夢中問答集 / 『夢中問答集』福智を制する理由
問福を求むることを制するは道の障となる、因緣なれは實に其謂れあり、智慧は道のたすけとなるべし。然るを禪門に學解機智をきらふことは何の故ぞや。 答佛を兩足尊と申すことは、福智ともに滿足し給へる故なり。されば福智をきらふべきにはあらず。しかれ共、道人の福智を求むるを制することは世間の有爲の福業、有漏の妄智を捨て、出世無漏の法、財本有眞實の大智を得せしめんためなり。經敎の文によりて解了し、知識の語に隨ふて學得し、情識の上に思量し得たる智慧は、皆な是れ世間のさま〱の計りことをめぐらして、求め得たる福にことならず、一往は愚人よりも勝れたるに似たれども、其の智にさへられて悟を開くことあたはず、古人の云く、愚人は愚のためにさへられ、智者は智のためにさへらる、と云云。然らば則ち本分の大智は、人々本より具足すれども愚癡と智慧とにさへられて、現前せざることを信じて心識にうかぶところの法をも非法をも放下せば、かならず本分の大智に相應すべし。たとへば酒に醉ふたる人の忽ちに、醉さめて本心になるがごとし。
新字:問福を求むることを制するは道の障となる、因縁なれは実に其謂れあり、智慧は道のたすけとなるべし。然るを禅門に学解機智をきらふことは何の故ぞや。 答仏を両足尊と申すことは、福智ともに満足し給へる故なり。されば福智をきらふべきにはあらず。しかれ共、道人の福智を求むるを制することは世間の有為の福業、有漏の妄智を捨て、出世無漏の法、財本有真実の大智を得せしめんためなり。経教の文によりて解了し、知識の語に随ふて学得し、情識の上に思量し得たる智慧は、皆な是れ世間のさま〱の計りことをめぐらして、求め得たる福にことならず、一往は愚人よりも勝れたるに似たれども、其の智にさへられて悟を開くことあたはず、古人の云く、愚人は愚のためにさへられ、智者は智のためにさへらる、と云云。然らば則ち本分の大智は、人々本より具足すれども愚痴と智慧とにさへられて、現前せざることを信じて心識にうかぶところの法をも非法をも放下せば、かならず本分の大智に相応すべし。たとへば酒に酔ふたる人の忽ちに、酔さめて本心になるがごとし。
書き下し
問福を求むることを制するは道の障となる、因緣なれは實に其謂れあり、智慧は道のたすけとなるべし。然るを禪門に學解機智をきらふことは何の故ぞや。 答佛を兩足尊と申すことは、福智ともに滿足し給へる故なり。されば福智をきらふべきにはあらず。しかれ共、道人の福智を求むるを制することは世間の有爲の福業、有漏の妄智を捨て、出世無漏の法、財本有眞實の大智を得せしめんためなり。經敎の文によりて解了し、知識の語に隨ふて學得し、情識の上に思量し得たる智慧は、皆な是れ世間のさま〱の計りことをめぐらして、求め得たる福にことならず、一往は愚人よりも勝れたるに似たれども、其の智にさへられて悟を開くことあたはず、古人の云く、愚人は愚のためにさへられ、智者は智のためにさへらる、と云云。然らば則ち本分の大智は、人々本より具足すれども愚癡と智慧とにさへられて、現前せざることを信じて心識にうかぶところの法をも非法をも放下せば、かならず本分の大智に相應すべし。たとへば酒に醉ふたる人の忽ちに、醉さめて本心になるがごとし。
現代語訳
問:福を求めることを制するのが道の妨げとなる因縁であれば、確かにそのわけはわかる。しかし智慧は道の助けとなるはずである。それなのに禅門で学解や機智を嫌うのは、どういうわけか。 答:仏を両足尊と申すのは、福と智がともに満ち足りておられるからである。であるから、福や智を嫌うべきではない。しかし、道を修める人が福や智を求めることを制するのは、世間の有為の福業や有漏の妄智を捨て、出世間の無漏の法、すなわち本来具わる真実の大智を得させるためである。経教の文によって理解し、知識の語に従って学び取り、情識の上で思案して得た智慧は、みな世間のさまざまな計らいをめぐらして求め得た福と変わらない。一応は愚人よりすぐれているようだが、その智に妨げられて悟りを開くことができない。古人は「愚人は愚によって妨げられ、智者は智によって妨げられる」と言った。であるから、本分の大智は一人一人にもとから具わっているが、愚癡と智慧に妨げられて現れないと信じ、心識に浮かぶ法も非法も放下するなら、必ず本分の大智に相応するだろう。たとえば酒に酔った人が、たちまち酔いがさめて本心に戻るようなものである。
解説

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