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夢中問答集 / 『夢中問答集』順境も逆境も輪廻のもと(二)

予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに惡念を起して、彼の敎院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脫を證得せる菩薩は芥子の中に須彌山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須彌の小さくなれることもなし。淨名の室はわづかに方丈なり。しかれども八萬四千由旬なる高座の三萬二千納れたりき。御邊の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば卽ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御邊の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脫を證得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御邊のごとく惡念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、惡念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小壽命の長短財寶の多小官位の高下世間の治亂人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦勞するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小壽命の長短等のみにあらず。淨土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を亂る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに壽命も長く財寶も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、亂れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四惡趣の果報には、勝れたりと思ふて歎くべからずいはんや佛法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は敎の中に種々の因緣譬喩にて說き置かれたり。たゞ敎の中のみにあらず。禪宗を擧揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師佛法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契當する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相應の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相應せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報寃行、二つには隨緣行、三つには無所求行、四には稱法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために寃をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎會苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報寃行となづく。

新字:予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに悪念を起して、彼の教院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脱を証得せる菩薩は芥子の中に須弥山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須弥の小さくなれることもなし。浄名の室はわづかに方丈なり。しかれども八万四千由旬なる高座の三万二千納れたりき。御辺の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば即ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御辺の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脱を証得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御辺のごとく悪念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、悪念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小寿命の長短財宝の多小官位の高下世間の治乱人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦労するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小寿命の長短等のみにあらず。浄土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を乱る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに寿命も長く財宝も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、乱れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四悪趣の果報には、勝れたりと思ふて嘆くべからずいはんや仏法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は教の中に種々の因縁譬喩にて説き置かれたり。たゞ教の中のみにあらず。禅宗を挙揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師仏法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契当する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相応の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相応せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報冤行、二つには随縁行、三つには無所求行、四には称法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために冤をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎会苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報冤行となづく。

書き下し

予が共住の僧の中に一人、此のかいげを見るたびごとに惡念を起して、彼の敎院の坊主の心せばき事をおり〱に誹謗す。予が云く、諸法本より大小の相なし。大小は人の情にあり。是の故に大小の妄情を忘じて不思議解脫を證得せる菩薩は芥子の中に須彌山を納るれども、芥子の大きになれることもなく、須彌の小さくなれることもなし。淨名の室はわづかに方丈なり。しかれども八萬四千由旬なる高座の三萬二千納れたりき。御邊の心に大小の相を存せずば、彼の竹筒にて大海をもくみぬべし。然らば卽ちかの坊主の心のせばきにはあらず。御邊の心のせばきなり。我れもいまだ不思議解脫を證得せぬ故に、大小の相をば見れ共、此の理を信解すること分明なる故に、御邊のごとく惡念を起すことはなし此の僧これを聞て後は、かのかいげを見れ共、惡念更におこらずと申しき。たゞ搔器の大小のみにあらず。果報の大小壽命の長短財寶の多小官位の高下世間の治亂人倫の怨親かやうの世事はさまざまなりといへ共、只是れ一念の迷情にうかべり。夢幻の相なり。此の幻相の上において此を取り、彼を捨てんと苦勞するいとまにて、此の幻相を分別する自心の計度を放下すべし。若しこの分別計度を忘れ得たらば、果報の大小壽命の長短等のみにあらず。淨土穢土凡夫聖賢のへだても亦あるべからず。何をかなげき、何をかよろこばんや。しかれども、若し又自心の計度を放下する事あたはずして、世間の幻相に心を亂る時はよく〱うちかへし思ふべし。果報も大きに壽命も長く財寶も多く官位も高く、怨敵もなくして治まれる世にありとも、天上の果報には及ぶべからず。たとひ天上の果報にひとしくともながらへはつべきことならねば、これをいみじと思はんや。若し又、果報官位等も皆いやしき身となりて、亂れたる世に牢籠すともさすが、人間なれば四惡趣の果報には、勝れたりと思ふて歎くべからずいはんや佛法にあへる大慶あり。何ぞ世俗の小利を心にかけんや。かやうの法門は敎の中に種々の因緣譬喩にて說き置かれたり。たゞ敎の中のみにあらず。禪宗を擧揚し給へる祖師達も、亦すゝめらる達磨大師佛法を悟入せる人について理入行入の二種を立給へり理入とは修行をからずして、直に本分に契當する人なり。行入とは本分の法門を聞て信解のあれども、いまだ相應の分なき人のために無方便の方便をまうけて、相應せしむる手段なり。これについて四行をあかせり。一つには報寃行、二つには隨緣行、三つには無所求行、四には稱法行、世間にあらゆる貴賤男女の中に我が心にあはず。我ために寃をなす人ありて乃至畜生鬼類の中にも、我ために毒害をなす者あり。人間の八苦の中に怨憎會苦といへるはこれなり。皆なこれ前世に彼れをあだみたりしむくひなり。或は貧苦病苦にせめらるゝも亦、是れ我が慳貪破戒のむくひなりと思ふて瞋ることもなく、悲しむこともなし。かやうの心に安住するを報寃行となづく。

現代語訳

私と同じ寺に住む僧の中に一人、この湯汲みを見るたびに悪い思いを起こして、その教院の坊主の心の狭さをたびたび悪く言う者がいた。私は言った。あらゆる存在には、もともと大小の相はない。大小は人の情の中にある。だから、大小の妄情を忘れて不思議解脱を証した菩薩は、芥子粒の中に須弥山を収めても、芥子が大きくなることもなく、須弥山が小さくなることもない。浄名居士(維摩)の室はわずか一丈四方であったが、そこに高さ八万四千由旬の高座を三万二千も入れたという。あなたの心に大小の相がなければ、あの竹筒で大海をも汲み尽くせるだろう。ならば、あの坊主の心が狭いのではない。あなたの心が狭いのだ。私もまだ不思議解脱を証していないので、大小の相は見えるが、この理を信じ理解することがはっきりしているから、あなたのように悪い思いを起こすことはない。この僧はこれを聞いてから後は、あの湯汲みを見ても悪い思いがまったく起こらなかったと言った。ただ湯汲みの大小だけではない。果報の大小、寿命の長短、財宝の多少、官位の高下、世の中の治まり乱れ、人間関係の怨みと親しみ、こうした世の事はさまざまであるが、ただ一念の迷いの情に浮かんだものにすぎない。夢まぼろしの姿である。この幻の相の上で、これを取りあれを捨てようと苦労する暇があるなら、この幻の相を分別する自分の心の計らいを投げ捨てるがよい。もしこの分別と計らいを忘れ得たなら、果報の大小や寿命の長短などだけでなく、浄土と穢土、凡夫と聖賢の隔てもなくなる。何を嘆き、何を喜ぶことがあろうか。しかし、もし自分の心の計らいを投げ捨てることができず、世間の幻の相に心を乱すときは、よくよく思い返しなさい。果報が大きく、寿命が長く、財宝が多く、官位が高く、怨敵もなく治まった世にあっても、天上の果報には及ばない。たとえ天上の果報に等しくても、いつまでも続くものではないから、すばらしいと思うことはない。またもし、果報も官位もみな賤しい身となり、乱れた世に落ちぶれて暮らしても、さすがに人間であるから、四つの悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)の果報にはまさっていると思って、歎いてはならない。まして仏法に会えた大きな喜びがある。どうして世俗の小さな利を心にかけようか。こうした教えは、教門の中に種々の因縁や譬えで説き置かれている。ただ教門の中だけではない。禅宗を挙揚される祖師たちも、やはり勧められている。達磨大師は、仏法に悟り入る人について、理入と行入の二つを立てられた。理入とは、修行を借りず、直ちに本分にかなう人である。行入とは、本分の教えを聞いて信じ理解してはいるが、まだ相応する分のない人のために、方便なき方便を設けて、相応させる手だてである。これについて四行を説いた。一つには報怨行、二つには随縁行、三つには無所求行、四つには称法行である。世間のあらゆる貴賤男女の中に、自分の心に合わず、自分に怨みをなす人がいて、さらに畜生や鬼の類の中にも、自分に毒害をなす者がいる。人間の八苦の中の怨憎会苦というのがこれである。これらはみな、前世に彼らを怨んだ報いである。あるいは貧苦や病苦に責められるのも、自分のけちや戒を破った報いであると思って、怒ることもなく、悲しむこともない。このような心に安住することを報怨行と名づける。

解説

同じ寺の僧が、近所の教院の竹筒の湯汲みを見ては、その坊主の心が狭いと悪口を言う。夢窓は、大小の相は物にあるのではなく人の情にあると応じ、狭いのはあなたの心だと言い切ります。維摩の方丈の室に大きな高座が収まった故事は、見方次第で世界の大きさが変わることの例えです。果報や官位の差も、上を見ても下を見ても相対的なものだと示し、達磨の四行のうち報怨行へ話をつなぎます。他人の小ささを責めたくなるとき、それは自分の物差しの小ささかもしれません。評価や比較で心が乱れたときの、視点の置き直し方を教える一節です。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

大小の相不思議解脱維摩報怨行四行果報

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