夢中問答集 / 『夢中問答集』堕落した僧を供養する意味
問末代は禪敎律の僧も皆名利に走りて、行道にはすたれたり。かやうの僧を供養せらるゝ事あたらず。かやうの僧の居所を伽藍とてさのみ所領をよせられ、修造とて人をわづらはし給ふ事無益なりと申す人あり、其の謂れありや。 答末世に生をうくる人は皆宿善つたなき故に、涯分の果報才覺なんどのおはする人も、其の先祖に及び給へるはすくなし。若し、先祖に及ばざる人をば皆退られんには、公家武家にめしつかはれ給ふ人もまれなるべし。先祖に及び給はぬといへども、さすがに其の子孫として家風今にのこれる故に、王法もいまだたえず武威も亦つたはれり。僧家も又かくのごとし。古の大師先德には及び奉らずといへ共、さすがに其の門葉相續せる故に、敎禪の宗風いまだ斷絕せず、佛在世の時は、生身の如來を佛寶となづけ、其の金口の說法を法寶と稱し、其の佛化を助け給ひし賢聖を僧寶と號す。佛滅後末法の時は、木像繪像等を佛寶と敬ひ文字にかきつたへたる經論を法寶と信じ、髮をそり、袈裟をかけたる者を僧寶と崇むべし。是れ卽ち末世住持の三寶なりと聖敎に定め置かれたり。眞實の三寶は塵汝法界に遍滿し給へども、末世に生れたる人は皆な宿善うすき故に、かやうの佛僧をおかむこともなし。其の法門を聽聞することもあたはず。しかれ共、繪にかき木をきざめる佛像を禮拜し、文字にてかき傳へたる經論を受持し、かみをそり、けさをかけたる僧侶を供養し給ふは、ありがたき善緣にあらずや。釋迦の法は滅亡し、彌勒はいまだ出で給はざるに佛の中間に生れたらん人は、三寶の名字をだにも聞くべからず。況んや今のごとくなる善緣をもむすばんや。若し人末世の住持の三寶を供養せらるゝ信心のふかき事、佛在世の三寶を供養せし人にかはらずぱ功德をうる事も、亦たがはるべからず。然らば卽ち僧寶のおとろへたる事をそしり給はんよりは、自身の信心の古に及ばざる故に佛法をも輕忽し、僧侶をも誹謗して罪業をまねく因緣とはなれ共、功德を得る福田にはあらざる事を歎き給ふべし。若し、今時の僧は羅漢菩薩のごとくにもあらず。大師先德にも及び奉らずとて捨給はゞ、何ぞたゞ僧法のみならんや。いかばかり結構して造り立て繪かき奉る佛像も、生身の如來にこれをたくらへ奉らば、百千無量の一分にも及ぶべからず。眞實の法門は文字言說をはなれたる故に、かき傳へたる經卷は眞詮にあらず。しかるを眞佛眞詮にはあらぬ佛像經卷をばさすがに信心を致し給へる人も、僧寶をば眞僧にあらずとて、一向にきらひ捨給ふ事其の謂れあるべしや。若し、しからば末世の住持の三寶は唯二寶のみありて、一寶はかけぬべし。若し又末世の住持の三寶は皆ないたづら事と申されば是れ卽ち、天魔外道也とかく申すに及ばず、大集月藏經に云く、未來末世の時、我が法の中において頭をそりて袈裟をかけたりといへ共、禁戒を破りて放逸なる者あるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆是れ佛子なり。これを謗せば佛を謗ずるなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せば、是の人無量の福を得べし。
新字:問末代は禅教律の僧も皆名利に走りて、行道にはすたれたり。かやうの僧を供養せらるゝ事あたらず。かやうの僧の居所を伽藍とてさのみ所領をよせられ、修造とて人をわづらはし給ふ事無益なりと申す人あり、其の謂れありや。 答末世に生をうくる人は皆宿善つたなき故に、涯分の果報才覚なんどのおはする人も、其の先祖に及び給へるはすくなし。若し、先祖に及ばざる人をば皆退られんには、公家武家にめしつかはれ給ふ人もまれなるべし。先祖に及び給はぬといへども、さすがに其の子孫として家風今にのこれる故に、王法もいまだたえず武威も亦つたはれり。僧家も又かくのごとし。古の大師先徳には及び奉らずといへ共、さすがに其の門葉相続せる故に、教禅の宗風いまだ断絶せず、仏在世の時は、生身の如来を仏宝となづけ、其の金口の説法を法宝と称し、其の仏化を助け給ひし賢聖を僧宝と号す。仏滅後末法の時は、木像絵像等を仏宝と敬ひ文字にかきつたへたる経論を法宝と信じ、髪をそり、袈裟をかけたる者を僧宝と崇むべし。是れ即ち末世住持の三宝なりと聖教に定め置かれたり。真実の三宝は塵汝法界に遍満し給へども、末世に生れたる人は皆な宿善うすき故に、かやうの仏僧をおかむこともなし。其の法門を聴聞することもあたはず。しかれ共、絵にかき木をきざめる仏像を礼拝し、文字にてかき伝へたる経論を受持し、かみをそり、けさをかけたる僧侶を供養し給ふは、ありがたき善縁にあらずや。釈迦の法は滅亡し、弥勒はいまだ出で給はざるに仏の中間に生れたらん人は、三宝の名字をだにも聞くべからず。況んや今のごとくなる善縁をもむすばんや。若し人末世の住持の三宝を供養せらるゝ信心のふかき事、仏在世の三宝を供養せし人にかはらずぱ功徳をうる事も、亦たがはるべからず。然らば即ち僧宝のおとろへたる事をそしり給はんよりは、自身の信心の古に及ばざる故に仏法をも軽忽し、僧侶をも誹謗して罪業をまねく因縁とはなれ共、功徳を得る福田にはあらざる事を嘆き給ふべし。若し、今時の僧は羅漢菩薩のごとくにもあらず。大師先徳にも及び奉らずとて捨給はゞ、何ぞたゞ僧法のみならんや。いかばかり結構して造り立て絵かき奉る仏像も、生身の如来にこれをたくらへ奉らば、百千無量の一分にも及ぶべからず。真実の法門は文字言説をはなれたる故に、かき伝へたる経巻は真詮にあらず。しかるを真仏真詮にはあらぬ仏像経巻をばさすがに信心を致し給へる人も、僧宝をば真僧にあらずとて、一向にきらひ捨給ふ事其の謂れあるべしや。若し、しからば末世の住持の三宝は唯二宝のみありて、一宝はかけぬべし。若し又末世の住持の三宝は皆ないたづら事と申されば是れ即ち、天魔外道也とかく申すに及ばず、大集月蔵経に云く、未来末世の時、我が法の中において頭をそりて袈裟をかけたりといへ共、禁戒を破りて放逸なる者あるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆是れ仏子なり。これを謗せば仏を謗ずるなり。これを害せば仏を害するなり。若し人これを供養し護持せば、是の人無量の福を得べし。
書き下し
問末代は禪敎律の僧も皆名利に走りて、行道にはすたれたり。かやうの僧を供養せらるゝ事あたらず。かやうの僧の居所を伽藍とてさのみ所領をよせられ、修造とて人をわづらはし給ふ事無益なりと申す人あり、其の謂れありや。 答末世に生をうくる人は皆宿善つたなき故に、涯分の果報才覺なんどのおはする人も、其の先祖に及び給へるはすくなし。若し、先祖に及ばざる人をば皆退られんには、公家武家にめしつかはれ給ふ人もまれなるべし。先祖に及び給はぬといへども、さすがに其の子孫として家風今にのこれる故に、王法もいまだたえず武威も亦つたはれり。僧家も又かくのごとし。古の大師先德には及び奉らずといへ共、さすがに其の門葉相續せる故に、敎禪の宗風いまだ斷絕せず、佛在世の時は、生身の如來を佛寶となづけ、其の金口の說法を法寶と稱し、其の佛化を助け給ひし賢聖を僧寶と號す。佛滅後末法の時は、木像繪像等を佛寶と敬ひ文字にかきつたへたる經論を法寶と信じ、髮をそり、袈裟をかけたる者を僧寶と崇むべし。是れ卽ち末世住持の三寶なりと聖敎に定め置かれたり。眞實の三寶は塵汝法界に遍滿し給へども、末世に生れたる人は皆な宿善うすき故に、かやうの佛僧をおかむこともなし。其の法門を聽聞することもあたはず。しかれ共、繪にかき木をきざめる佛像を禮拜し、文字にてかき傳へたる經論を受持し、かみをそり、けさをかけたる僧侶を供養し給ふは、ありがたき善緣にあらずや。釋迦の法は滅亡し、彌勒はいまだ出で給はざるに佛の中間に生れたらん人は、三寶の名字をだにも聞くべからず。況んや今のごとくなる善緣をもむすばんや。若し人末世の住持の三寶を供養せらるゝ信心のふかき事、佛在世の三寶を供養せし人にかはらずぱ功德をうる事も、亦たがはるべからず。然らば卽ち僧寶のおとろへたる事をそしり給はんよりは、自身の信心の古に及ばざる故に佛法をも輕忽し、僧侶をも誹謗して罪業をまねく因緣とはなれ共、功德を得る福田にはあらざる事を歎き給ふべし。若し、今時の僧は羅漢菩薩のごとくにもあらず。大師先德にも及び奉らずとて捨給はゞ、何ぞたゞ僧法のみならんや。いかばかり結構して造り立て繪かき奉る佛像も、生身の如來にこれをたくらへ奉らば、百千無量の一分にも及ぶべからず。眞實の法門は文字言說をはなれたる故に、かき傳へたる經卷は眞詮にあらず。しかるを眞佛眞詮にはあらぬ佛像經卷をばさすがに信心を致し給へる人も、僧寶をば眞僧にあらずとて、一向にきらひ捨給ふ事其の謂れあるべしや。若し、しからば末世の住持の三寶は唯二寶のみありて、一寶はかけぬべし。若し又末世の住持の三寶は皆ないたづら事と申されば是れ卽ち、天魔外道也とかく申すに及ばず、大集月藏經に云く、未來末世の時、我が法の中において頭をそりて袈裟をかけたりといへ共、禁戒を破りて放逸なる者あるべし。たとひかくのごとくの僧なりとも、皆是れ佛子なり。これを謗せば佛を謗ずるなり。これを害せば佛を害するなり。若し人これを供養し護持せば、是の人無量の福を得べし。
現代語訳
問:末代は禅・教・律の僧もみな名利に走り、修行は廃れてしまった。こうした僧を供養するのは当たらない。こうした僧の居所を伽藍といって、むやみに所領を寄進し、修造といって人を煩わせることは無益だと言う人がいる。その言い分に理があるか。 答:末世に生を受ける人は、みな前世の善根が拙いので、分に応じた果報や才覚などをお持ちの人も、その先祖に及ぶ人は少ない。もし先祖に及ばない人をみな退けるなら、公家や武家に召し使われる人も稀になるだろう。先祖に及ばないとしても、さすがにその子孫として家風が今に残っているので、王法も未だ絶えず、武威も伝わっている。僧家もまたそうである。昔の大師や先徳には及ばなくても、さすがにその門葉が続いているので、教や禅の宗風がまだ断絶していない。 仏がこの世におられた時は、生身の如来を仏宝と名づけ、その金口の説法を法宝と称し、その仏の教化を助けた賢聖を僧宝と呼んだ。仏の滅後、末法の時には、木像や絵像などを仏宝として敬い、文字に書き伝えた経論を法宝として信じ、髪を剃り袈裟をかけた者を僧宝として崇めるべきである。これがすなわち末世住持の三宝であると、聖教に定め置かれている。真実の三宝は、塵のように無数の法界に遍く満ちておられるが、末世に生まれた人はみな前世の善根が薄いので、このような仏や僧を拝むこともない。その法門を聴聞することもできない。それでも、絵に描き木に刻んだ仏像を礼拝し、文字で書き伝えた経論を受持し、髪を剃り袈裟をかけた僧侶を供養なさるのは、ありがたい善縁ではないか。釈迦の法は滅亡し、弥勒がまだお出になっていない、その仏と仏の中間に生まれた人は、三宝の名前さえ聞くことができない。まして今のような善縁を結ぶことなどできようか。 もし人が末世住持の三宝を供養される信心の深さが、仏在世の三宝を供養した人と変わらないなら、功徳を得ることもまた変わらないはずである。そうであれば、僧宝が衰えたことを誹られるよりも、自分の信心が昔に及ばないために、仏法を軽んじ、僧侶を誹謗して罪業を招く因縁とはなっても、功徳を得る福田にはならないことを嘆かれるのがよい。 もし今の僧は羅漢や菩薩のようではない、大師や先徳にも及ばないといって捨てられるなら、どうして僧法だけの問題だろうか。どれほど立派に造り立てて絵に描き奉る仏像でも、生身の如来に比べれば、百千万億の一分にも及ばない。真実の法門は文字や言説を離れているので、書き伝えた経巻は真の教えそのものではない。それなのに、真の仏でも真の教えでもない仏像や経巻には、さすがに信心を致されている人が、僧宝だけは真の僧ではないといって、ひたすら嫌い捨てられることに、その理があるだろうか。もしそうなら、末世住持の三宝は二宝だけがあって、一宝は欠けることになる。もしまた末世住持の三宝はみな無駄ごとだと言われるなら、これはすなわち天魔外道である。とやかく言うに及ばない。 大集月蔵経に言う。未来の末世の時、我が法の中で頭を剃り袈裟をかけていても、禁戒を破り勝手気ままに過ごす者がいるだろう。たとえそのような僧であっても、皆これ仏の子である。これを謗れば仏を謗ることになる。これを害すれば仏を害することになる。もし人がこれを供養し護持するなら、その人は無量の福を得るだろう、と。
解説

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夢中問答集・『夢中問答集』僧の過ちをそしる罪と悲田たとへば世人の眞金を無價の寳とするがごとし。若し眞金なければ銀を無價とす銀なければ銅を寳とす。銅なければ鐵を寳とす、鐵なければ白鑞等を寳とす。佛法も亦かくのごとし。佛を無上の寳とす、佛なき時は菩薩を無上とす。菩薩なければ羅漢を無上とす、羅漢なければ得定の凡夫を無上とす。得定の人なければ持戒の人を無上とす。持戒の人なければ汚戒の人を無上とす、汚戒の者なければ頭をそり袈裟をかけたる者を無上寳とす。餘の外道にたくらぶれば、最尊第一なり。汝等諸天諸龍諸夜叉我が弟子を擁護して佛種をして斷絕せしむる事なかるべしと云云。如來の哀憐かくのごとし。僧の行儀のあしければとて如來の遺屬にそむき給ふべからず。酒に醉へる人をみれば目もくらくなり、足もよろほひ舌もすくみ、心も狂ずかゝる過失をばかねてしりたれ共、酒を愛する人はすべてうとます、其の中に其の過失をみて酒をにくむ人ば、たゞこれ本より下戶にて酒を愛せざる故なり。僧の過失をみて佛法をうとむ人は、佛法の下戶なる故にあらずや。衆生の功德を出生する者のをば福田となづく。これに二種あり。悲田と敬田となり。聖賢を歸敬して物を施し奉るは敬田なり。下賤の人乃至畜生等を悲愍して物を施するをば悲田となづく。たとひ無智放逸の僧なりとも、これを供養し給はゞ、悲田の功德を得給ふ分なからんや。木のきれをそのまゝにて打置たる時は、善にもならず惡にもならず。若し此の木のきれを佛の形にきざみて眞佛の想に住して恭敬し奉れば、功德をうること眞佛にことならず。若し又此の木像を輕慢し奉れば、罪業をうることうたがひなし。心もなき木のきれだにもかくのごとし。况んや人たる者のは皆佛性ありたとひ無智無慚の僧なりとも、信敬せられば福田となり。誹謗せられば罪業をまねき給はんこと疑あるべかちず。梵網經には五百羅漢を別請せんよりは、尊卑親疎をゑらはずして、一人の凡夫僧を次第請にする事は、其の功德まされりと說けり。たゞし善知識にたのみて出離の要道を聞かんためならば、道德ある人を別請するともくるしからじといへり。僧の破戒無慚なるを見て、これを誹謗して、我れは在家人なればかやうなるもくるしからずと思ひ給へるは僻案なり。一生の報命つきて、閻魔王の前に到り給はん時、此の人は俗人なれば日來の罪業もくるしからずとて、地獄に入ることを免し給はんや。聖敎に佛弟子の過をそしるを制することは、かならずしも佛弟子をかたひくよしにはあらずこれを謗して佛法を破滅し、大罪をうることを制せんためなり。かやうの法門は俗人の御ために申すことなり。さればとて僧家の破戒無慚なるをくるしからずと申すにはあらず。俗人は僧家のふるまひの正理ならぬを見て、誹謗の罪業をわすれ給へり。僧家は又俗人の誹謗し給ふことは、我等が正理ならぬとがなりとはかへりみず、僧をそしり、法をかろしめ給ふひが事なりと、とがめ申さるあはれげにうちかへして僧家の心をば俗人につけ奉り、俗人の心をば僧家にもち給へる事ならば、濁世もやがて正法となりなまじ。
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『正法眼蔵随聞記』巻一問て云く、近代在家人、衆僧を供養し、仏法を帰敬するに、多く不吉のこと出来るに依て、邪見起り三宝に帰せじと思ふ、いかんと、答て云く、是は衆僧仏法の答にはあらず、便ち在家人自らの錯なり、其の故は、仮令人目ばかりに持戒持斎の僧をば貴び供養し、破戒無慚の飮酒食肉等するをば不当なりと思ふて供養せず、此の差別の心寔とに仏意にそむけり、故に帰敬の功もむなしく感応もなきなり、戒の中にも処々に此の心を誠めたり、
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『正法眼蔵随聞記』巻三一日示して云く、人は必す陰徳を修すべし、陰徳を修すれば、必す冥加顕益あるなり、設ひ泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をは敬ふべし、黄巻赤軸の荒品なりとも、経教をは帰敬すべし、破戒無慚の僧侶なりとも、僧体をは仰信すべし、内心に信心を以て敬礼すれば、必ず顕福を蒙るなり、破戒無慚の僧、疎相の仏、麁品の経なればとて、不信無礼なれば必ず罰を蒙るなり、然あるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像経巻僧侶なり、故に帰敬すれば必ず益あり、不信なれば罪を受るなりいかに希有に浅猿くとも、三宝の境界をは帰敬すべきなり、
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夢中問答集・『夢中問答集』学解は優れど行いは凡夫問末代なりといへ共、內典外典の血脈相承たへず。各先德の意趣を解了して、其の家の法門を無窮に談ずる人はあれ共、儒者の中にも孔孟のごとく。心に五常を存する人もなし。佛敎の諸宗を學する人も、其宗の先德の行儀にも似ず。禪門の下語說禪機辨自在なる人も、死生禍福の間において、古人のごとく繫縛せられさるはまれなり。法門の相承は古今かはらずといへ共、學者の行儀は勝劣同じからざる事は何ぞや。 答經に云く、若し人多聞ありといへども、修行せざれば愚人にことならずと云云。世間の諸事も其の義を心得て人に語る事はやすく、其の語のごとく其の事をなす事はかたし。番匠のしわざ造作のたくみは、われ〱までも常の番匠にはおとらじと存ずれども、まことに手斧かんなを取て木をけづる事はかなはず。其故は番匠の家業をつぐべきことゝ思はねば、其しわざを稽古したることのなき故なり。此分にては下品の番匠の內にも入るべからず。番匠の家に生れたる者は幼少の時より、其のしわざを練磨するが故に、いかに非器なる者もさすがに、其の家業をつげる分はあり、今時內外典を相承する人は其家の才學をのみ論じて心を修する練磨なし。先德のごとくならざることは偏に是れ此故なり。昔孔子世に出て五常の道を述べられし時、其の門弟となれる人面々に其仁義禮智信の理を心にかけて修練しき、某人は仁を學び得たり。某人は義を學び得たりと孔子の印證し給ひしは、其の心に仁あり義ある人の事なり。たゞ仁義の才學をのみ談論して、心に仁義なき人をば印證し給ふことなかりき。今時儒敎を學び給ふ人は、たゞ仁義のいはれを習ひ得つれば、我は儒敎の達者なりと思ふて、仁義の道を心に修練せらるゝことなし。この故に仁義の才學は孔孟にもおとらぬやうに見ゆれども、其の心に仁義のかけたることは、つねさまの愚人とかはれる所なし。佛敎も亦かくのごとし。佛在世の時なればとて、人ごとに皆上根にして、やがて解脫自在を得たることなし。しかれども中下根の人も如來の法門を聽聞して、其の聞解のごとく修練せし故に、分に隨つて益を得ざる人はなかりき。佛滅後にも上古には一宗の法門を聞く人面々に、其の宗に敎へたるごとく修行せし故に、皆得益の分ありき。其故は利鈍ことなりといへども、宿殖深厚の人の佛法を信ずることは、偏に出離生死化度衆生のためにして、世俗の名利をかへりみることなかりし故なり。末代に生れたる人は宿熏淺薄なる故に、在家の人の中にたま〱佛法を信じ給ふも、大略は世俗の名利のためなり。出家の形になりて佛法を學する人も多くは、是れ榮耀名譽のためなり。しかれば修練の功をつまるゝ事もなし。只偏に諸宗の義理をだにも學び得つれば各滿足の思をなし給へり。故に學解のまさるに隨つて我慢も亦高し、つねさまの凡夫はたゞ人我ばかりあり。佛法を學せる人は本の人、我の上にかさねて法我を添へたり。この故に法門を談論することは上古の先德にもおとらず。行儀を較量すれば下賤の凡夫とかはりめなし。番匠鍛冶等の才藝を學ぶ者はたとひ、其才學を吐く辨說は拔群なりとも木をけづるてうはうもなく、釘をだにつくりえぬ分劑ならば、鍛冶番匠の內にも入るべからず。況んや此の才學をたのみて世をわたる活計とせんや。然らば卽ち彼等が家に生れたる者は、幼少より其の業を練磨するほどに末代までも上古に恥ることなし。內外典を學し給ふ人も、かやうにだにならば何ぞ上古にはづることあらんや。たとひ鈍根にして、やがて解脫自在をこそえずとも、などかつねさまの凡夫よりも人情我執のやはらぐ分はなからんや。しかれども今時はたゞ人に勝れたる學解だにあれば、其の心の邪僻なるをもかへりみず。其の行の浮淺なるをも耻給はざれば、諸宗の學者の先德のごとくにおはせぬこそ、ことはりなれ。古人云く一丈を說得せんよりは一尺を行取せんにはしかじと云云。然らば卽ち禪門の宗師同く一切の學解を放下して自ら參じ、自ら究めよとすゝめ給へり。しかるを今時禪門の學者もまた語錄をよみ、文章をたしなみて其の中の才學日來よりまされる所あれば、大我慢をおこして眞實の悟入なき事をば耻らるゝことなし。是故に敎門禪宗の所學ことなりといへども、祖師先德の行儀にそむける事は、是れ同じ是れ卽ち末世法滅の相なり。なげかしきことのこれよりも、まされるはあるべからず。
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万民徳用・三寶之德用・三寶の威光仏出世あつて、仏法僧の三宝を世界に施し給ふといへども、出家に出離の修行なき時は、三宝の威光隠て、世界の功徳なし。三界をいづるをもつて出家と名を得たり。若し出離の修行なくは、出家に非す。去れば医師は肉身の病を治し、仏弟子は煩悩業苦の心病を治する役人なり。真実の道心なくは叶ふべからす。仏の大法、世間の宝にあらずは、三宝の名も偽となるべし。
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夢中問答集・『夢中問答集』檀那の祈祷と信心の深さ問佛言く佛法をば國王大臣有力の檀那に付屬す。然れば檀方つゝがなくして佛法も紹隆すべし。僧家も檀方の祈をせられんは何ぞ、理にそむかんや。 答佛の付屬し給へる意は國王大臣等、或は外護となり、或は檀越となりて佛法を流通し、自もまた此の佛法に入て出離せよとの謂れなり。此の佛法を以て世俗の名利をいのり給へとて付屬し給へるにはあらず。然らば、卽ち世上もおさまり、檀門もつゝがなくして佛法を紹隆し、衆生を利益せんために御祈りをせよと仰られ、僧家も此志をはげまして御祈りを申されば、佛の付屬にそむくべからず、末代といへどもさすがに佛法の運もひかへたる故に、禪敎律の僧をば軍勢にもかられず、世間の公務にもめしつかはれずして、御祈りを申せと仰せらるゝことは、皆善事なればたとひ御公事につとむるとも、僧家あながちにいさみ申すべきにはあらず。しかれ共、近年世の亂によりて關東京都御祈禱とてなさるゝ事なのめならず。されどもその作法を見奉れば、此式にてはいかでか御祈りにもなるべきやと覺へたり。因緣和合し、感應道交して一切のは事を成就すといへる事は佛敎の定判なり。古の大師高僧の、國家をいのり災厄をはらひ給ふことはこれを方便門として、衆生を攝引して、大菩提を證せしめんためなり。我が身の名利のためにいのり給ふこと更にあるべからず。此れ大慈悲の德を內につゝみ給へるによりて、國王大臣の歸崇も他にことなり、下賤の類にいたるまでも同く信仰し奉る。然らば卽ち萬人信力高僧の慈力佛力法力感應道交し、因緣和合せし故に、靈驗むなしからず。祈願皆成しき今は僧家の內德も古に及ばず、檀方の御信もことおろそかなり。此故に僧家をば佛法方の奉公にめしつかはるゝよしにて、御祈禱の課役をかけらるゝ事世俗の御公事にことならず、大法祕法を行なはるれ共、供料ごときの御沙汰も如法ならず、とりわきたる御祈りとて、たま〱施物も下行あるべしと仰せ出ださるれども、大略は有名無實なり。御祈禱ばかりにもあらず、御佛事とて修せらるゝ事も亦此の式なり。これ偏に佛法の御信心のうすき故なり。かやうならばいかでか御祈禱もかなひ御善根も成すべきや、近來鎌倉に智光といふ唐人あり、醫道に名を得たり。ある時、蘇香圓を合せけるに、傍らに人ありて此藥をなめてみんとて、少分つみかきて口に入れけるを見て、智光あたら藥をすこしなめ給ふことよ、猶服し給へと申けり。其の人心得ず思ふて、其の故を問ければ、藥は皆一服の分量定まれり、その分量にたらずして服しぬれば藥は費てその效しなし、とても服し給はゞ藥となるやうに服し給へと申すなりと答へけり。智光が申せるがごとく、とても御祈禱御佛事とてなさるゝあたらことを同じくは其效もあるやうに御沙汰もあれかしと申すなり。御祈禱の成否も善根の大小も偏に、御信心の淺深によるべし。施物の多少によるべからず。しかれば諸人の歎きもなく、三寶も感じ給ふやうに、御祈禱をも御佛事をも修せられば、目出たき御事なるべし。佛法は國王大臣有力の檀那に付屬すと說ける事は、下賤の人は各の宿習にまかせて、何れの法にても一宗を信じぬれば、出離の要道不足なし。然れども外護となり、檀那となりてあまねく佛法を流通することあたはず。この故に國王大臣有力の檀那に付屬すとの給へり。然らば卽ち此の付囑をうけ給へる人は、偏に一法をのみ御信じありて、餘宗をすて給ふ事あるべからず。たとひ諸宗をもらさず信じ給ふ共、若し、又諸の佛法を以てたゞ世俗の御祈りにあてさせ給はゞそれも亦よろしからず。末代なりといへどもかたじけなく如來の御付囑にあたり給へるはうれしき御事にあらずや。先づ佛の付屬にそむかじと大願を發して、外には大小の伽藍を興隆し、內には眞實の道心に安住して、諸宗を流通して、普く善緣を結び、萬人を引導して同じく覺果を證せしめんとふかく誓ひましますべし。若し、爾らば乃し是れ眞實の御祈禱廣大の御善根なるべし。十善五戒の宿熏によりて、國王大臣有力の檀那とならせ給へるも、併しながら三寶の恩力なり。若し又佛の付屬にそむきましまさば佛の付屬をうけざる下賤の人とことならじ。