとき悪趣に入る人もいる。こういう人は臨終の相は悪くても、正法の熏習の力が失われないうちに、結局は解脱の境に至る。娑竭羅龍王の娘は前世の業によっていったん畜生道に堕ちたが、そのために大乗の熏習の力が現れ、八歳で速やかに正覚を成就した。この龍女の前世を思えば、畜生道に赴いたのだから、臨終の相がどうして立派であろうか。昔、釈迦如来が出歩かれたとき、道端の草むらに捨て子が一人いた。その姿は美しく色が白く、尋常でない様子だった。大勢の人が集まって見ていた。仏はその子のところに行って法門を問われた。子はこれに答えた。仏はその手を取って引き起こし、「あなたは過去の善根を思い起こして神通を現しなさい」と言われた。子は仏の言葉を聞くと、たちまち飛び上がり、空中に坐して身から光明を放った。その光は三千世界を照らした。その光を見て梵天・帝釈天・天・龍・八部衆が集まって来て、不思議な善い利益を得た。そこで仏は、この子を不思議光菩薩と名づけるべきだと証明された。如来はその因縁を説いて言われた。過去九十一劫のむかし、毘婆尸仏が世に出られた。
解説

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