夢中問答集 / 『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(二)
予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに惡念を起して、彼の敎院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脫を證得せる菩薩は芥子の中に須彌山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須彌の小さくなれることもなし。淨名の室はわづかに方丈なり。しかれども八萬四千由旬なる高座の三萬二千納れたりき。御邊の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば卽ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御邊の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脫を證得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御邊のごとく惡念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、惡念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小壽命の長短財寶の多小官位の高下世間の治亂人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦勞するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小壽命の長短等のみにあらず。淨土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を亂る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに壽命も長く財寶も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、亂れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四惡趣の果報には、勝れたりと思ふて歎くべからずいはんや佛法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は敎の中に種々の因緣譬喩にて說き置かれたり。たゞ敎の中のみにあらず。禪宗を擧揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師佛法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契當する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相應の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相應せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報寃行、二つには隨緣行、三つには無所求行、四には稱法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために寃をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎會苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報寃行となづく。
新字:予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに悪念を起して、彼の教院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脱を証得せる菩薩は芥子の中に須弥山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須弥の小さくなれることもなし。浄名の室はわづかに方丈なり。しかれども八万四千由旬なる高座の三万二千納れたりき。御辺の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば即ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御辺の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脱を証得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御辺のごとく悪念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、悪念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小寿命の長短財宝の多小官位の高下世間の治乱人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦労するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小寿命の長短等のみにあらず。浄土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を乱る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに寿命も長く財宝も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、乱れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四悪趣の果報には、勝れたりと思ふて嘆くべからずいはんや仏法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は教の中に種々の因縁譬喩にて説き置かれたり。たゞ教の中のみにあらず。禅宗を挙揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師仏法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契当する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相応の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相応せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報冤行、二つには随縁行、三つには無所求行、四には称法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために冤をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎会苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報冤行となづく。
書き下し
予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに惡念を起して、彼の敎院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脫を證得せる菩薩は芥子の中に須彌山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須彌の小さくなれることもなし。淨名の室はわづかに方丈なり。しかれども八萬四千由旬なる高座の三萬二千納れたりき。御邊の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば卽ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御邊の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脫を證得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御邊のごとく惡念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、惡念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小壽命の長短財寶の多小官位の高下世間の治亂人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦勞するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小壽命の長短等のみにあらず。淨土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を亂る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに壽命も長く財寶も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、亂れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四惡趣の果報には、勝れたりと思ふて歎くべからずいはんや佛法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は敎の中に種々の因緣譬喩にて說き置かれたり。たゞ敎の中のみにあらず。禪宗を擧揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師佛法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契當する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相應の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相應せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報寃行、二つには隨緣行、三つには無所求行、四には稱法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために寃をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎會苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報寃行となづく。
現代語訳
私と同じ寺に住む僧の中に一人、この湯汲みを見るたびに悪い思いを起こして、その教院の坊主の心の狭さをたびたび悪く言う者がいた。私は言った。あらゆる存在には、もともと大小の相はない。大小は人の情の中にある。だから、大小の妄情を忘れて不思議解脱を証した菩薩は、芥子粒の中に須弥山を収めても、芥子が大きくなることもなく、須弥山が小さくなることもない。浄名居士(維摩)の室はわずか一丈四方であったが、そこに高さ八万四千由旬の高座を三万二千も入れたという。あなたの心に大小の相がなければ、あの竹筒で大海をも汲み尽くせるだろう。ならば、あの坊主の心が狭いのではない。あなたの心が狭いのだ。私もまだ不思議解脱を証していないので、大小の相は見えるが、この理を信じ理解することがはっきりしているから、あなたのように悪い思いを起こすことはない。この僧はこれを聞いてから後は、あの湯汲みを見ても悪い思いがまったく起こらなかったと言った。ただ湯汲みの大小だけではない。果報の大小、寿命の長短、財宝の多少、官位の高下、世の中の治まり乱れ、人間関係の怨みと親しみ、こうした世の事はさまざまであるが、ただ一念の迷いの情に浮かんだものにすぎない。夢まぼろしの姿である。この幻の相の上で、これを取りあれを捨てようと苦労する暇があるなら、この幻の相を分別する自分の心の計らいを投げ捨てるがよい。もしこの分別と計らいを忘れ得たなら、果報の大小や寿命の長短などだけでなく、浄土と穢土、凡夫と聖賢の隔てもなくなる。何を嘆き、何を喜ぶことがあろうか。しかし、もし自分の心の計らいを投げ捨てることができず、世間の幻の相に心を乱すときは、よくよく思い返しなさい。果報が大きく、寿命が長く、財宝が多く、官位が高く、怨敵もなく治まった世にあっても、天上の果報には及ばない。たとえ天上の果報に等しくても、いつまでも続くものではないから、すばらしいと思うことはない。またもし、果報も官位もみな賤しい身となり、乱れた世に落ちぶれて暮らしても、さすがに人間であるから、四つの悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)の果報にはまさっていると思って、歎いてはならない。まして仏法に会えた大きな喜びがある。どうして世俗の小さな利を心にかけようか。こうした教えは、教門の中に種々の因縁や譬えで説き置かれている。ただ教門の中だけではない。禅宗を挙揚される祖師たちも、やはり勧められている。達磨大師は、仏法に悟り入る人について、理入と行入の二つを立てられた。理入とは、修行を借りず、直ちに本分にかなう人である。行入とは、本分の教えを聞いて信じ理解してはいるが、まだ相応する分のない人のために、方便なき方便を設けて、相応させる手だてである。これについて四行を説いた。一つには報怨行、二つには随縁行、三つには無所求行、四つには称法行である。世間のあらゆる貴賤男女の中に、自分の心に合わず、自分に怨みをなす人がいて、さらに畜生や鬼の類の中にも、自分に毒害をなす者がいる。人間の八苦の中の怨憎会苦というのがこれである。これらはみな、前世に彼らを怨んだ報いである。あるいは貧苦や病苦に責められるのも、自分のけちや戒を破った報いであると思って、怒ることもなく、悲しむこともない。このような心に安住することを報怨行と名づける。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(一)問若人上根にして直に本分を悟りなば、境界とて障をなす物あるべからず。たとひ直にさとることはなくとも、道心堅固ならば境界にさへらるゝことなかるべし。しかれ共、下根の人は道心も堅固ならぬ故にたま〱佛法を信ずれども、名利の心もたへず。逆順の境も相侵す故に坐禪工夫純一ならず。かやうの人をすゝめて、先づ世情をやはらぐる方便はあるまじきやらん。 答境界に二種あり順と逆となり、我が心にかなへることをば順境界となづく。我が心にそむけることをば逆境界といへり。逆境界をばこれを憎み、順境界をばこれを愛す。愛によりて生をひき、憎みによりて死をうく。然らば卽ち順逆の境界は、倶に是れ生死輪廻の因緣なり。愚人はこれをしらず。我が心にあはざることをば厭ひ捨て、我が心にかなへる事のみをねがひ求む娑婆と、いへるは梵語なり。此には缺減と翻せり。此の世界に生ずる人は皆宿善うすき故に何事も心にかなふて滿足することあるまじき謂れなり。しかるを此の娑婆界にありながら、心にかなふ事を求むるは火の中に入れて涼しきことを求むるがごとし。何事も心にかなふ事を得んと思はゞ、速に娑婆を出離する計事をめぐらすべし。此の缺減せかいの中にして、心にかなふことを求むるほどに、朝夕に身心を苦勞して、つひには當來の惡果を感ず。古歌に云く、うかれたゞありはつまじき世の中に、心のとまる人もこそあれ。若し人此の理をしるならば此せかいに生れて、何事も心に叶はざるは諸人のために出離をすゝむる善知識なり。若し人心にかなふことを愛せずば、心にそむく事もあるべからず。然らば卽ち我をなやます者は外境にあらず。偏に是れ自心のとがなり。予昔田舍の小院に住せし時、共住みの僧の中に鬪諍をこのむ人ありき。有る時、此の僧來りて懺悔して云く、我にかゝる癖あり。如何か對治すべきや。予が云く、鬪諍をよくするやうをしりぬれば鬪諍の心はおこらぬなり。鬪諍をよくするやうを敎へ奉らん世間に兵さをよくする人は、先づ其敵の大將軍に目をかけて葉武者をばかへりみず、大將軍をだに打取りぬれば、葉武者は自然にほろぶる故なり。御邊の心にそむける敵人の中に、何れか其の大將軍なると目をかけて見らるべし。たとひ他人に罵られ打たれたりとも、それによりて地獄におつる事はあるべからず。かゝる惡緣にあふて起るところの一念の瞋恚は倶胝劫の善根を燒き失ふて、つひには我を地獄に墮すべし。しかれば我を損害する大將軍は他人にあらず。只是れ自心なり。鬪諍の心おこらん時、先づ此の心に目をかけて打取るべし。此の僧これを聞て落淚して出ぬ。其の後はひきかへて柔和の僧になりたりき。其の比かの小院いまだ溫室をつくらず。近隣に敎院のあるに往いて湯をばあびき。其の湯屋の搔器は竹の筒の五寸ばかりなる中に節をこめて、兩方にて湯をくむやうにつくれり。湯を多くくませじとの計ごとなり。
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夢中問答集・『夢中問答集』夢と本分の家(下)佛法も亦かくのごとし、本分の田地には凡聖の相もなく淨穢の境もなし、無明業識の一夢起るが故に、無相の中に淨穢の境界を現じ、無爲の中に凡聖の差別を見る、我は凡夫也と思ふ時は東西に馳走して名利を求む求め得ざる時はなげきかなしむ。我は智人也と思ふ時は、一切の人をかろしめて高慢の心を起す、かゝる種々の顚倒にばかされて本分安樂の田地ある事を信ぜず。是れ卽ち夢中の妄境に心を轉せられてうつゝの境界を信せざるがごとし、其の中にたま〱利根の人ありて、凡聖淨穢業識の上に浮べる假相也。本分の田地にはすべてかやうの事なしと信ずれ共、いまだ大悟せざる故に、やゝもすれば幻化に誑惑せられて、我は是れ迷人也と思ひならはせる我執いまだ忘せざる故に、得法悟道をねがひ機辨神通ををうらやむ。しかる故に修行用心について邪正を論じ、應用問答において勝劣をあらそふ。此れは是れ夢みる人の我が所見は皆な夢也と信ずれ共、大夢いまださめざる故に、夢の境界にばかはされて其の中について、是非得失を論ずるがごとし。若し是れ最上根の人はたとひいまだ大悟の分はなけれ共、自他身心を計する事皆是れ業識の妄想也と分明に信解する故に、輪廻をもいとはず、解脫をも求めず、若しかくのごとくならば趣向の正しき人と申すべし。趣向のたゞしきをたのみて、滿足の思をなさば亦謬りなり。圓覺經に云く、衆生顚倒して妄に四大をとめて自身の相とし、六塵の緣影を自身の相とす、たとへば病目の空中の花及び第二の月を見るがごとし。是れによりて、妄に生死に輪轉する事あり、この故に無明となづく。此の無明といふは、實に體あるにあらず、夢中に人を見るときは其の體なきにあらざれ共、夢さめぬれば其の人ある事なきがごとし。首楞嚴經に云く、妙性圓明にして諸の名相をはなれたり、本より世界衆生ある事なしと云云。諸大乘經みな同じくかやうに說けり、何ぞこれを信ぜずして、身心を勞役して外に向つて馳求するや。世間の吉凶其の相いまだあらはれざる時は、愚人これをしらず。然れども世間の巫女陰陽師等のうらなひしめす言を信じて、それにまかせてふるまへば、時節到來して其の效をみる事あり。本分の一段は人々具足すれども、いまだ契當せざる人は、日に用ひて知る事なし。是の故に佛祖大慈をたれて叮嚀にしめし玉へり。たとひ宿習うすくして、直下に契當する事なくとも世間の陰陽師等を信ずるがごとく、佛祖の言を信じて、それにまかせて用心せば、何ぞしるしなからんや。
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夢中問答集・『夢中問答集』他人の是非を見る前に問う者を見よ問古人の云く、眞實修道の人は、他人の是と非をとかずと云云。此の語をば信ずれども、僧俗に對する時やゝもすれば、是非の念の起るをば如何か對治すべきや。 答眞實の道人の他人の是非をとかずといへることは、是非は實にあれ共、これを說かずと申すにはあらず。自他の相を見ざれば、是非のとくべきがなき故なり。三祖大師の云く、眞如法界には他もなく自もなし。敎中に云く、法性は大海のごとし。是非ありと說くべからずと云云。此の理に相應せざる故に自他の相あり。自他の相あるならば爭か是非を見ることなからんや。若し是非の相を見ば、たとひ口には解かずとも眞實修道の人にはあらず。然らば卽ち大乘の學者、他人の是非をとかじとせんよりは、たゞ自ら翻覆して看るべし。他人の是非をとく者はこれ誰ぞ。圓覺經に云く、四大を認めて自身の相とし、六塵の緣影を自心の相とす。此の經の意は凡夫の自己と思へるは眞實の自己にあらず。自己と思へる者の若しあやまりならば、他人とみるも亦あたらず。自他もし實ならずば、何れの是非をかとくべきや、よのつね道者とて他人の是非をばとかぬ人も自心において、善惡の相をわかち利鈍の品をたて、所解に淺深を論じ、修行に邪正をたくらぶ。かやうの人は直に無上菩提におもむくことあたはず。是の故に一切の是非を目にかくる事なかれとすゝめたり。一切の是非を放下して、自他の相をみずとも若いまだ父母未生前の本來の面目を見ずば、眞實の道人といふべからず。廻光返照して看るべし。自他身心の相をわかち、是非得失の念をうかぶる物は是れ何に物ぞ。昔南岳の讓和尙六祖に參ず。六祖他の來るを見て、問て云く、なに物か、かくのごとく來れる南岳、答ふることあたはずして退き給ひぬ。其後八年ありて始めて大悟す。再び六祖に參じて前の問を答て云く、一物に說似すれば、卽ちあたらずと云云。此の時始めて六祖の印證をうけ給ひき。南岳和尙の六祖に參じ給ひし時、一言の下に直に契當せられざる事は、鈍根なるに似たれ共、來る者は何に物ぞと問はれて、やがてつまりて歸り給へるは怜利なる故なり。かやうにならましかば、たとひ千生をふるとも大悟することあたはじ。今時鈍根の人來りて、佛法を問ふ時、かやうに佛法を問ふ者は、これ誰ぞといへば、或はもう〱として、日來の妄想を本として、某となのる者のあり。或は問ふ者は、是誰ぞと疑ふて見るべきかといふ者もあり。或は自心これ佛といへる語に隨つて解を生じて、眉をあげ、目をまじろかし、手をあげ、拳をさゝぐる者もあり。或は識心の實體なくして諸の形相をはなれたる處をとめて、南岳の說似一物卽不中と答へ給へる語にとりあはせて、上に攀仰なく下に己躬を絕すと答ふる者のあり。或はわづかに問あり。答あれば、皆外邊の事なりと心得て一喝を下す人もあり。或はかやうの種々の計較安排にあづからざる處を宗旨と思ふて、袖を拂つて便ち去る人もあり。若しかやうならば、たとひ彌勒下生に到るとも大悟することあたはじ。百丈の大智禪師上堂說法の終りには、たびごとに大衆とよび給ふ大衆、これを聞て首べを廻らす百丈の云く、これ何ぞ。時の人これを百丈下堂の句と名けたり。百丈かやうに示し給ふことは學者に工夫用心ををしへ給へるにもあらず。面々の見解を問ひ給ふにもあらず。畢竟して其の意何れの處にかある。若人直下に承當せば、曠劫の無明一時に滅すべし。昔亮座主といへる敎者ありき。經論を博覽し、義理を通達して徒を集めて、法を說く事年久し。有る時馬祖に參じて種々の問答あり。亮座主これをうけかはずして出で去る。馬祖卽ち座主とよび給ふ。座主首をめぐらす。馬祖の云く、是れ何ぞ其の時亮座主豁然として大悟す。此座主年來經論の義理を通達すといへ共、いまだ悟入の分なし。馬祖の是れ何ぞとしめし給ふ一言の下に大悟する事は何の故ぞや。まさにしるべし。其の所悟は經論の義理にあらざる事を一生の間、身心を苦勞して學解をはげますいとまをひるがへして、行住坐臥念起念滅の處について直下に參決せば、南岳亮座主のごとくなる悟入もなどかなかるべきやといとまおしく覺えたり。まして他人の是非を談じ、世間の名利をのみはしりて、いたづらに一生をすごす人をば、たま〱人身を受たるしるしありといはんや。
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『臨済録』示衆是れ爾が目前歴歴底、一箇の形段勿くして孤明なる、是れ這箇、説法聴法を解す。若し是の如く見得せば、便ち祖仏と別ならず。但だ一切時中、更に間断すること莫かれ。触目皆な是なり。秖だ情生ずれば智隔たり、想変ずれば体殊なるが為に、所以に三界に輪回して種種の苦を受く。若し山僧が見処に約せば、甚深ならざる無く、解脱せざる無し。道流、心法は形無くして、十方に通貫す。眼に在っては見と曰い、耳に在っては聞と曰い、鼻に在っては香を嗅ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉し、足に在っては運奔す。本と是れ一精明、分かれて六和合と為る。一心既に無なれば、随処に解脱す。山僧与麼に説く、意、什麼の処にか在る。秖だ道流が一切馳求して、心歇むこと能わず、他の古人の閑機境に上るが為なり。道流、山僧が見処を取らば、報化仏の頭を坐断し、十地満心も猶お客作児の如く、等妙二覚は枷を担い鎖を帯ぶる漢、羅漢辟支は猶お廁穢の如く、菩提涅槃は驢を繋ぐ橛の如し。何を以てか此の如くなる。秖だ道流が三祇劫の空なることに達せざるが為に、所以に此の障礙有り。若し是れ真正の道人ならば、終に是の如くならず。但だ能く縁に随って旧業を消し、任運に衣裳を著け、行かんと要すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心も仏果を希求すること無し。何に縁ってか此の如くなる。古人云く、『若し業を作して仏を求めんと欲せば、仏は是れ生死の大兆なり。』大徳、時光惜しむべし。秖だ傍家に波波地に禅を学び道を学び、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め善知識を求めて意度せんと擬す。錯ること莫かれ。道流、爾秖だ一箇の父母有り、更に何物をか求めん。爾自ら返照し看よ。古人云く、『演若達多、頭を失却す。求心歇む処、即ち無事。』大徳、且く平常なることを要す、模様を作すこと莫かれ。一般の好悪を識らざる禿奴有り、便即ち神を見、鬼を見、東を指し西を劃し、晴を好み雨を好む。是の如きの流は尽く須らく債を抵し、閻老の前に向かって熱鉄丸を呑む日有るべし。好人家の男女、這の一般の野狐精魅に著けられて、便即ち揑怪す。瞎屢生、飯銭を索めらるる日有らん。」師、衆に示して云く、
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夢中問答集・『夢中問答集』凡夫と聖者の見方の違い問凡聖所見の差別いかん。 答禪宗には直に本分をしめす、故にかやうの事を論せず、敎の中には種々の義あり、しばらく首楞嚴經の說相について粗申すべし。彼の經の中に七大を明せり謂ゆる地大水大火大風大空大根大識大なり。此の七大皆な是れ如來藏の中の性德として、法界に周遍し融通無礙なり。これを性火性風等となづく眞言敎の中に六大無礙にして諸法の體なりと談ずるもこの意なり。たゞし眞言敎には根大をあかさず、根大とは眼耳等の六根も皆な法界に周遍せる義なり。眞言には六大を法界の體とす、楞嚴經には如來藏を諸法の體とす、七大は皆如來藏所具の德用なりとあかせり。皆な是れ如來の隨宜說法なり、眞言に六大と申すも緣生の水火等をさすにはあらず、楞嚴經に性火性水等といへる六大なり。四曼と談ずるは緣生の諸法なり。この故に六大を體とし四曼を相とし三密を用とすと明せり、七大に皆な同じく性德と緣生との差別あり。先づ一大をよく〱心得ぬれば諸大も亦同じかるべし。世間に木の中より鑽出し石の中より打出せる火はこれ緣生の火なり。此の火は實體なし薪にても油にても其の緣なくてはもゆることなし。薪油等の緣ある時かりに其の相を現ず、故に虛妄にして實體なしと說けり。顯密の諸經にも緣生の諸法の實體なす事は同一說なり、性火といへるは法界に周遍して、燃ゆることもなく滅する事もなし。凡夫はたゞ緣生の火をのみ見て性火をばしらず。若し知り得ぬれば緣火とてきらふべきことなし、緣火は是性火の用なるが故に此の火大のごとく餘大も亦然り。乃至識大とは衆生の心識なり、それもよのつね凡夫の心と思へるは緣生の心なり、經の中にこれを緣心と說けり。此の心はすべて實體なし、六塵の緣によりてかりに見聞覺知の相あり、緣生の火の薪油等の緣によりて、かりにもゆる相あるがごとし。愚人はたゞ緣心をのみ知りて性心をしらず、外典乃至小乘敎の中に心といへるは皆是緣心なり、大乘の中に八識を談ずるも猶是れ緣心の分劑なり、是を以て極大乘の中に第九識を立てたり、是れ卽ち性德の識大をしらしめんためなり。諸法といへるは色心二法なり、七大の中に識大はこれ心法なり、其の餘の六大は皆色法なり。然れ共此の七大ともに如來藏の中に具足して五融無礙なるが故に色心の差別なし、これを眞法界となづく差別なしといへ共、色心混濫する事なし。然らば卽ち其の色法も生滅盛衰の形相にあらず、其心法も動靜起滅の轉變なし、經の中に諸法實相常住と說けるは此の義なり。凡夫の妄見起る時、此の如來藏虛妄の緣に隨つて色心諸法の相を現ず、凡夫の妄見轉變するが故に其の所見の諸法も亦皆な轉變の相あり。たとへば舟の行く時、岸のうつると見ゆるがごとし、又翳眼にて見る時、虛空皆な花となりて亂起亂滅するがごとし。諸法は皆な是れ虛妄と說けるは此の義なり、然らば則或は諸法虛妄と說き、或は諸法常住と談ず、其の言句は異なりといへども、其の法體はこれ同じ佛意をしらざる者のは其の言句の差別に隨つて此れを取て彼を捨つ皆な是れ世俗の戯論なり、翳眼の人と明眼の人と二人同所にありて虛空に向へる時、翳眼の前には積々の花ありて亂起亂滅する相あり。しかれ共明眼の人は亂起亂滅の處をあらためずして淸淨の虛空とみるがごとし、煩惱卽菩提生死卽涅槃常位卽妙不改本位といへるも此の義なり。當相卽道卽事而眞と申すも、此の謂れなりしかるを凡夫所見のまゝにて、やがて佛知見なりと心得たるは大なる錯なり。若しさやうならば諸佛の出世し玉ふこと何事のためとか申すべきや顯密の宗師みな學者のために修行をすゝめ玉へるは何事の對治のためぞや、古の大師達みな聚落の外に伽藍を立て女人を入れられず、酒肉等を制し玉へる事は何の謂ぞや。