驢鞍橋 / 卷上
一日去る人云ふ、今時無欲に見えたる者、死期惡き事多し。又欲深き抔と人に云はれたる者、結句死期よき事あり。是れ何れの道理なりや。師聞て曰く、無欲のやうに仕成して人によく云はれたる者、名聞深く娑婆の機の强き人也。此故に死期惡し。亦欲深く見えて人に惡く云はるゝ者死期能きは、名聞薄く娑婆執着の念輕き人なるべし。徒然草の芋喰坊主抔にて知るべしと也。因に語て曰く、善人惡人は必ず死後に知る物也。善人の死したる後は、さつはとして淸淨の機移る物也。惡人の死したる後は何とやらんすさまじき物也。
新字:一日去る人云ふ、今時無欲に見えたる者、死期悪き事多し。又欲深き抔と人に云はれたる者、結句死期よき事あり。是れ何れの道理なりや。師聞て曰く、無欲のやうに仕成して人によく云はれたる者、名聞深く娑婆の機の强き人也。此故に死期悪し。亦欲深く見えて人に悪く云はるゝ者死期能きは、名聞薄く娑婆執着の念軽き人なるべし。徒然草の芋喰坊主抔にて知るべしと也。因に語て曰く、善人悪人は必ず死後に知る物也。善人の死したる後は、さつはとして清浄の機移る物也。悪人の死したる後は何とやらんすさまじき物也。
書き下し
一日去る人云ふ、今時無欲に見えたる者、死期悪き事多し。又欲深き抔と人に云はれたる者、結句死期よき事あり。是れ何れの道理なりや。師聞て曰く、無欲のやうに仕成して人によく云はれたる者、名聞深く娑婆の機の强き人也。此故に死期悪し。亦欲深く見えて人に悪く云はるゝ者死期能きは、名聞薄く娑婆執着の念軽き人なるべし。徒然草の芋喰坊主抔にて知るべしと也。因に語て曰く、善人悪人は必ず死後に知る物也。善人の死したる後は、さつはとして清浄の機移る物也。悪人の死したる後は何とやらんすさまじき物也。
現代語訳
ある日、ある人が言った。今どき無欲に見える者が、臨終の悪いことが多い。また、欲深いなどと人に言われた者が、かえって臨終がよいことがあります。これはどういう道理でしょうか。師は聞いて言われた。無欲のようにふるまって人に良く言われた者は、名聞が深く、娑婆の気迫の強い人である。だから臨終が悪い。また、欲深く見えて人に悪く言われる者の臨終がよいのは、名聞が薄く、娑婆への執着の念が軽い人なのだろう。『徒然草』の芋好きの坊主などで知りなさい、と。ついでに語って言われた。善人と悪人は、必ず死後に分かるものである。善人が死んだ後は、さっぱりとして清らかな気迫が移ってくる。悪人が死んだ後は、何となくすさまじいものである、と。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『驢鞍橋』卷上一日僧問ふて曰く、一つ凡夫にして悲みて死すると、亦何とも思はす死するとは、何れが是ならんや。師答て曰、一様には云れす、乍去大すうを云はゝ、やれ死するか悲しやと云ひて死する者は、□亦死を何共思はぬは、まだ業の甚だしき者と思はるる也。其故は□をも、成敗に逢へども何とも思はざる物也。
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『驢鞍橋』卷上一日示して曰く、人毎に死を忘れて今日角有れば、明日も角有らんと思ふ。亦人人今ではあらじと思ふ物也。究めて聞き事也。左様に思ひ居たる者共皆死失せし也。彼等も時を知るにあらず、各各やうに思ひし者共也。此理を弁へずあだなる身を我身と思ひ、仮の娑婆を我娑婆と思ひ、万才楽と限りなく楽み居る也。如是思懸けなき処に、俄に闇魔の使ふと来り、五臓六腑を責破り、命を責め取る時、眼くらみ耳かすかにして、舌すくみ総身に死苦せまり、苦みの堪えがたきのみならず、命の惜しさ娑婆のなごりの惜しさ云ふ計りなく、前後暗くして何くへ行くと云ふ道やりなく、其時に悔ふるともかひあらんや。
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『驢鞍橋』卷上一日或る俗来て曰く、承り及ふ故に是れ迄伺候仕る、一句示し給へ。師曰く、一人虚を伝ふれば、万人実と伝ふとて何者かおどけ者有りて、正三こそ名誉者なれ抔といへば、末々に聞き伝へ、扨は空をも翅り、光をも放つか抔と思ひ、正三見物に来り、変も無き老人なるを見て、皆興を醒さるゝ也。誠に我何の変もなき土禅門也。只死度くも無き間、何とぞして殺さるゝ事有りとも、何とも思はす、頸を指出して自由に死ぬ程に成りたさに修する也。されとも死は置いて餓鬼畜生を出でぬ也。是れを出度く思ふ心は、何とも思はず居る者には增さるへき歟。別に人に增りたる事無し。其方も聞かんと思はゝ一向のしろうとに成りめさるへし。彼者、秘し給ふと思ひ弥示し給へと云ふ。師曰く、我仏法の能き事を知らず、只我悪敷事を能く知りたる也。我友に成り、出入めされば、何時も我処に有る餓鬼畜生を懺悔して聞かせ申すべし。実に是の外によき事を知らず、ひげして云ふかと思ひめされんずな。無間に沈むほうぞ知らぬ也。
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『驢鞍橋』卷上一日人来り曰く、我死せは其儘袋に入れて焼くへしと常々申付くる也。師聞て曰く、昔異国に世に知られたる兵有り、彼其方の如く遺言して其儘死骸を埋めしめたり。時の人是れを死ぬる事は得たれ共、からたを捨つる事を得すと、詩に迄作りて批判せし事有り。然る間其方も只捨てらるへし、願くは犬鳥に喰はせたるも好き也。
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『驢鞍橋』卷上一日去る処へ至り玉ふに、其家の代官知行処へ往くとて、途中にて少し煩ひ死しける由申来る。師聞き愕然として曰く、扨々不便千万の事哉、我をも娑婆をも実に有ると思ひ居て俄に死す。苦み計り難し、嘆痛敷事也。爰を以て思へは少し志有りて、今か今かと片腰懸けたる様にも思ひ居る者は、亦大なる徳也。其日さまざまの事有り、晩に至りて曰く、一日徒に飮食したり、闇魔王に腹を打破られんすよと也。
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『驢鞍橋』卷下又語て曰く、人死せは、先つ早くよき人に吊はせたきこと也。俗人になりとも、他念なく念仏を申させたし。その故は亡魂うろうろとして物に取着きたがるもの也。この時よき人に吊はせば、その儘善心に取着く筈也。悪知識に吊はせば、機忽ち悪に移るべし。はや悪に移りたる後に、善人に吊はするとも、善心移り難かるへき也。又曰く、生霊よりも、死霊は治めやすし。生霊は何としても体を持て居る間、念强くして、善機移ること遅し。死霊は体なく、中有にたゝよひ、何くへなりとも便り度思ふ間、善を修すれは、ひしとその機を得る也。