夢中問答集 / 『夢中問答集』身口意によらない修行とは
問此の宗の修行は身口の所作にあらずといふことは、其の謂あるべし。若し心を以てもなさぬことならば、何の故に工夫用心とは申すや。 答身口意を以て行せずと申せばとて、外道の悲想定小乘の滅盡定を修する人の身心を都て滅するには同じからず。凡夫の身心と思へる者は、空花のごとし。これを實有なりと計して、我れ身にて禮拜苦行し口にて經をよみ、呪を誦し。意にて觀行をすると思へるをきらふなり。般若經に眼耳鼻舌身意も無と說けるはこの義なり。大集經に云く、夫れ菩提とは身を以ても得べからず。心を以ても得べからず。身心は皆幻のごとくなるが故にと云云。般若三昧經に云く、心を以ても佛を得べからず。色を以ても佛を得べからず。又云く、身を以て得るにもあらず。智慧を以て得るにもあらずと云云。よのつねの愚人、色を見ることは眼の能なり。聲を聞くことは耳の德なり。乃至世出世の法を知ることは意のわざなりと思へり。この故に眼しいぬれば色を見す。耳つぶれぬれば聲をきかず。意ほれぬれば法をわきまへず。一念の妄執によりて、かゝる見と不見と聞と不聞と知と不知との差別を成せり。楞嚴經の中に六根をからずして、見聞覺知する證據を擧げていはく、阿那律は眼つぶれて後、三千世界を見ること掌の內なる物を見るがごとし。跋難陀龍は耳なくして聲をきく。恒河神は鼻なくして香をかぐ。橋梵波提は異舌にして味ひをなむ。虛空神は身なくして觸をしる。摩訶迦葉は六識を滅して圓明の了知ありと云云。かやうの法理をしらざる人は、眞實の修行は身口意の三業にあづからずといふことを聞きて耳を驚かせり。
新字:問此の宗の修行は身口の所作にあらずといふことは、其の謂あるべし。若し心を以てもなさぬことならば、何の故に工夫用心とは申すや。 答身口意を以て行せずと申せばとて、外道の悲想定小乗の滅尽定を修する人の身心を都て滅するには同じからず。凡夫の身心と思へる者は、空花のごとし。これを実有なりと計して、我れ身にて礼拝苦行し口にて経をよみ、呪を誦し。意にて観行をすると思へるをきらふなり。般若経に眼耳鼻舌身意も無と説けるはこの義なり。大集経に云く、夫れ菩提とは身を以ても得べからず。心を以ても得べからず。身心は皆幻のごとくなるが故にと云云。般若三昧経に云く、心を以ても仏を得べからず。色を以ても仏を得べからず。又云く、身を以て得るにもあらず。智慧を以て得るにもあらずと云云。よのつねの愚人、色を見ることは眼の能なり。声を聞くことは耳の徳なり。乃至世出世の法を知ることは意のわざなりと思へり。この故に眼しいぬれば色を見す。耳つぶれぬれば声をきかず。意ほれぬれば法をわきまへず。一念の妄執によりて、かゝる見と不見と聞と不聞と知と不知との差別を成せり。楞厳経の中に六根をからずして、見聞覚知する証拠を挙げていはく、阿那律は眼つぶれて後、三千世界を見ること掌の内なる物を見るがごとし。跋難陀竜は耳なくして声をきく。恒河神は鼻なくして香をかぐ。橋梵波提は異舌にして味ひをなむ。虚空神は身なくして触をしる。摩訶迦葉は六識を滅して円明の了知ありと云云。かやうの法理をしらざる人は、真実の修行は身口意の三業にあづからずといふことを聞きて耳を驚かせり。
書き下し
問此の宗の修行は身口の所作にあらずといふことは、其の謂あるべし。若し心を以てもなさぬことならば、何の故に工夫用心とは申すや。 答身口意を以て行せずと申せばとて、外道の悲想定小乘の滅盡定を修する人の身心を都て滅するには同じからず。凡夫の身心と思へる者は、空花のごとし。これを實有なりと計して、我れ身にて禮拜苦行し口にて經をよみ、呪を誦し。意にて觀行をすると思へるをきらふなり。般若經に眼耳鼻舌身意も無と說けるはこの義なり。大集經に云く、夫れ菩提とは身を以ても得べからず。心を以ても得べからず。身心は皆幻のごとくなるが故にと云云。般若三昧經に云く、心を以ても佛を得べからず。色を以ても佛を得べからず。又云く、身を以て得るにもあらず。智慧を以て得るにもあらずと云云。よのつねの愚人、色を見ることは眼の能なり。聲を聞くことは耳の德なり。乃至世出世の法を知ることは意のわざなりと思へり。この故に眼しいぬれば色を見す。耳つぶれぬれば聲をきかず。意ほれぬれば法をわきまへず。一念の妄執によりて、かゝる見と不見と聞と不聞と知と不知との差別を成せり。楞嚴經の中に六根をからずして、見聞覺知する證據を擧げていはく、阿那律は眼つぶれて後、三千世界を見ること掌の內なる物を見るがごとし。跋難陀龍は耳なくして聲をきく。恒河神は鼻なくして香をかぐ。橋梵波提は異舌にして味ひをなむ。虛空神は身なくして觸をしる。摩訶迦葉は六識を滅して圓明の了知ありと云云。かやうの法理をしらざる人は、眞實の修行は身口意の三業にあづからずといふことを聞きて耳を驚かせり。
現代語訳
問:この宗の修行は身・口の所作でないというのは、わけがあるだろう。もし心でもしないことなら、どうして工夫用心と言うのか。 答:身口意でしないと言うからといって、外道の非想定や小乗の滅尽定を修める人が身心をすべて滅するのと同じではない。凡夫が身心と思っているものは、空中の花のようだ。これを実在と考えて、自分は身で礼拝や苦行をし、口で経を読み呪を誦し、意で観行をする、と思っているのを嫌うのである。般若経に、眼・耳・鼻・舌・身・意もない、と説いているのはこの意味である。大集経に言う。そもそも菩提は、身でも得ることができず、心でも得ることができない。身心はみな幻のようだからである、と。般若三昧経に言う。心でも仏を得ることはできない。色でも仏を得ることはできない。また言う。身で得るのでもなく、智慧で得るのでもない、と。普通の愚かな人は、色を見るのは眼の働きである、声を聞くのは耳の徳である、世間と出世間の法を知るのは意のわざである、と思っている。このため、眼が見えなくなれば色を見ず、耳がつぶれれば声を聞かず、意がぼければ法を弁えない。一念の妄執によって、このような見と不見、聞と不聞、知と不知の差別をつくっている。楞厳経の中には、六根を借りずに見聞覚知する証拠を挙げて言う。阿那律は眼がつぶれた後、三千世界を見ること、掌の中の物を見るようであった。跋難陀竜は耳がなくて声を聞く。恒河の神は鼻がなくて香をかぐ。憍梵波提は異なる舌で味わう。虚空神は身がなくて触れるものを知る。摩訶迦葉は六識を滅して、円明な了知があった、と。こうした法理を知らない人は、真実の修行は身口意の三業に関わらないと聞いて、耳を驚かすのである。
解説

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